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2019/9/25 21:00

超恥ずかしがり屋の少年が「視聴率100%男」になるまで――欽ちゃんの波瀾万丈な半生

コント55号で爆発的ブレイクを果たし、その後も「視聴率100%男」と称され時代の寵児となった萩本欽一さんも78歳。人生を総括する時期に来たと神妙な表情で語る。現在のお笑いやテレビについて思うことから、大学を自主退学した理由、吉本問題、ジャニーズとの関わりまで語りつくしたインタビュー前編は大きな反響を呼んだ。後編となる今回は、自身の半生を生い立ちから順に振り返っていく。

 

(企画・撮影:丸山剛史、執筆:小野田衛)

 

【インタビュー前編はコチラ

級長なのに「起立!」と言えない恥ずかしがり屋!?

──ここからは、昔のことを中心にお伺いできればと考えております。萩本さんの物語は「貧しい家庭で育ったものの、その反発心から芸人として成り上がった」という切り取られ方をされることが多いです。しかし、最初から貧困に苦しんでいたわけでもないようですね。

 

萩本 そうね。むしろ生まれてからしばらくは、ものすごい大金持ちだったのよ。終戦後、親父はカメラの仕事でとてつもなく儲けたんだから。上野の駅前に店を構えていたんだけどね。どうやって儲けたかというと、まず戦時中、東京にいると爆弾が降ってくるということで、みんな疎開して逃げちゃったの。逃げていく人の中にはお金を持っている人もいれば、そうでもない人もいるよね。逃げるためのお金がない人は「じゃあ、これをお金に換えてください」ということで、うちの親父のところにカメラの故障品やカメラ部品を持ってきたわけ。実際に持ってきたのは、カメラの仕事をやっている同業者が多かったみたいだけど。

 

──質屋みたいな状況だったんですかね。

 

萩本 でも「お金に換える」と言っても時代が時代だったし、もうほとんどタダみたいな値段ですよ。結局、親父は労せずしてカメラ部品を大量に集めることができたというわけ。それで終戦後、その材料を組み立てて売り物にしたんだけど、すごいときは1日に400台くらい売れたらしいんだよね。どんなに頑張っても一晩で50~60台くらいしか作れないのに、ウインドウに置くと1時間足らずで売り切れるんだから。さらにすごいのは、その上野の店で売れた商品が数時間後には銀座の関係ない店に置かれているの。どういうことか、わかります? 上野で買った人が、値段を勝手に上乗せさせたうえで商売やっているんだよね。それくらい街には品物がなかったということなんだけどさ。それに加えて、進駐軍のアメリカ人も「日本のカメラはモノがいい」ということで買っていくから。どれくらいの大金が入ったのか、想像もつかないよね。

 

──日本人がみんな貧乏だった時代だから、余計にお金を持っていることが目立ったかもしれません。

 

萩本 あとから小学校入学式の写真を見たら、きちんとした白いシャツを着ている子は4人しかいなかったね。みんな入学式で着る洋服なんて持っていないんだから。そういう時代だったんですよ。それで僕、なぜか級長をやることになったの。「級長をやりたいです」なんて一切言っていないのにね。どうしてかというと、親父が学校にいろんなものを寄付していたから。まだ希少価値があったアルバムとか、写真を入れる額縁とか、そういった類のものをさ。学校とやり取りを続ける中、親父がふと「うちの息子は級長がいいかな」とつぶやいて、それがそのまま決まったというわけ。親父としては「級長になれば、自然と勉強するだろう」って考えたらしいんだ。実際、小学校のときは僕も成績もよかったしね。

 

──成績も育ちもいい「おぼっちゃま」といった感じでしょうか。

 

萩本 たしかに周りから見たらボンボンに映っただろうなあ。なにせお手伝いさんも2人いたしね。夜になると、お手伝いさんがイソップ童話とか『はなさかじいさん』とかの絵本を読んでくれたんだ。絵本を読んでもらう時間がとにかく大好きだったし、あれは僕の人間形成にも大きな影響を与えたんじゃないかと思う。

 

──どんな性格の子どもでした?

