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2020/10/14 17:30

玉袋筋太郎が東京23区唯一の酒蔵「東京港醸造」で日本酒の未来を見た!!

〜玉袋筋太郎の万事往来
第5回 東京港醸造

 

全日本スナック連盟会長を務める“玉ちゃん”こと玉袋筋太郎が、新旧の日本文化の担い手に話を聞きに行く連載企画。第5回目のゲストは、東京23区で唯一の酒蔵を営む「東京港醸造」から、取締役会長の斎藤俊一さんと、同社の代表取締役で杜氏の寺澤善実さん。1812年創業で1911年に廃業した酒蔵「若松屋」の7代目にあたる斎藤さんが、なぜ大手酒造メーカーに勤めていた寺澤さんと手を組んで、東京のど真ん中に酒蔵を復活させたのか? その謎に玉ちゃんが斬り込みます!

(企画撮影:丸山剛史/ライター:猪口貴裕)

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超ミニマムな酒造がお台場から港区・芝へ移るまで

 

玉袋 お久しぶりです! 以前、テレビの撮影で東京港醸造さんにお伺いしましたけど、その前から仕事で全国の酒蔵に行かせてもらう機会が多いので、東京港醸造さんの噂は聞いていたんです。まず、この面積で日本酒造りの全工程を行っているのが信じられなくて、そこに驚きですよね。しかも1年を通して作れるんですよね?

 

寺澤 そこが東京港醸造の大きな特徴です。

 

玉袋 ここに入る前、寺澤さんは大手酒造メーカーに勤めていたんでしょう?

 

寺澤 そうです。前の会社には30年ほど勤めていたんですが、2000年から2010年まで港区のお台場で、ここよりも狭い約52平方メートルの醸造スペースで清酒を造っていました。そこで作り立ての日本酒がテイクアウトできて、京料理などの懐石料理も用意していたんです。東京港醸造は117平方メートルあるので、私にしてみたら広いんですけど、なるべく全工程でロスがないように作っています。

 

玉袋 酒蔵って大きいってイメージだけど、それをミニマムにするって発想がすごいよ。

 

――お台場時代の経営状況はどうだったんですか?

 

寺澤 お台場は観光客が多いんですけど、修学旅行生ばかりだったり、週末にいらっしゃる家族連れは移動手段が自家用車だったりで、お酒を飲んでいただけないんですよね。だから10年間、真っ赤っかでした(笑)。

 

玉袋 俺が「スナック玉ちゃん」ってイベントを始めたときも最初の会場はお台場だったんですよ。お台場には生活感がない。たくさんタワーマンションが建って、人はいるけど、作られた街でハリボテと一緒だと。人が住む場所にスナックがないのはおかしいと思って始めたんですけど、やっぱり厳しかった。根付かせようとしたんだけどね。

 

寺澤 お台場は商売がしづらいですよね。私のやっていたところは母体が大手だったので、なんとか10年続きましたが。

 

玉袋 会長(斎藤)も、よく港区芝という東京のど真ん中で酒蔵をやろうと思いましたよね。普通はそんな話をきいたら「バカ! 何を考えてるんだ」って怒りますよ。

 

斎藤 当初は「こんなに小さく作ったって儲かる訳がないのに、なんでやるんだ?」とみなさんに聞かれましたよ。まず酒類製造免許を出す国税局が言うんですから。「どんな下心を持っているんだ」と疑われました(笑)。どのコンサルタントに聞いても、やめたほうがいいと。銀行だって、とりあえず担保があるからお金は貸すけど、ここで日本酒製造なんてできるわけがないって周りに言っていたらしいです。なのに清酒の免許が取れたって報告をしたら、「いくらでもいいからお使いください」ってコロッと態度が変わりましたから。

 

玉袋 そこまで態度が変わると気持ちがいいね。気分爽快ですよ。

 

斎藤 それに寺澤自身が「儲からないけどいいんですか?」って言っていましたからね。お台場で10年やって、かなりの赤字だったというんですから。

 

寺澤 初期投資が大きかったから、会社も引くに引けなかったんですよ。

 

斎藤 実際うちもそんなに儲ける気はなかったんです。トントンで行けるところまで行ければいいなと。

 

――そもそも斎藤さんは、どうして先祖の家業を復活させようと考えたんですか?

