「そこのババア、まだ息しているか?」「くだばり損ないのジジイ、死ぬのを忘れたのか?」
歯に衣着せぬ毒舌を吐きながらも、“お年寄りのアイドル”として絶大な人気を誇る毒蝮三太夫さん。自身のルーツから老いや病気まで縦横無人に語り尽くす今回のインタビューでは、シリアスなメッセージや普段見せない真摯な一面も明らかになる。
「今だからこそ、どうしても言っておきたいこと」(本人談)に耳を傾けてほしい──。
(構成・撮影:丸山剛史/執筆:小野田衛)
戦争を語れる最後の世代
──今回は毒蝮さんの生い立ちから今後のことまでたっぷり伺おうと考えています。
毒蝮 生い立ちから? そんな昔のこと、まったく覚えていないよ!
──生まれたのは大阪ですが、育ちは東京の下町ですよね。たとえば第二次世界大戦の前夜あたりから記憶は残っていたりしますか?
毒蝮 そうね。小さいころは軍国少年だったな……。(※七五三の写真を出しながら)これ見てくれる? 俺が5歳のときなんだよ。服に「大日本海軍」って書いてあるのわかる? 明治神宮で撮った写真なんだ。俺だけじゃなくて、当時はみんな将来何になりたいかって聞かれたら「兵隊さん」って答えるのが当たり前だった。やっぱり兵隊はカッコいいと思っていたからさ。「電車の運転手がいい」って言う奴も中にはいたけどね。
──それが時代の空気だったんですね。
毒蝮 ……でもさ、この記事を読んでいる人は戦争のことなんて知りたいのかな?
──それは知りたいと思いますよ。あれから年月が経っているからこそ、風化してしまった部分もありますし。
毒蝮 そうだよな。実を言うとさ、俺も最近そのことはよく考えるんだ。というのも、俺はもう87歳なんだよね。終戦の時点で9歳。だから実際には戦地に行ったわけじゃないの。でも空襲は体験しているし、戦争がどういうものなのかは自分なりに語ることができる。戦争を生で語れるのって、もはや俺たちが最後の世代じゃないかな。
──実際、その通りだと思います。
毒蝮 たとえば大沢悠里ちゃんは俺より5歳下なんだけど、(1945年)3月10日の東京大空襲をかすかに覚えているらしいんだよ。でも、母親の背中に背負われて逃げたという場面しか印象にないんだって。そりゃそうだよな。4歳のときの記憶なんて、誰しもぼんやりしている感じだろうからさ。大抵の人は、記憶がしっかりしてくるのって6~8歳くらいだろうし。
俺はさ、たまたま仕事でラジオをやっているし、大学で女子大生に教えたりもしているじゃない。だから、普通よりは若い人たちと話す機会も多いと思うんだ。そこでふと感じるのは、自分が経験した戦争のことを次世代に語り継ぐのは一種の義務なのかなってこと。ましてや今はすぐ終わると言われていたウクライナとロシアの戦争が長引いているうえに、北朝鮮からもひっきりなしにミサイルが飛んできているご時世。いろいろ考えちゃうよな。
──日本においても戦争そのものに対する関心が高まっていることは感じます。
毒蝮 「戦争には勝者も敗者もない」って新聞なんかには書いてあるよね。本当にそうなんだ。勝ったほうだって多大なダメージを受けるわけだから。実際、ロシアだって傭兵がたくさん死んでいるっていうしさ。もちろん非戦闘員も殺される。子どもやお年寄りだって虐殺される。それが当たり前なんだよ。そもそも戦争って残酷なものなんだから。
──毒蝮さん世代の方が戦争を語ると、やはり言葉に重みがあります。
毒蝮 しかし俺にとっての戦争となると、どこから話せばいいかな……。まず俺には兄が2人いるのね。俺とは親父が違うんだけど。それで沖電気に勤めていた1番上の兄が中国……当時は支那と呼ばれていたんだけど、そこに行くことになったわけだ。そのことが記された手紙が家に届いたから、おふくろと一緒に慰問に行ったことは覚えているよ。たしかおふくろも「立派に死んでほしい」くらいのことは言っていた気もするな。
一方、2番目の兄は逓信省に勤めていたんだよ。逓信省と言っても今はわからないか。これはのちの郵政省。今は総務省になっているのかもだけど。それで当時は(チャールズ・)リンドバーグがプロペラ機でニューヨークからパリまで飛んだり、大西洋を横断したりして、日本でも航空熱が高まっていてさ。2番目の兄貴もそんな姿に憧れて、郵便飛行士になろうと仙台にある飛行学校に入ったんだ。リンドバーグは兵隊じゃなくて、郵便飛行士だったからね。ところが、この仙台飛行学校は途中から特攻隊の育成所にすり替わったわけ。平和に貢献しようとしていたのに、気づいたら兄貴も人殺し要員にさせられちゃって……。
