コロナ禍で長い期間我慢していた海外旅行にやっと出かけられそうだ。夏に向かって、どこの国を訪ね、何を楽しもうかプランを立てている方もいるだろう。そんな今、是非読んでおきたい一冊を紹介しよう。
『下駄で歩いた巴里』(林芙美子・著、立松和平・編/岩波書店・刊)がそれ。林芙美子は旅を愛した作家だった。
昭和5年に『放浪記』がベストセラーとなり、彼女は入った印税はすべて旅につぎ込むことにした。まずは念願だった中国行きを果たし、昭和6年11月からはシベリア鉄道で欧州に向かいパリで約半年、ロンドンで約1か月を過ごした。しかも、女のひとり旅だったのだ。本書は90年も昔の旅の記録だが、今読んでもまったく古さを感じない。ワクワク、ドキドキさせてくれる最高の紀行文といえる。
家を建てるより、旅がしたい
本書は、中国旅行、シベリア経由欧州旅行、そして国内旅行など20篇を集めた紀行集だ。林芙美子は旅についてこう記している。
私は、この頃、ひまさえあると一人で旅をしている。日常、家族の者が米みそにことかかねばそれでよいと任じているし、何万円と云う家を建てる意志もないので、生きている間働いたり遊んだり気ままに出来れば事足れりと思っている。(中略)私は家を建てるつもりで、その金を旅で散じてしまった。
(『下駄で歩いた巴里』から引用)
いい仕事をし、いい旅をする、それが林芙美子の人生だったのだ。
東京から巴里まで、三百十三円二十九銭也
本書の編集をした立松和平氏の解説によると、林芙美子は帰りの旅費も持たずにシベリア鉄道に乗ったのだという。つまり、行った先々で、原稿を書き、それを日本に送って、現地に送られてくる原稿料で旅を続けていたというわけだ。当時、彼女は28歳である。
うら若き女が一人トランクを提げ、帰りの旅費はもとよりたいした金も持たず、日の暮れたところがその日の宿だという無鉄砲な旅をするのである。この姿は元祖バックパッカーといってよいだろう。(中略)旅行中の支出 —切手代、赤帽代、食事代、切符代、キャラメル代がこと細かに記録されていて、旅の雰囲気が行間からも伝わってくる。
(『下駄で歩いた巴里』解説から引用)
「巴里まで晴天」と題した項に事細かな支出が記されていて約7ページにわたるので、ほんの一部だけ抜粋してみよう。
東京から巴里まで —三百十三円二十九銭也。
三十銭 —下関より連絡線までの赤帽代。トランク四筒。
一円二十五銭 —安東までの急行券
三十五銭 —日本弁当、京城にて。
一円五十銭 —奉天より長春までの急行券及び二等に変る。戦時故。
四十銭 —戦時エハガキ二組。
一円 —列車内ロシア人ボーイに。(日本金)
四十銭 —ハルピン着、ロシア人赤帽代。
五円 —モスコー行き列車ボーイへチップ。(日本金でやる事。普通三円でいいそうだ)
一ルーブル —うどん粉の揚げたの二筒、夜中バイカル辺で売りに来る。うまくなし。
一ドル(約二円強) —食堂夕飯ポーランド料理(オードブルスープ。鶏肉。玉子チキンライス、プリン、茶、レモナード)
五フラン(約四十銭) —巴里夜明着、赤帽代。
(『下駄で歩いた巴里』から抜粋)
当時の通貨価値は10円が今の2万円くらい。また、昭和初期の大卒の初任給が50円程だった時代だから、東京からパリにたどり着くまでで313円29銭の支出はかなりの額ということになる。
シベリア鉄道三等列車の旅
当時は珍しかった日本女性のひとり旅だが、シベリア鉄道では一等でも二等でもなく、三等車で何日も過ごして、乗り合わせた人々を観察していたのがとてもおもしろい。
三等列車の洗面所と来たら、二等のとは雲泥の違いで、水も出なければ、鏡も破れたままです。プロレタリア国だから仕様もないでしょう。—短い期間にロシアを知ろうとする事はあまり図々しすぎるかもしれませんけれども、三等列車内の色々の人情のうつり変わりは、露西亜の一隅を知るには充分です。
(『下駄で歩いた巴里』から引用)
長い間シベリアを通ってくると巴里は何もかもが美しく夢のように映ったという。しかし、旅の疲れか、巴里に着いたとたん林芙美子は十日あまり宿で眠り続けたそうだ。
パリ14区のアパルトマン暮らし
パリではホテルではなく家具つきの安いアパルトマンに滞在した。最初の下宿は「ダンフェル街ブウラアド十番地」とある。現在のパリの地図で確認してみると、14区のメトロのダンフェール・ロシュロウの近くで、モンパルナス墓地の南側だ。パリは100年以上経っていても街並みはほぼ変わっていないと思うので、次にパリを訪ねたらその界隈を散策してみようと思う。当時のダンフェル街は日本人が集まる地区だったようで、1日に1~2人の日本人とすれ違っていたと記してある。
林芙美子は塗下駄でポクポクと歩いていたので、目立ち、その辺りの有名人になっていたようだ。
このダンフェルは下町と云った方が当っているかも知れません。物が安いと云えば、パンがうまくて安い。こっちのパンは薪ざっぽうみたいに長くて、これを嚙りながら歩けます。これは至極楽しい。巴里の街は、物を食べながら歩けるのです。
(『下駄で歩いた巴里』から引用)
林芙美子がバゲットを食べつつ歩き回る姿を想像するだけで楽しくなる。ちなみに歩き食べOKの光景も今なお変わっていない。
異国で知る日本の素晴らしさ
巴里でも倫敦(ロンドン)でも、あと数日で一文なし、というような状況に何度もなったようだ。しかし、楽天家の彼女はそんな綱渡りも何のそので旅を続ける。エッセイを読んでいるこちらのほうがドキドキしてしまうのだ。そうして欧州で半年あまりを過ごし、1932年(昭和7年)5月マルセーユから船に乗って、帰国の途についたのだ。
旅をしていると、その国が好きになりすぎて、いわゆる”西洋かぶれ”になってしまう人がいるが、文学者である林芙美子はどんな場所でも冷静に物事を見つめていた。また、本文中には何度も日本に帰りたい、日本は素晴らしい、日本がサンゼンと輝いて見えるなど、異国にいてこそわかる日本の良さを語る記述も多くみられた。
最後に、自己洞察力もさすが! という一文を引用しておこう。
ヨーロッパをめぐって、巴里は一番自由な国であり、お上りさんのよろこびそうな街だ。その自由な街に、私も八ヶ月ほど住んでいたけれど、帰るまで私の仏蘭西語が片言であったように、こうして書いている私の巴里観も、ショセンここでは片言のイキを脱しないのである。
(『下駄で歩いた巴里』から引用)
外へ飛び出す勇気、旅をする楽しさ、そして苦しさも含め、すべてを教えてくれる一冊だ。
【書籍紹介】
下駄で歩いた巴里
著者:林芙美子
発行:岩波書店
昭和5年『放浪記』がベストセラーとなり、芙美子は念願の中国行きを果たす。翌年はシベリア経由で渡欧すると、半年余りをパリ、ロンドンで過ごした。小説を書くのは恋人が待ってくれているように愉しいと言いながら、「苦しいことは山ほどある。一切合財旅で捨て去ることにきめている」。旅を愛した作家の、愉楽の時を記す20篇。