 

斎藤 港区で商店街の役員をやっていて、地域の活性化をさせたいというのが一つ。もう一つは本音を言うと、やっぱり儲けたいんですよ。ただ儲ける形がみなさんとは違っていて、現金や預金が増えていけばいいなというのが普通の経済の考え方ですよね。

 

でも資産には、暖簾や信用など、無形の資産があるんですよ。この無形の資産は売らない限りは評価されないんです。ルイ・ヴィトンにしても、仮に会社を売ればとんでもない資産になりますけど、ルイ・ヴィトンという名前自体には価値の付けようがないんです。そういう意味で、「東京港醸造」と、そこで造った日本酒「江戸開城」をブランド化していこうと。下手な資産を持つよりも、無形の資産を持ったほうが税務署に睨まれないですから(笑)。

 

玉袋 やっぱり会長は発想が違うな~。俺も商売やってみて分かったけど、ついつい目先のお金に走っちゃうからね。

 

斎藤 酒の免許だって売買はできませんから0円ですよ。しかもA4のコピー紙にハンコを捺しているだけですし。

 

玉袋 前は東京のお酒っていうと青梅市の澤乃井をイメージしてたけど、芝に酒蔵があるってところがすごいよね。「東京港醸造」ってブランドはピッカピカに輝いていますよ。

 

斎藤 今はいろんなところから「売りませんか?」ってお話もきてますからね。

 

玉袋 会長の狙い通りブランド化に成功した訳だ。若者がお酒離れしている中、日本酒だけじゃなく、ビールだって売上ががっくり落ちているじゃないですか。芝で造った日本酒に、おふたりのストーリーを織り交ぜたら飲む人も増えると思いますよ。

 

水道水と、蔵で育てた麹菌や酵母菌だけを使って日本酒をつくる

 

――おふたりはどうやってお知り合いになったんですか?

 

斎藤 寺澤がお台場でやっていた醸造所が、港区の商店街連合会に加盟したんです。それで何気なくパンフレットを見ていたら、お台場に醸造所があることを知って。さっそく担当者に電話したら、「そこで日本酒を作っているみたいです」と言うので、すぐに見に行ったんです。

 

寺澤 それが2006年のことですね。まだ撤退の話も出てないころに来ていただいて。

 

斎藤 そのときは「何しに来たんだ!?」って門前払いですよ(笑)。

 

寺澤 いやいや(笑)。ありがたいことに見つけていただいたんです。その後、お台場からの撤退が決まって、「せっかくここまでできたのに……」って脱力感があったんです。会社内で、その技術を伝授する場所がなかったですからね。かといって本社のある京都に帰って、デカい蔵で仕込みをしたところで、お台場で培った小さな場所でやる技術は、ほとんど役に立ちませんから。それなら退職して、斎藤会長の夢を一緒に追いかけようと思ったんです。

 

――もともと東京港醸造が入っている4階建てビルは、斎藤さんのご自宅だったんですよね。

 

斎藤 そうです。当時は亡くなった私の父も住んでいました。そこの全フロアを寺澤が醸造施設として改造を重ねていったんです。

 

寺澤 すぐに免許は取れなかったので、そのころは毎日、図面と睨めっこでした。それまで私がお台場でやっていたことを、どこにどうはめこむか考える日々でしたね。

 

斎藤 他にやってないことをやるわけですから設計する人がいないんですよ。

 

寺澤 既存のものがない上に、最初から建てるんじゃなくて、すでにある建物を、どうやって改造していくかですから大変でした。

 

玉袋 スナックの居抜きとは訳が違うからね。

 

寺澤 お酒好きで知られる中田英寿さんが4年前にお見えになったんですけど、先日お仕事で再びいらっしゃって。その第一声が「まさか4年間続いていると思いませんでした」だったんです(笑)。あの方は、たくさん酒蔵を回っていますから、どう考えても、これでは生産量が合わないから潰れるだろうと思っていたみたいです。ただ酒蔵の中を見学して、「これはすごい」と感心してらっしゃいました。

 

玉袋 実際、このサイズが寺澤さんにとってはベストなんですか?

 

寺澤 光熱費なんかも考えると今がベストです。

 

斎藤 清酒の免許には最低製造量というのがあるんですけど、それをクリアするギリギリの広さですね。

 

寺澤 従業員の休みもあるので、それを考えると、ちょうどいいサイズで、いい量です。大きな儲けはないですけど、継続はできますからね。

 

――免許はいつぐらいに取得できたんですか?