──そんなの騙し討ちじゃないですか。
毒蝮 騙し討ち? それを言ったら、戦争の本質なんて全部が欺き合いだよ。二・二六事件だって盧溝橋事件だって同じ。全部が捏造、すり替え、ゴリ押し、欺瞞、詭弁……そういった人間の汚い部分のオンパレードなんだから。プーチンなんて元KGBだし、その最たる例じゃないか。ゼレンスキーだって騙し合いをしているしね。「援助してください」と国際世論に訴えたら、戦車とかがウクライナに与えられることになる。それは結果的に戦火が大きくなるということだからさ。そして最前線で死んでいくのは常に下っ端の人間というわけ。
──……たしかにそういう面はあるかもしれません。
毒蝮 話を2番目の兄に戻すと、戦争が激しくなったものだから、途中からは仙台じゃなくて中国に行かされたんだよね。戦争があと1~2か月長引けば、兄貴も特攻隊として飛ばされていたらしい。当時、沖縄にアメリカの艦隊が集まってきていたの。だから片道分だけの燃料と150キロの爆弾を積んで、そこに突っ込んでいくんだよ。
一応、教官はみんなからの申し出を募るそうだ。「特攻隊に行きたい奴は『〇』を書け。行きたくない奴は『×』を書け」って。二者択一だよな。そして飛行機は毎日どんどん飛んでいくことになる……。
──みんな「〇」を記入したということですか。本音は「×」を書きたいでしょうけど。
毒蝮 そういうことだよね。兄貴は「これ、どうする?」って仲のいい友達と2人で悩んだらしい。だけど、場の空気的に「×」は書けないよ。とはいうものの、何かしら書いて提出しなくちゃいけない。それでどうしたかというと、震えるような小さい字で「〇」を書いたんだって。その気持ち、すごくよくわかるよ。
──もし「×」と書いて提出したら、どうなったんでしょうね?
毒蝮 その場で処刑されたんじゃないの?「私は非国民です」って宣言しているのと同じだから。戦争が終わってから「実は私は戦争反対の立場を取っていました」なんて言い出す人も現れたけど、「嘘つけ!」って俺なんかは思うよね。正直者じゃないし、後出しじゃんけんみたいだなって感じる。あの時代、とてもじゃないけどそんなことは言えない空気だったよ。
東京大空襲を経て芸能の世界へ
──お兄さん2人は召集されたということですが、毒蝮さん本人は?
毒蝮 まだ小学生だったから、普通だったら学童疎開するのよ。当時は品川の戸越公園あたりに住んでいたんだけど、学校の子どもたちはみんな長野に行ったね。なぜ俺だけ東京に残ったのか親父にあとから聞いたら、「馬鹿野郎! 死なばもろともだろうが」とか言っていた。
親父は大工だったんだけど、一時は海軍技術研究所っていう今は防衛庁になっているところで仕事していたからさ。たぶんそのへんの情報は早かったんだと思う。つまり大東亜戦争に突入したら、日本はこっぴどい目に遭って負けるって薄々気づいていたんじゃないかな。もし小学生の俺1人が疎開先で生き残っても、結局、身寄りもいないわけじゃん。だったら一蓮托生でいいという発想になったというわけ。実際、うちらの家族は昭和20年(1945年)の空襲で生きるか死ぬかギリギリのところをさまよったしね。
──いわゆる東京大空襲ですね。
毒蝮 まず死者が10万人近く出た3月10日の空襲では、おふくろと一緒に近所の空き地に逃げ、遠くの空が真っ赤に燃えていたのを覚えている。そのあとも大きな空襲は何回かあったんだけど、うちらが住んでいた城南地域をモロに襲ったのが5月24日から25日にかけての空襲。このときはB-29が500機くらい出ていて、空は真っ黒。3月10日以上の数だったんだよ。死者の数は3月10日のほうが全然多いんだけどね。
それでも大空襲だから、人はいたるところで当たり前のように死んでいるわけ。あるいは焼夷弾が直撃して、真っ赤に焼けながらのたうち回っていたりしてさ。それはもう本当に地獄そのものだよ。俺とおふくろはほうほうの体で逃げたんだけど、燃えているところを歩き回ったものだから靴がダメになっちゃった。そうしたら俺と同じくらいの子ども用サイズの革靴が、そのへんに落ちていてね。履こうと思って靴を拾い上げてみると、ひとつは軽いんだけど、なぜかもうひとつは重いんだよ。どういうことかというと、片足分だけ持ち主の足首が入っていたんだ。
──履いていた子どもは死んだということですか?