 

萩本 ものすごい恥ずかしがり屋! 級長なのに「起立!」と言えないんだから。「……きっ……きっ……」って感じで、言葉が続かないのよ。中学生になっても人見知りは治らないどころか、むしろひどくなる有様でね。人付き合いが嫌で嫌でしょうがなかった。家の近くに植物園があったんだけど、いつもそこに行って1人で絵を描いていたよ。それが僕にとっては、すごく幸せな時間だったの。なにせコメディアンの前は絵描きになりたかったくらいだからね。しゃべらなくても済む仕事なんて最高だなと思っていて。

 

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事業失敗、父親失踪――そして「萩本家解散」

──ご実家のカメラ事業は途中から傾いていったそうですが、どういった経緯で?

 

萩本 僕が小4になったとき、親父は「これからは大きなカメラを首からぶら下げる時代ではない。手に持てるような小さいカメラに取って代わるぞ」って言い出したの。いわゆるコンパクトカメラだよね。たしかに着眼点はよかったと思うんだよ。それで工場を作り、一気に小さいカメラで勝負を懸けたわけ。ところが、これが思うようにいかず……。親父に言わせると「俺の人生は6勝1敗」ということらしいんだけどさ。その1敗というのが、金額的にとてつもなく大きな1敗だったわけ。

 

──なるほど。そのために工場まで作ったわけですからね。

 

萩本 すべてを失った親父は言っていたよ。「俺がこうなったのは、結局のところ、学がないからだ」。実際、親父は小学校までしか出ていないからね。だから「大学は絶対に行け。それも東大以外は認めない」みたいなことをいつも口にしていたな。「いいか? 勉強をしないと人が使えない。人が使えないと仕事は伸びない。そこが俺の敗因なんだ」って。

 

──お父さんは豪放磊落な人で、外で妾さんも囲っていたとか。

 

萩本 そうなんだけど、あれはどう説明したらいいのかな……。後ろめたい愛人という感じでもなかったんだよね。だって夏休みになると、母が「おばちゃんのところに遊びに行ってきなさい」って言うのよ? つまり、母親も公認の存在だということ。それで僕が「動物園に行きたい」とか「今度は海がいい」とか言うと、ちゃんとおばちゃんは連れていってくれるの。当時の僕からすると、「お母さんより自分を大事にしてくれる人」という認識だったな。親父が亡くなってからも、よく一緒にいたしね。「あんたも大変だったね」とか、しみじみ言われたのを覚えています。

 

──たしかにそれはちょっと理解しがたい関係ですね。

 

萩本 これは兄貴に聞いたんだけど、うちの母親は「子どもが横道にそれるのを全力で避ける。それこそが母親の務め」と考えていたらしい。ここまではわかるんだけど、「お父さんの面倒を見るのは、それほど重要ではない。そんなのは他の人でもできる」という考え方も同時に持っていたの。母親からしたら「子育てで手一杯だから、父の面倒を見ている余裕なんてない」という話になるらしいんだけども。うちの母、ものすごい箱入り娘だったんだよね。結婚して親父が家に帰ってきても、食事の用意なんてしないでボーッと座っているんだって。ごはんなんてお手伝いさんが作るという環境で育ったから、自分で作ろうという発想すら湧かないんだと思う。そんな調子だから、もちろん洗濯なんてするわけないしね。

 

──少年時代の萩本さんにとって、お父さんはどういう存在でした?

