たとえばどこか楽しい旅先にでかけている時に、人は情報の受け手ではなく、発信者になる。旅先で出会った美味しい食べ物や、見つけた美しい景色をSNSでシェアしたくなる。
それとは反対に、ぼくは何かうまくいかないことがあったり、なんとなくふさぎ込んだときについスマホを開いて他人のSNSを眺めてしまうことがある。
SNSの総体が個人に見える
それが自分の慰めになればいいのだが、多くは誰かの充実した行動を見てさらに自分を苛んだりする結果になる。
「ミニマリスト日和」を運営する友人のおふみさんがこんなことを言っていた。そういう時に人は目にしたSNSの総体を「1人の個人」として考えてしまったりするのではないかと。おふみさんはこんな風に説明している。
たとえばinstagramで別々の人がこんな投稿をしていたとする。
- 掃除が行き届いていてインテリアもおしゃれ。
- いつも手作りの素敵な朝ごはんがプレートに飾り付けられていて素敵。
- 梅雨時分には梅酒や梅シロップを漬けている。
- 家計簿をつけてしっかり家計管理している。
- 服がおしゃれ。
それらを一度に目にすると、すべてを1人でこなすスーパーマンがいるような気がしてしまう。そして自分に欠けているものが目に付き、落ち込んでしまうと。しかしそれは別々の個人がそれぞれできることをやっているだけだ。
人の1日はSNSより複雑
そして、そのまぶしい誰かの個人の投稿も、本当は決してまぶしい側面だけではないはずだ。
たとえばぼくは今、海がとてもきれいなフィリピンのドゥマゲテという街で英語を勉強している。最近は毎日のようにビーチで日の出を眺めるのが日課。週末になれば、山に登ったりダイビングしたり。
それだけを切り取ってSNSに投稿すれば羨ましがられてしまうかもしれない。しかし人の1日や感情は、SNSに投稿されるような単純なものではない。
ぼくの1日は目まぐるしい。ある日の授業で、簡単な英文すらブロークンでしか言えず、相変わらずの成長のなさに凹まされる。その次の授業では他の先生と言葉以上の、共通する価値観で通じ合えたような気がして嬉しくなる。
そうして機嫌よく授業を終えたその日、よく行くスーパーへの通り道で、犬が腹をさらして倒れ死んでいるのを見かけた。フィリピンの公衆衛生はまだ行き届いていない。次の日またその道を通る。犬の亡骸はまだそこにあり、顔には虫がたかり、腹は前の日よりもガスで膨らんでいた。
そのまとめとして「今日は、いつもよりうまく英語が話せた気がする。よっしゃこの調子!」とSNSに投稿するかもしれない。しかし「今日はスーパーへの通り道で、無残な犬の亡骸を見た」とは投稿しようと思わない。こういうことはSNSというよりもブルースに属するようなものではないか。
ぼくは人にネガティブなムードを与えたくないので、他の人には無関係なネガティブなことは投稿しないようにしている。しかしポジティブなことの背面にももっと複雑で、感情の起伏が豊かな1日が本当はあるはずなのだ。
人の1日は、SNSで投稿されていることの要約ではない。たとえ何か羨ましくなったり、自分を蔑みたくなるような投稿を目にしても、その背景にある複雑さに思いを馳せれば落ち着きを取り戻せる。他人のSNSは簡単に信用してはいけない。
SNSを見る基準は「やる気が出るかどうか」
そして今ぼくがSNSを見る基準は、それを見ることで「やる気が出るかどうか」。ぼくには大好きな尊敬している方たちがたくさんいる。
その方たちの投稿に刺激を受けてやる気が出る場合もあれば、ときどきその方達のスピードに追いつけなくなって、置いてけぼりを食ったような気分になることがある。そんなときは少し距離を取る。
これがもし「その人のことを好きどうか」というような基準だったら、いくらフォローしていても足りないと思う。さらにこれは「チェックすべき情報かどうか」でもない。人がたくさんの人をフォローしたくなるのは、何か自分が知らない情報があると乗り遅れて損をしてしまうのではないかという恐れから来ているのではないかと思う。
しかし、考えてみると価値は希少性に宿るものだ。たくさんの人からフォローされているような憧れの存在の誰かは、みんなが知っている情報を漏れなく知っている人ではないはずだ。そういう人たちはたくさんの情報に惑わされず、ただひたすら自分のできることを掘り下げて価値を生み出しているのではないだろうか?
相互フォローは友達の定義じゃない
そんな思いもあって、ぼくは以前からFacebookはほとんど使っていない。Twitterのフォローも以前から0にして、リストで管理していた。
なぜかと言えば、自分が前向きなときにネガティブなムードに引きずりこまれるのもごめんこうむりたかったから。たとえ親しい友人でもネガティブなつぶやきが多くなる時期があったりする。そんなときは、その人の調子が戻るまでリストから外す。
リストで管理していれば、リストから外しても相手にはわからないのでこういうこともできる。しかし、ぼくはミュートもブロックも使っていないし、このリスト方式もフェアではない気がしていた。
そうして今はリストの登録も全部解除した。今は「あの人、最近どうしているかな?」と思った時に検索してその人のSNSを見ている。フォローではなく、自発的に情報を取りに行く感じ。
人の心には返報性の原理がある。何かしてくれた人に対しては、何かを返さなくてはいけないと思う。だからその反対に、Facebookでの友達や、Twitterでの相互フォローを維持しないことで、離れていく友人関係もあるだろう。
しかし、その程度のことで離れていく関係性は、せいぜいそんなものだったということだ。隠居生活をしている大原扁理さんは友人の誘いも積極的に断っているそうで「20回ばかり誘いを断った程度で疎遠になる人は、たいした用事じゃなかったんだな、くらいに考えています」と言っている。
ぼくも通じあえている友人とは、ぼくがフィリピンにいようが変わらず連絡を取り合っているし、何年も会っていなくても先週会ったばかりのようにくつろぎ理解し合える。
ぼくの友達の定義は、「Facebookで友達関係にあるか」「Twitterで相互フォローしているか」でもないようだ。毎日その人が何をしているか知っているのではなく、普段の日常はお互いができることに集中し、その成果をリスペクトしあう。そんな関係がぼくにとっての友達のようだ。
経験がSNSを追い抜く
冒頭に書いたように、自分の生に集中しているとき、他の人の行動は目に入らなくなってくる。
旅先で友人とくつろぎ、美味しい食べ物に舌鼓を打っているようなとき、テーブルの下でスマホをいじったり、ネットで知らない誰かを批判しようとも思わないはずだ。そんなとき人はSNSを必要としない。この状態をぼくは「経験がSNSを追い抜く」と呼んでいる。
最近こんな言葉を見つけた。
“Be nice to everyone. Be friends with a few. Trust one person: yourself.”
すべての人に感じよくするけど、友達にするのは少しの人だけ。
そして信じるのは、自分ひとり。
経験がSNSを追い抜き、各自勝手にSNSに投稿しているだけで、お互い見てもいない。各自ができることに集中し、たまに連絡を取ったときには、リスペクトし合う。
こんな状態が理想の関係ではないだろうか?
【筆者プロフィール】
佐々木典士
1979年生まれ。香川県出身。学研プラス『BOMB』編集部、『STUDIO VOICE』編集部、ワニブックスを経てフリーに。初の著書『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』(ワニブックス刊)は16万部突破、20カ国語へ翻訳。
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