毒蝮 そう。特に血もついていなかったし、かまいたちみたいにして足先だけスパッと切れたんだと思う。だけど極限状態にあったものだから、俺はその革靴から足首を抜いて普通に履いたんだよね。親も特に止めなかった。持ち主の子どもは死んでいるわけだから、どうせなら物資不足の中、同じくらいの子に使ってもらったほうがいいという考え方もできるし。
──想像を絶します。
毒蝮 ここまで厳しい話は、なかなかテレビではできない。でも、さっき言ったように戦争の愚かさを伝えられるのは、俺たちが最後の世代だと思うからさ。これは本当にきちんと記事にしてほしいな。
──かしこまりました。戦後の毒蝮さんは中学1年生のときに『鐘の鳴る丘』で初舞台を踏むと、その後も子役として活躍していましたよね。
毒蝮 すべて行き当たりばったりだったけどね。まぁでも出演した作品の数でいえば結構なものになったし、一応は学費も映画の出演料で払ったりしていたしさ。そこそこ楽しんではいたんだよね。当時は映画だけではなくテレビでもドラマが始まった時期で、そこの波に乗れたのも大きかった。もちろん『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』もその流れだったんだけど。
──1966年放送の『ウルトラマン』では科学特捜隊のアラシ隊員役、1967年放送の『ウルトラセブン』ではウルトラ警備隊のフルハシ隊員役で活躍しました。
毒蝮 『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』を作った円谷英二さんは、『ゴジラ』を撮った人でもある。『ゴジラ』という怪獣映画は、アメリカに対する水爆反対・戦争反対のメッセージが込められているんだよね。ただし戦後の日本社会ではダイレクトにそんなことをアメリカに言えなかったから、映画の中で主張したわけ。皮肉なことに『ゴジラ』自体はアメリカ人に大ウケするわけだけど……。
円谷さんは戦犯として公職追放になったこともあるものの、クリスチャンだから基本的には反戦主義者だし平和主義者。『ウルトラマン』の撮影現場でもよく熱く語っていたよ。「地球は地球人で守るしかないんですよ」って。つまりスーパーマンみたいな存在はいるわけないということでさ。
──そんな理念が『ウルトラマン』の中にはあったんですね。
毒蝮 だって地球温暖化や核戦争にしたって、地球人が地球を壊しているだけじゃない。今だったら、中国からの大気汚染や福島の処理水だってそうかもしれない。原子力発電所も日本みたいな地震国で建設していいのか、そこは本当に慎重に議論を重ねなくちゃいけないところだよね。温暖化によって山火事だって起きる可能性はあるし。いつまで人類はこんな愚かなことをしているのかっていう話だよ。
石井伊吉から毒蝮三太夫へ
──『ウルトラマン』は視聴率40%を超えるモンスター番組でしたが、それで毒蝮さんの俳優人生も変わったんじゃないでしょうか。
毒蝮 いや、そんなことは全然ない。放送当時、『ウルトラマン』は「ジャリ番(※子ども向けの低俗な番組)」とか呼ばれてバカにされていたね。振り返ってみると、作品の中では公害や交通戦争の問題にも警鐘を鳴らしていたんだけど、当時の俺たちはそんなこと何もわからなかった。早く撮影を終わらせて飲みに行くことばかり考えていたよ(笑)。
あのオレンジの服が邪魔でしょうがなくてさ。そのうち家にもガキがやってくるし、なんでこんなに人気があるのか意味がわからなかった。正直、今でもわかっていない部分はあるね。でも、明確にヒットした理由はあるんだろうな。だって『忍者部隊月光』とかは覚えていないけど、『ウルトラマン』はいまだに55周年フェスティバルとかやっているわけだし。今やっている令和版『ウルトラマン』シリーズには公害の問題提起や反戦思想はないだろうけど、俺はそれでいいと思うんだ。時代が違うんだから、同じようにする必要はまったくないよ。
──俳優時代の毒蝮さんは、借金を抱えながら新劇の「劇団山王」も作りました。硬派な役者業を続ける中、テレビの特撮というのはあまりにも毛色が違ったのでは?