 

萩本 親父とは、ほとんど口もきかない関係だったな。仲が悪いという感じでもないんだけどさ。なにしろ週末しか家に帰ってこないんだから、話す機会もそれほどなかったし。そうすると子ども心にも「あれ? うちは他の家とちょっと違うのかな?」って不思議に思うじゃない。すると母親が言うわけ。「とにかく男というのは働くことが一番大事。毎日家に帰ることができるような仕事は、ちゃんとした仕事とは言えません」。今思うと、めちゃくちゃなことを言っているんだけどさ(笑)。でも、そのときは「そういうものか」って納得しちゃったよね。「あまりこういうことは言いたくないけど、よそのご家庭はあまりちゃんとしたお仕事をなさっていないんじゃないですか?」とか、平然と言っていたし。

 

──のちに萩本さん自身が親になったときも、子どものために早く帰宅するような生活ではなかったという話があります。

 

萩本 うん、だからそれは「早く家に帰る=ちゃんと仕事していない」みたいな幼少期の刷り込みが影響しているのは間違いないだろうね。自分が結婚した奥さんも、「家のことはやっておくから、仕事は仕事で好きにやって」という感じだったし。そういえば、母親に関してはすごく印象に残っている出来事があるの。あるときに「お母さん、ちょっと忙しいからさ。おつかいに行ってくれない?」って頼まれたんだけど、「え~? こっちも手が離せないんだよ」みたいに口ごたえをしたわけ。ところがそれからも母親は「本当にお願い!」みたいにしつこく言ってきたから、「わかった、わかった。行ってくればいいんでしょ?」みたいに不貞腐れた態度で僕も返事したんだよね。すると次の瞬間、母親の平手がバーンと飛んできた。普段はそんなに手を出すタイプでもないから、僕もビックリしちゃって……。

 

──お母さんは何に怒っていたんですか?

 

萩本 「嫌だったら、嫌だと最後まで断りなさい! 行くんだったら、気持ちよく行きなさい! 嫌々行かれるのが一番頭にくる!」って、こう言うんだよ。これは子ども心にも非常に衝撃的だったね。自分の人生の中で肝に銘じている考え方と言っていいと思う。つまり仕事をするときは、気持ちよくやらなきゃダメ。嫌々やっていても、いい結果には繋がらない。そういうことなんだけどさ。

 

──でも一時はカメラの仕事で大成功を収めたわけだから、お父さんも商才は確実にあったんでしょうね。

 

萩本 まぁね。でも結局、最後は借金で首が回らなくなったものだから、家族を残して自分だけ逃げたわけ。調子がよかったときは店をいくつか回していたんだけど、それもどんどんなくなっていってさ。最後の砦だった上野駅前の店は、長男に任せるかたちで姿を消したね。だけどそんな調子で急に店を任されても、うまくはいくはずないよ。そのうち家賃とかが払えなくなって、借金取りが家に来るようになって……。「今、両親はいません」って伝えるよう母親から言われるんだけど、借金取りは借金取りで「いるのに、いないって嘘つくんじゃねぇよ!」って激高しているの。もうね、地獄みたいな光景ですよ。

 

──お母さんがお嬢様育ちなだけに、そのギャップが……。

 

萩本 借金取りの催促があまりにもしつこいものだから、最後は根負けした母親が玄関まで出ていくんだよね。それで何を話すかっていうと、「申し訳ございません……。申し訳ございません……」ってこれだけ。実際、それしか言うことがないのよ。正座の体勢で「申し訳ございません」って言うたびに母親は頭を下げるものだから、額が床につく音がコツンとするわけ。その「コツン、コツン……」という音に合わせるようにして、僕の目からは涙が「ポロリ、ポロリ……」とこぼれましてね。

 

──……やりきれないですね。お父さんの事業が失敗してからの生活拠点は?

