いまや、至るところで目にするようになった「断捨離」という言葉。最初に提唱し、著書やテレビ・雑誌などのメディアを通じて広く一般化させたのが、やましたひでこさんです。そんな正真正銘の“生みの親”が、日々思うこととは何なのか? 日常における、断捨離にまつわる気づきをしたためたエッセーを毎月1本、お届けしています。第8回の今回は、いよいよ盛夏を迎えたいま、あるべき夏の住まいについて思い巡らせます。
やましたひでこさんの「断捨離」にまつわる話 バックナンバー
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夏の日々の暮らしを愉しみ、味わう
梅雨明けが随分と遅れたこの夏。だから、遅れた分、しっかりと夏を取り戻したいと思うこの頃。
夏の暑さは辛いものではあるけれど、やはり、夏は暑くなければと思う。だからなのか、冷夏なんて言葉ほど寂しく響くものはなく。
けれど、夏の暑さを愉しむためにはこの条件が必ずつく。それは自然の中であること。都会の喧騒の中での暑さはとてもでないが勘弁していただきたいもの。なぜなら、それは「暑さ」ではなく「熱さ」だから。アスファルトからの照り返し熱、エアコンの排気熱、そう、コンクリートのジャングルの中は熱波の嵐であって、それを愉しめる訳はないことですね。
ならば、夏は、やはり都会を離れようか。けれど、それは、べつに大自然の中へとはかぎらない。高原や海辺というリゾートでなくてもいい。小さな自然があればいい、ちょっとした田舎でいいのだ。そう、家々さえ立て込んでいなければそれでかまわない。
窓を大きく開け放ち風を取り込む。深いひさしの内で庭を眺めながら麦茶と西瓜。畳の上に大の字に寝転んで本をめくるかと思えばうたた寝。夜ともなれば、渦巻きの蚊取り線香を焚いて縁側で枝豆に冷えた麦酒。
これが、まっとうな夏の過ごし方。なんて、あくまでも私の嗜好ではあるけれど。とはいえ、こんな夏を過ごせることの方が、今は贅沢なのかもしれない。
都会であれ地方であれ、こんな夏の過ごし方ができる家のつくりがどれだけあるか、どれだけ残っているのか。それは残念なばかりの心許なさ。
高気密高断念の家づくりが主流の今、たとえ、それなりの敷地があっても庭は窓越しに眺めるもの。窓を大きく開けるなんて気持ちは起きようもなく吹き抜ける風など求めることは叶わない。第一、それは防犯上よろしくないという思いが先行するはず。
それに、畳の間だってどんどんと姿を消している。まして、広い縁側を確保するゆとりはどこにあるだろう。それに、たとえ、畳の間があったとしても、そこにはカーペットがかぶさり沢山の家具が置かれているのが大抵のこと。大の字になって寝転ぶスペースはどこにもなく、さらに締め切った部屋で蚊取り線香の風情を味わうなど無理な話で、味気ない電器製品のそれに取って代わられているだけ。
夏を涼やかに暮らす。
夏を開放的に暮らす。
夏の住まいを涼やかに開放的にしつらえる。
そんな発想は、今、どこかに置いてきてしまって。そんな思いで夏を愉しんでいこうとする心の余裕はどこにも残っていなくて。
夏であってもピッタリと窓を締め切って部屋をひたすら冷やす。そうか、これでは、開放感はどこにもなく息苦しさがつきまとうだけなのに。
そして、家のつくりも気密また密閉へと進んでいるけれど、暮らし方もまた閉塞また圧迫へと進んでいることは否定しようもないこと。
さして広くもなくリビングにそぐわないソファを置き、壁には家具が張り付くようにして取り囲むという圧迫。それだけならまだしも、床置きされたモノたちがはびこる。寝室だって同様のそれ。部屋いっぱいの大きさのベッドがそこに閉塞を呼び込んでいる。
「家のつくりやうは、夏をむねとすべし」
「冬はいかなる所にも住まる、暑き頃わろき住居は堪えがたき事なり」
これは言うまでなく、兼好法師「徒然草」の中のもっとも知られた一節。けれど、今の私たちは寒さを一番に嫌う。いえ、冬でも室内ではTシャツ一枚で薄く暖かく過ごしたいのだ。兼好法師の「冬はいかなる所にも住まる」という発想は、どうしたって、今の私たちには通用しない。
こうやって、いつの間にか夏の愉しみを置いてきぼりしているのだとしたら。そう、五感を総動員して夏の日々の暮らしを味わうことを忘れてしまったとしたら。
夏大好き派の私としては、それこそが、たまらなく残念なよう。
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