毒蝮 そこの部分の抵抗感はすごく強かったよ。こっちはシェイクスピアがやりたいのに、なんで20メートルの怪獣相手に演技しなくちゃいけないんだよってフラストレーションを抱えていた。仲がよかった(立川)談志も俺の姿を見て、「こんな人気は長く続くものじゃない。お前は役者を辞めて1人でしゃべるべきなんだ」ってこんこんと説得してくるわけ。それで結果的には本名の石井伊吉から、毒蝮三太夫という芸名に変わるんだけどね。
──それが『笑点』出演時のタイミングですよね。ずっと役者を続けていて落語の世界とは無縁だったはずですが、なぜ飛び込もうと決意したんですか?
毒蝮 談志の誘いが、すごくしつこかったんだ。7~8年くらい言われ続けていたんだから。それで根負けした部分は大きいな。
──役者業が箸にも棒にもかからないならわかるのですが、キャリア的には順風満帆だったのではないですか?
毒蝮 順風満帆というのは大袈裟だけど、そこそこやれていたのは事実。だから、そこも悩んだポイントではあったね。決め手となったのは、談志っていうのはすごく見る目が鋭いんだよ。落語の師匠に対しても、臆することなく「あいつはダメ」とか平気で言っちゃう人なの。忖度なんて一切しない男だったからね。その談志が「お前はしゃべりのほうが向いている。寄席に来い」って繰り返し言うものだから、その言葉を信じてみようなと思ってさ。
結果的には、あそこが俺の人生のターニングポイントだったと思う。談志の言葉を信じてよかったと今でも思うね。最初は俺も『笑点』に座布団運びで出演して出演者として時には答えたりしたんだけれど、まったく受けなくてさ。もともと落語家に憧れていたわけじゃないから、場違い感もすさまじかった。本職の落語家たちからは「なんなの、こいつは?」って感じで冷ややかに見られていたしね。
──ただ、『笑点』の出演は短期間で終わります。
毒蝮 『笑点』という番組は、基本的な枠組みを談志がすべて作り上げたんだ。番組の構成から出演者のキャラクター設定まで本当に全部を決めていた。談志の笑いっていうのはシック・ジョークがベースにあるのね。アイロニーなわけよ。そのへんは今の平和的な『笑点』とはだいぶ勝手が違っていたね。2言目には「それってコンプラ的に大丈夫ですか?」とか言い出す今のテレビ界だったら、成立しない笑いだったかもしれない。談志は臨戦態勢だったからさ。それであいつは『笑点』の人気がだんだん出るようになってから辞めたの。本当は俺まで一緒に辞める必要はなかったんだけど、あいつに誘われて出始めた『笑点』だったから、もういいやと思ってね。
殻を破って出てきた「うるせえな、ババア!」
──冠番組の『毒蝮三太夫のミュージックプレゼント』が始まったのは、そのすぐあとですよね。
毒蝮 スタートしたころは俺もかしこまっちゃって、今みたいなスタイルじゃ全然なかったね。結局、俺は役者をずっとやっていたわけじゃない? だから落語の番組に出ると落語家みたいに演じるし、ラジオに出たら一般的なレポーターを演じなくちゃいけないと思っていたの。だけど談志とか地元の友達とかは「お前、なんで普段の調子でしゃべらないの?」って言ってくるわけ。1年くらいは殻が破れなかった気がする。
──そして殻を破った瞬間、「うるせえな、ババア!」といった暴言が飛び出すようになったわけですか(笑)。
毒蝮 いや、暴言じゃなくて本当のことだから(笑)。普段、下町の仲間としゃべっているときは「そうですよね、おばあさん」なんて優しい口の利き方していないわけだしさ。それを普段通りにしたら、一気に弾けた番組になっちゃった。
相手から話を引き出すような今のスタイルは、おふくろからの影響も大きいかもしれない。一時、地元でおしるこ屋をやっていたんだけど、おふくろはそこで吉原で働いている女郎さんたちから悩み相談をよく受けていたんだ。正直、アドバイスとしては大したことも言っていないと思うんだけど、安心して話せるような雰囲気をおふくろは出していたんだろうね。その血は俺にも流れているわけでさ。
──番組が長く続いている秘訣はどういうところにあるのでしょう?
