本・書籍
2022/7/21 21:30

写経のように『思い出トランプ』を書き写して、向田邦子の素晴らしさを改めて実感する

「好きな小説家はだれですか?」と、問われると、私は迷わず答えます。「それは向田邦子です」と。他にも愛読している作家はいます。けれども、一番、くり返し読んでいるのは、向田邦子の作品なのです。

 

体の具合が悪いとき、身に覚えのない中傷を受けたとき、心が疲れて眠れなくなったとき、私はいつも向田邦子の『思い出トランプ』(新潮社・刊)を読みます。13編の作品が私の心にしみわたり、めげていないで頑張ろうという気持ちになります。母の懐に抱かれていた時代に戻ったように安らぎを得ることができるのです。


向田邦子という作家

向田邦子はテレビドラマの脚本家として活躍し、数々のヒット作を世に送り出した作家です。『寺内貫太郎一家』『時間ですよ』などのドラマを、毎週、楽しみにしていた方も多いでしょう。ところが、乳がんにかかり、手術の後、右手が動きにくくなるなどの後遺症に悩まされるようになりました。そこで、リハビリの意味もあり、エッセーや小説を書き出すようになったのだそうです。そして、すぐに、その文章の力が話題となりました。脚本家時代には描ききれなかった物語が繰り広げられ、向田ワールドと呼ぶべき独特の世界に私たちを誘ったのです。

 

やがて、1980年、上半期の第83回直木賞に選ばれました。対象となったのは、「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」の3作品です。この『思い出トランプ』には、3つの授賞作品がすべて収録されており、読み応えのある1冊となりました。

 

向田邦子が描く主人公は、日常生活にあくせくしながら暮らす「普通の人びと」です。どこといって特殊な才能もなく、劇的な人生を送っているわけでもない。ところが、「普通の人びと」だからこそ響く点も多いのです。彼らが時折見せる残忍さや、狡さが、痛みとなって、迫ってきます。とくに、家族の中に巣くう憎しみや秘密を、これほどしたたかに白日のもとにさらしてしまう力量には、「向田邦子って、すごい。すごすぎる」と、感嘆するしかありません。

 

それなのに、彼女は突然、私たちの前から姿を消してしまいます。1981年の8月、台湾を取材旅行中に、飛行機事故で亡くなったのです。後に残されたのは、達意の文章で綴られた作品群でした。ご本人は飛行機が嫌いだったといいますから、さぞや怖い思いをしただろうと、心が暗くなります。

 

写経のように

私は1990年ごろから、原稿を書いて原稿料を受け取るようになりました。師と呼べる存在もなく、同人誌の仲間もいなかった私ですが、文章を修行したいという強い思いは持っていました。そこで、考えた末、向田邦子の作品を手書きで原稿用紙に写しとることにしました。写経のような作業を続けていれば、少しでも良い文章が書けると信じたのです。自分勝手な弟子入りだとわかってはいますが、彼女の作品を心ではなく、体で覚えたかったのです。

 

『思い出トランプ』にある「かわうそ」には、主人公である夫が、自分の妻に対して抱く愛情や疑い、そして憎しみが、ないまぜになって描かれています。文章でありながら、一枚の絵のようでもあります。言葉を超えて目に飛び込んでくるおそろしさを感じながら文章を写していると、ものすごく細かい貼り絵をしているような気持ちになります。私には到底、こんな文章は書くことができないと絶望しないではいられません。それでも、近づくだけでもいいと願いながら、一文字、一文字を緻密に貼り付けていると、絶望が喜びに似た何かに変わっていくのです。

 

今も時々、好きなフレーズを写してみることがあります。すると、なぜか心が安まり、遠く異国の空に散った向田邦子からの思いをくみ取ることが出来るような気持ちになります。やはり、これは私にとっての写経なのでしょう。

 

心にとくに残る文章

向田邦子の小説は、登場人物の描き方が独特です。たとえば、子どものいない夫婦を描いた「かわうそ」で、妻の厚子はこう描かれます。

 

九つ年下の厚子は、子供のいないせいもあるのだろう、年に似合わぬいたずらっぽいしぐさをすることがある。西瓜の種子みたいに小さいが黒光りする目が、自分の趣向を面白がって踊っているのを見ると、宅次は煙草のことを言い出すのが億劫になった。

(『思い出トランプ』より抜粋)

 

私はこの部分を読んだ後、しばらくの間、西瓜を食べていて、口から種子をプッと吹き出すのが怖くなりました。厚子の黒目を連想してしまうからです。向田邦子の表現には、日常を変化させるほどの影響力があると知った一文ともなりました。

 

さらに、「だらだら坂」には、社長の囲われものとなったトミ子という主人公が登場します。彼女は体が大きく、目が細く、表情も暗い女の子です。けれども、決して感情が乏しいわけではないことを以下の文章が教えてくれます。

 

目といえば、はじめてホテルで庄司の言うことを聞いたあと、トミ子は涙をこぼした。小さなどぶから水が溢れるように、ジワジワビショビショと涙が溢れた。あかぎれみたいな目からは、絵に描いたような涙の雫はこぼれない仕掛けになっているらしい。

(『思い出トランプ』より抜粋)

 

残酷なほど的確な描写です。トミ子が、自分をこんな風にとらえる男に頼って生きていくしかないことを思うと、切なくてなりません。けれども、向田邦子はここで終わりません。筆の力によって、愚鈍だとしか思えないトミ子を少しずつ成長させ、変身させていくのです。その結果、庄司に起こる思いがけない結末……。

 

他にもたくさん印象的なシーンが作品全体に広がっています。時にはナイフでえぐり出すように、時には優しさで包み込むように、向田邦子は次々と思いがけない仕掛けで私を振り回します。それでいながら、次第に振り回されることを願うようになる自分を発見したりもします。ページをめくった先に、いったい何が待っているのか?ドキドキしながら読む醍醐味を堪能していただきたいと思います。

 

【書籍紹介】

思い出トランプ

著者:向田邦子
発行:新潮社

浮気の相手であった部下の結婚式に、妻と出席する男。おきゃんで、かわうそのような残忍さを持つ人妻。毒牙を心に抱くエリートサラリーマン。やむを得ない事故で、子どもの指を切ってしまった母親などー日常生活の中で、誰もがひとつやふたつは持っている弱さや、狡さ、後ろめたさを、人間の愛しさとして捉えた13編。直木賞受賞作「花の名前」「犬小屋」「かわうそ」を収録。

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