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歴史
2021/12/10 6:15

じつは化石の宝庫の沖縄で、旧石器時代のドラマとロマンに魅了される−−『島に生きた旧石器人 沖縄の洞穴遺跡と人骨化石』

今から30万年前、人間の祖先はアフリカで暮らしていたと言われています。その中の一部の人びとが故郷を離れ、移動を開始しました。その波は東アジアにまで及び、4万年前、もしくは3万年前ごろ、海を渡って沖縄の島々に到達したとのことです。学生のころにそれを知った時、いつかは沖縄に行き、遺跡を見てみようと決心しました。けれども、その後、結婚して息子が生まれると、子育てや育児に忙しく、沖縄の遺跡のことなどすっかり忘れてしまいました。人類の祖先より、目の前にいる赤ん坊の方が大切だったからです。

 

港川フィッシャー遺跡を探しあてた人

それからおよそ40年後、夫が退職記念に、沖縄の「港川フィッシャー遺跡」に行こうと言い出しました。旧石器時代を代表すると言われる遺跡を是非、見てみたいと言うのです。「港川人と言われてもねぇ、知らない人だし」と、ノリが悪い私に、夫はそこがどんなに大変なところか熱弁をふるい、録画してあったテレビ番組まで見せてくれました。こんな時、夫は旅行会社の営業マンのようです。人類学を教えていただけあって、授業するかのように情熱をこめて話します。単純な私は、次第にそんなに大切なものなら見ずになるものかという気持ちになってしまいました。

 

せっかく行くのだから、知識を仕入れておかねばと『島に生きた旧石器人 沖縄の洞穴遺跡と人骨化石』(山崎真治・著/新泉社・刊)を読みました。そして、心底驚きました。単に旅行の下調べをしようとして手に取っただけなのに、そこには驚きの内容が書かれていたのです。

 

まず、港川人を発見したのは、考古学の専門家ではなく、大山盛保(おおやま・せいほ)という一人の考古学ファンだったということに驚きました。彼は沖縄の北中城村に生まれ、15才のとき、家族とカナダに移住します。森林を切り開き、農場を経営するようになっていたのですが、日米の開戦によって、全財産を没収され、収容所での生活を余儀なくされます。そして、戦後、故郷である沖縄に帰ってきます。さぞや絶望していただろうと思いますが、彼は負けませんでした。カナダで培った英語力を生かし、通訳として活躍し、ガソリンスタンドなどを手広く経営する実業家として成功をおさめたのです。

 

ひたすらに商売に励む日々で、学問には縁のない日々を過ごしていました。ところが、1967年、55歳を目前にしたころ、大きな転機が訪れます。所有していた農園に溜め池をつくろうと買い取った石灰岩の中に、動物の化石があることに気づいたのです。興味を持った大山は、その石がどこから来たのか調べ、沖縄県具志頭村(現在の八重瀬町)で切り出された石だと突き止めます。それだけではありません。自ら発掘しようと決心するのでした。持ち前の好奇心に火がついたのでしょう。忙しい仕事の合間をぬって採石場に通い、ひたすらに発掘を続けます。そして、とうとう、のちに上部港川人とよばれる人骨の断片を発見します。

 

彼は誰かに頼まれて発掘したわけではありません。費用も自分でまかない、家族や社員の助けを借りて、ひたすらに地面を掘り続けました。何かがあるという勘が働いたのでしょうか? それとも、発掘が楽しくてたまらなくなったのでしょうか? 色々と考えを巡らせているうち、私は港川人の存在よりも、大山盛保という人物に魅了されていきました。

 

大山盛保という人物

考えてみると、考古学上、世紀の大発見を果たしたのは、専門家とは限りません。岩宿遺跡の発見者として名高い相沢忠洋も、もとは行商しながら、独学で考古学の研究を行っていました。ツタンカーメンの墓を発見したハワード・カーターも、高等教育を受けてはいませんでした。彼らは一人で学び、自分の勘に従ってスコップをふるい、偉業を成し遂げたのです。

 