毒蝮 自分ではわからない。でも俺の中の感覚としては、『ミュージックプレゼント』って番組収録というよりもライブショーに近いんだよ。だから放送が終わってからも、会場で30分くらい延長してしゃべっているの。それは要するにラジオのリスナーではなくて、目の前にいる人たちを満足させたいっていう気持ちだよね。もちろん最初はスタッフも嫌がっていたよ。だって、そんなことしても番組に反映されないんだから。でも「昨日、こんなことがあってさ」みたいな話をしていると一種のネタ出しにもなるんだよね。そういうところで交わされる会話から、明日しゃべる内容が決まることもあるし。
──最近の毒蝮さんに関していうと、2005年に腸閉塞で入院されていますよね。ニュースにもなりましたが、ご自身の中でも気持ちの面で変化は生まれましたか?
毒蝮 少なからず変わったところはあるだろうね。なにしろ41日も番組を休んだしさ。入院したのが12月だったから、2006年のお正月を俺は病院で過ごしているんだよ。そのときに詠んだのが≪これがまぁ おせち料理か2006 管を通して 流し込むらむ≫という短歌。それまで大病なんてしたことなかったから、家内も気が動転しちゃったよ。当時は姉歯事件が毎日のように報じられていたものだから、それにつられて病院の書類で「妻」って書かなくちゃいけないところを「姉」って間違えたくらいだから(笑)。
ただ、入院によって学んだことも大きかったね。入院すると、自分の立ち位置や価値が見えてくるんだよ。他人からどう思われているのかもクリアになるし。TBSのディレクターやプロデューサーだけじゃなく、社長まで飛んでくるという話になったときはビックリしたね。今だから言うけど、悪い気はしなかった(笑)。
──でも元気に復活して、ラジオのリスナーもホッとしたと思いますよ。
毒蝮 大きな病気をすると、健康のありがたみをしみじみ感じるよね。それと思ったのは、看護師さんやお医者さんに愛される患者にならないとダメ。「この患者を治したい」って思われるような患者に自分でなるべきなんです。
──含蓄のある言葉ですね。
毒蝮 自分が入院してから、番組で病気の人に接するときの態度も少し変わったかもしれないな。ちょっと前の生放送で、千葉県船橋市で40代くらいの女性の方から「胸を撫でてください」って言われたことがあるの。でも、今の時代は女性の胸なんて触ったら「パワハラだ! セクハラだ!」って瞬く間に糾弾されちゃうでしょ? それで躊躇していたら、「乳がんの手術を受けるから元気づけてほしい」という話だったんだよね。
その女性は3か月くらいしてから、また別の生放送で会ったよ。「おかげさまで手術がうまくいきました」って元気そうにしていた。そのとき、少し思ったんだよね。「俺も少しはいいことしているのかな」って。
──当たり前じゃないですか! 毒蝮さんのトークで元気をもらっているリスナーは大勢いると思いますよ。
毒蝮 もし毒蝮三太夫に改名もせず、あのまま俳優を続けていたら今頃は仕事なんてないよ。セリフだって覚えられなくなっているだろうしさ。幸いなことに腸閉塞をやってからは特に大きな病気もないし、それどころか自分でも健康そのものだと思っているんだ。老人なのに早寝早起きもせず、夜中3時くらいに寝て昼の12時に起きる毎日。酒も飲んでいるし、車の運転もする。歯だって28本全部が自前だしね。年寄りじみていないというか、加齢に逆らった生き方をしているなって自分でも呆れるよ(笑)。
──本当にバイタリティの塊ですね。