 

寺澤 2011年7月に「その他の醸造酒(どぶろく)」と「リキュール」の製造免許を取得したんですけど、せっかくなので地産地消でやろうと、八王子からお米を仕入れてどぶろくと甘酒を作りました。扱ってくれる場所も少なかったのもあって、配達するときは山手線に乗って、芝のお酒というのが分かるような恰好で運んでいました。

 

――歩く広告塔ですね。

 

寺澤 あと角打ち用のクルマも買って、「東京港醸造テイスティングカー」に改造して、いろんなイベントを回りました。テイスティングカーは今も稼働していますし、普段は東京港醸造前で営業しています。2016年には「清酒」の製造免許も取得して、「江戸開城」の純米酒を造り始めました。

 

玉袋 先ほど酒蔵の見学もさせてもらいましたけど、お醤油やお味噌も作れるそうですね。日本酒って蔵元の歴史もひっくるめてのブランドじゃないですか。

 

斎藤 そういうストーリーがないと、なかなかお酒って売れないんですよね。

 

玉袋 東京港醸造さんは、そういう意味でもドラマ性が十分。俺はもう感動しっぱなしだよ。最初に仕込んだ「江戸開城」の1本目は、会長もテイスティングしたんでしょう?

 

斎藤 一応はしました。

 

玉袋 最初の一滴をクッと飲んだときはどんな感想でしたか?

 

斎藤 正直、「こんなもんか」としか感じなかったですよ。

 

玉袋 いやいや! これで「ご先祖様とつながった」とか思わなかったんですか(笑)。

 

斎藤 蓄膿症で鼻は悪いし、舌は肥えてないですし。いつも立ち食いそばで満足しているような人間ですから(笑)。

 

寺澤 私からすると、技術的なことを全て任せてくれるので、すごく助かるんです。他の蔵に行くと、今までの味を大切にして、伸びしろだけを求めてくるんです。でも、全部変えてしまわないことには、そんなことはできないんですよ。真っ白なところから積み上げたので、自分の思うように出来上がったんです。

 

斎藤 寺澤の技術はすごいと分かっていましたし、信用していますからね。こんな狭い場所で育てた麹菌や酵母菌で、これだけ美味しい酒を造ってくれるんですから。しかも水道水で、ですよ。最初のころは「水道水で造った酒なんて飲めるか」って相当言われましたよ。

 

玉袋 実際、東京の水は美味しいからね。不味いところはタンクが古かったりするだけだからね。

 

寺澤 そうなんですよね。

 

斎藤 本当は違う場所で酒造りをしてるんじゃないかとか、どこかから桶買いをしているんじゃないかとか疑われましたよ。

 

玉袋 他から酒は仕入れて、ラベルだけ貼り換えりゃいいやってね。

 

斎藤 そう思われるのは癪ですから、みなさんに来てもらって、「本当に作ってますよ」ってアピールもしました。

 

――お台場でも水道水を使っていたんですか?

 

寺澤 あのころは京都からお水を運んでいました。

 

玉袋 それはお金もかかっちゃうし大変だ。

 

寺澤 ある意味、こだわり過ぎたから潰れたところもあるんです。東京港醸造を始めるにあたって、水道水と、ここで育てた麹菌や酵母菌だけを使って作った日本酒以外は売りませんという条件を飲んでいただきました。

 

斎藤 おかげさまでフル操業になって4年が経ちましたけど、そんなときにコロナ禍でコロッとなっちゃって、一時期は仕込みも中断せざるを得なかったんです。

 

――どのぐらい仕込みを中断していたんですか?

 

寺澤 3月末に仕込みをストップして、7月から再開、8月にフル操業に戻りました。ただ仕入れ先の飲食店さんが苦しいですからね。

 

玉袋 コロナ憎しだな。オリンピックもずれ込んじゃったしね。でも、それも時と共にストーリーになりますよ。ここは会長踏ん張ってね。

 

斎藤 もう大船に乗ってますよ。

 

玉袋 泥船じゃないですよね(笑)。次の一手は考えているんですか?

 

斎藤 あるんですよ。オリンピックの後は日本に何が来ます?

 

玉袋 大阪万博ですか?

 

斎藤 そうです。トレーラーの中に全部の設備を作って、トレーラーごと移動させて、大阪万博に出店しようと考えているんです。

 

玉袋 会長の話を聞いたから言う訳じゃないんですけど、俺も「万博にスナックを」って言ってたのよ。日本の文化として万博にスナックを出すのが夢なんです。

 

斎藤 じゃあ2台で行きますか(笑)。

 

玉袋 ぜひぜひ! 大阪万博を通して、日本酒造りの工程を子どもたちに教えるのは大事なことですよ。

 

寺澤 仰る通りです。

 

玉袋 日本酒は伝統的なものですけど、おふたりのように新しいベンチャー的な発想はしびれちゃいますね。映画化決定です!

