本・書籍
2021/10/26 6:15

普通の人々の心の葛藤を描いたピュリッツァー賞受賞作がおもしろい——『オリーヴ・キタリッジの生活』

オリーヴ・キタリッジの生活』(エリザベス・ストラウト・著/早川書房・刊)は、アメリカで2008年に出版され、翌2009年にはピュリッツァー賞を受賞している。英語のタイトルは「オリーブ・キタリッジ」という主人公の女性の名前のみだ。

 

舞台はアメリカ、メイン州の架空の町・クロズビー。そこは小さな港町で、町の住民は皆知り合いという設定だ。オリーヴは傍若無人な数学教師で、その言動がさまざまな波紋を呼んでしまうタイプの人間。一方、その夫であるヘンリーは誰からも好かれる良い人だ。この夫婦が最初は中年として登場し、そして老いていくまでの、町の人々をも巻き込んだ人間模様を描いたのが本作で、ドラマ化もされている。アメリカの田舎の話だが、日本の小さな町にも起こりそうな人間関係や心の葛藤が見事に表現されているのだ。

オリーヴが主役にも端役にもなる連作短編集

本書は「薬局」「上げ潮」「ピアノ弾き」「小さな破裂」「飢える」「別の道」「冬のコンサート」「チューリップ」「旅のバスケット」「瓶の中の船」「セキュリティ」「犯人」「川」の13の短編から成っている。

 

ただ、短編集とはいえ順を飛ばして読まないほうがいい。一番最初の「薬局」は、町で薬局を営むヘンリー・キタリッジと店を手伝ってくれる気立てのいいデニースという若い女性の言動と心の動きがメインで、オリーヴは端役でしかない。なのでこの時点ではどうして表題がオリーヴ・キタリッジなのかわからないのだ。次の項も、その次の項もオリーブは端役。しかし、時々、登場するオリーヴの烈しい物言いに、読者が少しずつオリーヴは毒のある人物だとわかっていく仕掛けになっているのだ。

 

田舎町では子どもの成長が常に話題となる

オリーヴという女性がくっきりとわかってくるのが「小さな破裂」で、ひとり息子クリストファーの結婚披露パーティーが舞台だ。花婿の母として着飾っているが、その描写が自虐的なのだ。

 

オリーヴは図体が大きい。そういう自意識もある。ただ、もともと大きいのではなく、大きくなったのであって、いまだに馴染みきれないところはある。たしかに昔から背は高いほうで、間の悪い思いをすることも多かったのだが、こんなに大型化したのは年をとってからだ。足首がふくらんで、肩が盛り上がって、手首から先は男の手のようになった。もちろん気になる。ならないわけではない。ひそかに悩むこともある。だが、この期に及んで、食べる楽しみを我慢しようとは思わない。

(『オリーヴ・キタリッジの生活』から引用)

 

ちなみに全編を通してオリーヴの好物として出てくるのがダンキン・ドーナツなのが、いかにもアメリカらしい。

 

さて、物語では息子のクリストファーは二回結婚をする。どちらの妻も大人しい息子とは対照的な強い女性なのでオリーヴは気に入らないのだが、無意識にも彼は自分の母親のような女性を選ぶところがおもしろい。そして愛情を注いだかわいい息子は親からどんどん離れていく。最初の妻とはカリフォルニアへ行ってしまうし、その後、離婚をしたもののオリーヴの元には戻らず、再婚すると今度はニューヨークへ引っ越してしまうのだ。

 

72歳になってはじめて大都会へ

私がいちばんおもしろく読んだのが後半の「セキュリティ」。すっかり行き来がなくなった息子が母親との距離を縮めようとニューヨークに呼び寄せるのだ。

 

旅客機がツインタワーに突っ込んだ日には、寝室にへたり込んで赤ん坊みたいに泣いてしまった。あれはアメリカのために泣いたというよりは、ニューヨークのために泣いたのだと思う。このときばかりは、まったく疎遠でしかなかった硬質の都会が、幼稚園の一学級のように崩れやすく、恐怖の中で必死になっているように見えた。(中略)だが、時の流れというもので、ふたたびニューヨークという町は——オリーヴが遠くから見るかぎりでは——やはり昔と同じように、とくに行きたくもないところだった。一人息子が最近引っ越して、二人の子どもがいる女と再婚した町だとしても、行きたくて行くのではない。

(『オリーヴ・キタリッジの生活』から引用)

 

再婚相手はクリストファーの子、つまりオリーヴにとっての初孫をお腹に宿しているので、彼としては親子の関係をなんとか修復しようと試みるのだが、うまくはいかない。ある日、家族で出かけ、皆でアイスクリームを食べたが、そのとき、オリーヴが気がつかない間にアイスがたれてブラウスにシミができた。が、それを誰も教えても拭いてもくれなかったという些細な出来事にオリーヴはショックを受ける。

 

かつて叔母さんが同じようにアイスを服にこぼすのをオリーヴはみっともないものだと見ていた。そしてその叔母さんが亡くなったときには、もう哀れな光景を見なくてもよいとほっとした記憶が蘇り、同じことがわが身に起こったことに耐えられなくいなってしまうのだ。

 

「初めからクリストファーに言ってあったのよ。あたしの賞味期限はせいぜい三日で、そのあとは魚が腐ったみたいになるんだわ」

(『オリーヴ・キタリッジの生活』から引用)

 

こうして母と息子の関係はあっけなく崩壊。さらに帰りの空港のセキュリティでは破れたパンストを隠したくて靴を脱ぐことを拒否し、「飛行機が爆発したってかまうもんですか。」などと暴言を吐いてしまい別室へ連行されるはめに……。著者のストラウトは、老いていく悲しさ、それに伴う恥がとんでもない方向に向かってしまうことを見事に描いている。

 

この他、一見、何も起こりそうにない田舎町というのどかな環境でも数々のドラマを生む。オリーヴが端役で登場する短編にも、出会いがあり別れがあり、羨望や嫉妬も渦巻き、どの話にも読み手はグイグイ引き込まれる。小さな町では住民全員が知り合いというのもいいようで、実はやっかいなものだったりするし、よそ者は好奇の目にさらされる。そんな普通の人々の人生に「起きてしまう」ことを、静かに、淡々と語っていく本書には、多くの人が共感できると思う。

 

アメリカらしい、そして、さすがピュリッツァー賞受賞作と思わせる本書、あなたも是非ご一読を。

 

【書籍紹介】

 

オリーヴ・キタリッジの生活

著者:エリザベス・ストラウト
発行:早川書房

アメリカ北東部にある小さな港町クロズビー。一見何も起こらない町の暮らしだが、人々の心にはまれに嵐も吹き荒れて、いつまでも癒えない傷痕を残していくー。住人のひとりオリーヴ・キタリッジは、繊細で、気分屋で、傍若無人。その言動が生む波紋は、ときに激しく、ときにひそやかに周囲に広がっていく。人生の苦しみや喜び、後悔や希望を静かな筆致で描き上げ、ピュリッツァー賞に輝いた連作短篇集。

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