毒蝮 とはいうものの、油断は禁物。好事魔多し。自分を過信しているとロクなことがないから、そこは気をつけるようにしているけどね。交通事故を起こす前に免許返上するつもりだし。
リスナーよりもジジイになった今後は……
──驚くのは、毒蝮さんが『ミュージックプレゼント』を始めたのって、33歳の若さだったんですよね。33歳なんて、社会から見たらまだ小僧ですよ。当時は血気盛んな若手が「おい、ジジイ」と呼びかけていたわけですが、今やその毒蝮さんもジジイ側の人間なわけで……。
毒蝮 いや、本当にそうなんだよね。現場に行っても、今は俺より年下の人が多いんだもん。自分のほうがジジイなのに、「おい、ジジイ」というのも違和感があるよ。だけど、今のお年寄りって全般的に若くなっているでしょ? 70歳くらいじゃまだ貫禄がないというか、ジジイとかババアっぽい味わいが出ないんだよね。だから最近は「あなたにはまだババアと呼ぶだけの魅力がありません」とか言うこともあるけどさ。
まぁでも自分でも「このくたばり損ない!」とか言いたい放題の番組がよく続いていると思うよ。若い人たちはどう思っているのかね? 相手にもしていないのかな?
──たしかに言葉は汚いですけど、単なる悪口ジジイではないということは伝わっているんじゃないでしょうか。
毒蝮 まぁそこは長年やっているとコツみたいなものがあって、たとえば「おい、ババア」とか言ったあとに「元気でな」とか「また会いたいね」とかフォローするわけだよ。転んでもただでは起きないというか、足を蹴飛ばしておきながら頭を撫でるみたいなことをちゃっかりやるわけ。(笑)
それは俺がやっぱり下町育ちだからなんだろうね。それも遊郭・吉原が近くにあるような、竜泉寺という下町。そういう地域では、どんなことをしてでも生き抜いてやるんだという根性のある奴がいっぱいいるんだよ。這いつくばっているような連中と一緒にいるうちに、したたかに世を渡っていく術が自然と身についちゃった。柄の悪い江戸っ子というのは、人におべっかを使ってご馳走になってもうれしくないの。毒のある言葉を吐いて、「あいつ、面白いな」って言われるのが性に合っているんだよね。
──仕事に関しても1人の人間としても、今後のビジョンはありますか?
毒蝮 「欲張らない」「人を蹴落とさない」「嘘はつかない」。この3つは、ずっと肝に銘じていくつもりだけどね。実は今日もこの取材の前に2つくらい打ち合わせや収録をやったんだけど、うちの奥さんなんかは「また今日も仕事なの!?」とか怒るわけよ。「もう出世なんてしなくていい。それより家で2人だけで暮らしたい」とか言ってね(苦笑)。
でも、俺はまだ周りに求められているわけだから幸せ者だと思うよ。仕事で若い人と接することが多いから、脳も活性化されるしさ。やっぱり年を取れば取るほど、柔軟で瑞々しくしていたほうがいいわけ。偏屈な年寄りなんて、嫌われる要素しかないんだから。そんなのは損でしかないよ。
──毒蝮さんは理想的な年の取り方をしているように感じます。
毒蝮 よくお年寄りが「若者が寄ってこないから寂しい」とか言っているのを聞くけどさ。よく観察してみると、自分に原因があるケースが多いんだ。若者が寄りたくない老人になっているんだもん。別に若い人たちに迎合する必要はないけど、自分たちの世代が知っていることを若い人にもわかるように説明する努力は大事だと思うな。これからの日本はますます高齢化社会になっていくわけだけど、お年寄りの側も変わらなくちゃいけないよね。若い人たちが「ああいうカッコいいジジイやババアになりたい」って憧れるような老人が世の中に増えればいいなと思う。