 

斎藤 それが映画にしようって話もあったんですよ。

 

玉袋 あったの? やっぱそうなんだ。

 

斎藤 でも断りました。劇映画で、私の女性関係なんかを描かれるのは溜まったものじゃないぞと(笑)。

 

玉袋 おふたりのドラマは脚本家じゃ書けないドキュメントだからこそ引力があるというか、惹かれるんだよね。

 

蔵元の杜氏じゃなくて、杜氏の蔵元を育てていきたい

 

玉袋 ライバルと意識している蔵元っているんですか?

 

寺澤 いないですね。むしろ今回のコロナも大きな打撃ですが、今後、日本の人口が減っていって、お酒離れも加速していって、それに苦しんでいくであろう地方の酒蔵に、うちのやり方を提案してあげたいんです。山奥や、自然の中で日本酒を造るのも大切なことなんですけど、もう一つ駅の近くに小さい醸造施設と食事のできる場所を作って、そこを管理して。あまりにも大きい施設だと予算がかかってしまいますけど。小さく作れば借入金も小さくて済みますしね。稼働率が上がって、その横にレストランを作ったり、民宿を作ったりすれば、お酒の売り上げも3倍になりますからね。

 

玉袋 酒の造り方だけじゃなく、コンサルティングまでしてくれるんだから至れり尽くせりだね。ただ地方の酒蔵を継ぐ新しい世代も、大学で勉強して、先代とは違うものを作って成功している人もいますよね。

 

寺澤 若い方も頑張っています。ただ本来なら杜氏がやることを蔵元の息子がやって成功しているところはあるんですけど、杜氏が起業して作った蔵ってないんですよ。なぜなら現行の免許制度では新しい蔵を増やすのが難しいから、それを支援してあげたいんです。蔵元の杜氏じゃなくて、杜氏の蔵元を育てていきたいんです。

 

斎藤 そのためには法律を変えなくちゃいけないですよね。現状だと免許が下りないんです。

 

玉袋 今までの形が古すぎるってことですよね。

 

斎藤 そうです。国会議員って蔵元の出が多いんですよ。総理大臣も例外ではなくて、安倍晋三さんや竹下登さんも蔵元の出ですけど、だからこそ変わらないんです。酒税法って一番古い法律ですから、そのまんま今まで残っちゃっているんです。

 

玉袋 海外は違うんですか?

 

寺澤 全く違います。日本ならではのルールです。

 

斎藤 それを崩そうとしないんですよ。

 

寺澤 もっと競争原理を働かせて、日本酒を盛り上げていかないといけないのに、保護政策でどんどん衰退しているんです。今年8月3日に、はせがわ酒店さんと「はせがわ酒店 グランスタ東京店」をオープンしたんですけど、酒類醸造免許を取得して、店内の「東京駅酒造場」で日本酒、どぶろく、リキュールの醸造を行っているんです。これによって実例が1個できますし、後に続くところが出てきてほしいです。

 

玉袋 これは2時間特番で密着してほしいね。もちろん4Kで撮影ですよ。

 

斎藤 しばらくインバウンドは期待できないんですから、まずは国内の需要からやっていかないといけないんです。

 

寺澤 たとえば新幹線の駅に酒蔵を作れば、経済も生まれるんですよ。そういうきっかけを作っていきたいんです。

 

斎藤 スローライフが見直されていますし、高齢者が増えて、お金も時間も余っている人も多いんですから、そういう方々をターゲットにすれば上手くいくはずなんです。実際、うちのお酒も割高ですけど買ってもらえますし。その土地で造ったという付加価値があればお金を出してくれるんですよね。

 

玉袋 会長のプロデュースも上手いんですよ。

 

斎藤 自分はお酒のことに口を挟まず、ストーリーを作る役目ですから。

 

玉袋 日本酒の伝統を芝で脈々と受け継ぐ一方で、新しいことにもどんどん挑戦しているってのは東京人として誇りに思うね!

 

 

玉袋筋太郎

生年月日:1967年6月22日
出身地:東京都
1987年に「浅草キッド」として水道橋博士とコンビを結成。
以来、テレビ、ラジオなどのメディアや著書の執筆など幅広く活躍中

一般社団法人全日本スナック連盟会長
スナック玉ちゃん赤坂店オーナー(港区赤坂4-2-3 ディアシティ赤坂地下1 階 )

<出演・連載>

TBSラジオ「たまむすび」
TOKYO MX「バラいろダンディ」
TOKYO MX/テレビ大阪「人生酒場 唄は夜につれママにつれ」
BS-TBS「町中華で飲ろうぜ」
CS「玉袋筋太郎のレトロパチンコ☆DX」
夕刊フジ「スナック酔虎伝」
KAMINOGE「プロレス変態座談会」