 

萩本 まず埼玉の浦和にあった一軒家から、東京の稲荷町に引っ越したの。というのも、親父の働いていたところの本社が稲荷町にあったから。まぁ本社といっても、本当に小さい会社だったんだけどね。それで中学に入ってから、今度は小石川に引っ越したのかな。小石川のアパートでは生活がさらに苦しくなって、家賃も払えなくなる始末。最後はとうとう夜逃げして、渋谷の六畳一間のアパートに逃げ込んだんだよね。

 

──まさに極限状態ですね。

 

萩本 渋谷時代は大学を卒業したばかりの兄貴が働き始めていたので、毎月もらってくる1万2千円の給料でみんな食っていくしかなかった。こうなると、兄貴もたまったものじゃないよね。あるとき、とうとう感情が爆発して「僕には青春がない!」って言い出したの。「みんな、それぞれの力で生きていくことはできないの?」って。もっともな話だと思ったよ。それで僕と弟は「わかったよ、兄ちゃん。今までありがとうね。これからは自分の力でやっていくからさ」って伝えたんです。そのとき、弟なんてまだ高校生だったんだけど。

 

──それもすごい覚悟です。

 

萩本 本当に大したものだと思う。それで翌朝、家に届いた朝刊を見たら、一面に「安藤組(※1952年~1964年まで活動した暴力団組織。組長は安藤昇) 解散」と書かれていたの。その見出しを見たら、なぜか全身にやる気がみなぎってきてね。「安藤組も解散か。よし、萩本家も今日が解散式だ! ここからは各自で羽ばたいていくぞ!」って、みんなで誓い合ったんだから。

 

──安藤組も渋谷が拠点ですし(笑)。

 

萩本 そうそう(笑)。でも、その渋谷の解散式からは本当に家族がバラバラだったよ。どこに誰がいるのかもわからなかった。久しぶりにあったのは、僕が有名になってからのことだからね。

 

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中2のときの先生との出会いが僕をコメディアンにした

──芸人を志したのは、どうしてですか?

 

萩本 借金取りに責め立てられる母親を見ていたら、いろいろ考えるじゃない。わが家は大変なことになっている。貧乏というのは、ここまで人を追い詰めるものか。こうなったら僕は10年で家を建てる。そして母ちゃんに気分よく過ごしてもらうことにしよう。僕はそう決めたんです。じゃあ10年で家が建てられる仕事って何だろう? 思いついたのはプロ野球選手か芸能人しかなかった。弁護士さんとかお医者さんは、大学まで行かなくちゃいけないから現実的に無理だったので。あるとき、学校で女子生徒が持ってきた『週刊明星』をパラパラ読んだの。そうしたらたしか中村錦之助さんだったと思うんだけど、「新築の家を建てました」みたいな記事が載っていたわけ。「こんなに若くして自分の家を建てるなんてすごいね」って驚いたら、女子生徒に呆れられてさ。「何言ってるのよ。有名なんだから当たり前でしょ。家くらい簡単に建てられるわよ」って。「家を建てるんだったら芸能人」という僕の発想は、そこから来たんだと思う。

 

──内弁慶な青年だったということですが、人前に立つ仕事に不安はなかった?

 

萩本 その部分に関しては、ある先生のおかげで克服できた。本当に僕はおとなしかったし、授業中に手を挙げるなんてとんでもないことだと思っていたの。文句も言わないような子どもだったから、いじめっ子みたいな連中にいいように扱われていてね。その中でもガキ大将みたいなボスがいたわけ。そいつが何かやれって言うと、みんな絶対服従なんです。で、あるとき「黒板に先生の悪口を書こう」「萩本、お前も書けよ」みたいな話になって、しょうがないから僕も書いたの。そのときは歯向かう勇気なんてなかったですから。すると、そこに先生が現れてさ。僕は逃げ方なんてわからないからアワアワうろたえていたら、みんなは僕の分以外を全部消して一気にいなくなっちゃった。

 

──まるでコントじゃないですか。

 

萩本 本当にそうよ。その女の先生は「誰がやったの!?」と怒鳴っているんだけど、僕は何も答えられずにモジモジするだけ。怒られたら嫌だなあと思いながら、ずっと下を向いていたんだよね。「僕がやりました」なんて、とても答えられる空気じゃなかった。ところが先生は、怒るどころか優しい口調で諭してきたわけ。「萩本くん、男の子は自分の言葉を口にする勇気を持っていないとダメなのよ」って。これには感激したねえ。その言葉を聞いた瞬間、僕は先生のことが大好きになっちゃったし、先生の期待に応えたいと心から思った。だから次の日からは「この問題がわかる人?」って言われたら、答えがわかろうとわかるまいと「はい! はい!」と大声で手を挙げる生徒になったの。

 

──答えがわからなくても手を挙げる?

