こんにちは、書評家の卯月 鮎です。原稿を書いていてよく迷うのが、「ひらがな・カタカナ・漢字問題」。たとえば「猫」と書きたいときに「ねこ」「ネコ」「猫」、どれにするか。それぞれ読むときの印象がかなり異なるので頭を悩ませます。
紙媒体のときは雑誌や出版社ごとにある程度表記の規定がありましたが、最近はウェブ原稿が増えて比較的こちらが書いた通りに載ることも多くなったため、気を使う場面も増えました。「かわいい」「カワイイ」「可愛い」、「りんご」「リンゴ」「林檎」……。
梶井基次郎の小説がもし「れもん」や「Lemon」だったら、もう別物な気がしますよね。どの表記を使うかは文脈はもちろんのこと、世の中の空気によっても変わってくると思います。
言葉を考察すれば社会が見える
『いつもの言葉を哲学する』(古田 徹也・著/朝日新書)は、日常の“ひっかかる言葉”について深く考察する新書。著者の古田さんはルートウィヒ・ウィトゲンシュタインの哲学を主に研究する東京大学准教授。サントリー学芸賞を受賞した『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ)のほか、『はじめてのウィトゲンシュタイン』(NHKブックス)、『不道徳的倫理学講義』(ちくま新書)など著書多数です。
「親ガチャ」という言葉を使う若者心理
第1章「言葉とともにある生活」で興味を引かれたのは、若者言葉「ガチャ」の節。大学の講義後に学生に書いてもらうコメントに、4~5年前から「親ガチャ」という言葉が出てくるようになったそうです。
「親ガチャ」はどんな両親のもとに生まれるかという運を表現した若者言葉。「すべてが運命ではない、努力すべきだ」というお説教を「ガチャ」という軽い言葉で突き放す。その比喩の裏にある思いとは……。倫理学者バーナード・ウィリアムズの言葉やマンガ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の両さんのセリフが引用され、人生と運に関する思考が巡らされていきます。
第3章「新しい言葉の奔流のなかで」に書かれている、氾濫するカタカナ語に関する部分にも多くの気づきがありました。「メリット」と「利点」、意味は同じようでも現在はメリットのほうが使われる範囲が広くなっています。それは、もともとあった語が持つしがらみがないため、より自由に他の言葉と結びつくことができるから……。コロナ禍で「ロックダウン」や「クラスター」といったカタカナ語が導入されたのも似たような理由といえそうです。「意味が不明瞭な分、むしろ適切」という観点はなるほどと思わされました。
「まん延」という“ひらがな+漢字表記”が蔓延する理由、「抜け感」と哲学者の九鬼周造が説いた「いき」の共通点、「新しい生活様式」という言葉と内容の食い違い……。古田さんが家族や学生など身近な人と交流するなかで気になった言葉を取り上げ、その言葉の本質にこだわり、使われている背景を丁寧に掘り下げていく。語学のうんちくだけでなく、哲学者の言葉が引用され、社会や人間存在への深いところにまなざしが向けられているのが哲学者の本ならでは。最近の言葉に違和感を覚えたら、本書を読んで理由を探ってみるのもいいかもしれません。
【書籍紹介】
『いつもの言葉を哲学する』
著者:古田 徹也
発行:朝日新聞出版
哲学者のウィトゲンシュタインは「すべての哲学は『言語批判』である」 と語った。本書では、日常で使われる言葉の面白さそして危うさを、多様な観点から辿っていく。サントリー学芸賞受賞の気鋭の哲学者が説く、言葉を誠実につむぐことの意味とは。
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いつもの言葉を哲学する
【プロフィール】
卯月 鮎
書評家、ゲームコラムニスト。「S-Fマガジン」でファンタジー時評を連載中。文庫本の巻末解説なども手がける。ファンタジーを中心にSF、ミステリー、ノンフィクションなどジャンルを問わない本好き。