感心するのは、彼は発見を自分の手柄として独占することなく、東京大学の渡邊直經(わたなべ・なおつね)教授に知らせ、組織的な発掘調査を行うようにお願いしています。さらに、2年後の1970年には、慶應義塾大学で開催された九学会連合シンポジウムで、沖縄の旧石器人骨の調査結果が発表され、討議が行われました。残念ながら、そのときは、「まだ旧石器時代のものと断定することはできない」という評価がくだされます。それでも、大山はあきらめませんでした。さらに発掘を続け、シンポジウムの2か月後、再び採石場で人骨を、それも頭の骨を発見したのです。

 

島に生きた旧石器人 沖縄の洞穴遺跡と人骨化石』には、彼が頭の骨を発見したときの様子が書かれています。とくに興味深いのは、彼の手帳が掲載されていることでした。青いインクで細かく記されたメモを読むと、彼は、1970年8月10日、午後5時まで本業である給油所協会の役員会に出席していました。忙しい毎日を送っていたことが伝わってきます。しかし、会議が終わると港川遺跡に向かい、いつものようにスコップをふるいます。そして、地下約20メートルの地点で、完全な化石頭骨と人骨を発見したのです。その後、行われた木炭の放射性炭素年代測定によって、この骨が確かに2万年前の旧石器時代のものであると証明されました。

 

その後、さらに4体分の全身骨格を含む人骨が発見され、専門家による検証の結果、遺跡のある場所にちなんで港川人とよばれるようになりました。東京大学人類学教室を主宰した鈴木尚教授も、港川人は日本列島の旧石器人を代表するものと認めます。それだけではありません。大山へ次のような賛辞を送っています。

 

鈴木は大山の発見について、オランダの人類学者デュボアによるジャワ原人の発見(一八九一年)にも匹敵する「特記すべき成果」と最大限の賛辞を送っている

(『島に生きた旧石器人 沖縄の洞穴遺跡と人骨化石』より抜粋)

 

もはや素人の考古学者ではありません。

 

港川人の謎

港川人には、いまだいくつかの謎が残っています。旧石器時代の人骨であることは実証されたのですが、発見されたのは人骨だけで、彼らが使っていたであろう旧石器が発見されていません。

 

さらに、なぜ数体分の人骨が、まとまってフィッシャー(崖の割れ目)から発見されたかについても、意見が分かれています。鈴木は人骨に残された損傷から、港川人は「食人」の犠牲となったのではないかという考えを述べています。一方で、大山は港川周辺で暮らしていた人びとが、洪水などの天変地異によって、崖の割れ目に流し込まれてしまったのではないかと考えました。

 

いずれの説が正しいかは、今後の研究を待つ他ありません。けれども、『島に生きた旧石器人 沖縄の洞穴遺跡と人骨化石』のおかげで、私は沖縄が化石の宝庫であり、港川人とよばれる人びとが暮らしていたことを知りました。もちろん、いまだ謎は残ります。沖縄に最初に住むようになった人びとが、いったいどこから来て、どうして滅んでしまったのかについても、わかっていません。けれども、たくさんの人びとが、それぞれの立場からその謎を解こうと必死になっている様子を思い浮かべると、胸がワクワクしてきます。港川人をその手で発掘した大山盛保も、その思いに支えられ、炎天下のもとでもスコップをふるったに違いありません。

 

『島に生きた旧石器人 沖縄の洞穴遺跡と人骨化石』には、他にも興味深い遺跡が取り上げられています。石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡、そして、沖縄島南部のサキタリ洞窟遺跡です。どちらも、いずれ行ってみたいと思っています。いつかコロナの影響が収拾し、自由に旅ができるようになる日が来るまで、今から準備怠りなく過ごしたい、それが私の最近の楽しみとなりました。

 

【書籍紹介】

 

島に生きた旧石器人沖縄の洞穴遺跡と人骨化石

著者:山崎真治
発行:新泉社

アフリカを旅立ち、東アジアに拡散した現生人類は、四万~三万年前、海を渡って沖縄の島々へ到達した。石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡と沖縄島のサキタリ洞遺跡からみつかった人骨化石や貝器から沖縄人類史の謎に迫る。

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