 

萩本 そりゃそうよ! こっちは先生の期待に応えたいという一心なんだから。「わかる人?」「はい! はい!」「じゃあ萩本くん」「はい! わかりません!」……この瞬間、クラスはドッと受けるわけ。でも自分としては、なぜ面白がられているのかも理解できない。他にも「はい! 僕はこの問題がさっぱりわからないけど、この子なら答えがわかると思います!」みたいなことを言って、みんなから笑われたりしてね。芸能界で大事な要素を、僕はここで身につけたんだと思う。つまりそれは「場の雰囲気に飲まれないで自分を出す勇気」「誰かの期待に応えたいという気持ち」。中2のときに出会ったあの先生が、僕をコメディアンにしたようなものですよ。

 

──コメディアンになるにあたって、最初は浅草松竹演芸場に入門するつもりだったのだとか。

 

萩本 それも運命のめぐり合わせなんだよね。ストリップ劇場だった東洋劇場(現・東洋館)、その演出の先生が僕に松竹演芸場を紹介してくれたんだけどさ……。

 

──それは、どういった繋がりで?

 

萩本 要するに自分が尊敬するエノケン(榎本健一)さんや(チャールズ・)チャップリンさんの本を読むと、10年くらいしっかり修行したと書かれているわけですよ。となると、僕も浅草の劇場で地道にやるしかないなと考えていたの。それで親父に浅草でやりたいんだということを伝えると、「そうか。でも、俺が知っているのは三益愛子さんくらいだな」って言われてね。三益愛子さんというのは作家・川口松太郎さんの奥さんで、トップ女優だった方。親父はカメラの仕事をしていた関係で、モデルとして知り合いだったらしいの。まぁそれはいいんだけど、「じゃあ、どうするか?」という話に改めてなったとき、「そういえば……」と出てきたのが東洋劇場の名前。親父が浅草で住んでいたマンションの大家さんが、東洋劇場と関係が深かったんだよね。それで東洋劇場で演出の先生をやっている人を紹介してもらったの。

 

──それが、おいくつのときですか?

 

萩本 中学卒業のとき。そういったツテができたので、とりあえずデン助(大宮敏充)さんのところに行ったんだけど、「これからはコメディアンでも学歴が大事。せめて高校くらいは出たほうがいい」とか言われてね。僕としては一刻も早く修行に出たい気持ちがあったんだけど、その言葉に従って高校は通うことにしたの。ところが、その3年間で事情が変わっちゃってさ。デン助さんが、すごい売れっ子になっちゃったわけ。東映の映画で主演とかやっていた次期だからね。楽屋に挨拶しにいこうとしたら、もうファンの人が列を作って並んでいるんだから。仲介してくれた東洋劇場の人から言われたのは「こういう状況だから、デン助さんもお前のことを覚えているかわからない。弟子入りなんて無理かもしれない。でも、無理だったとしても心配するな。そのときは俺のところに来ればいいから」って。ありがたい話だなとは思ったけど、「本命が無理だから、弟子入りさせてください」というのも失礼な話でしょ? だったらデン助さんのところを諦めて、最初からそちらでお世話にならせてくださいって伝えたんだ。向こうは「俺のところ? それだったら今日からでも大丈夫だよ」ってことで、すぐに東洋劇場に入ったんだけどさ。

 

──運命のいたずらですね。

 

萩本 のちにデン助さんに言われたのは、「お前はうちに来なくてよかったよ。うちだったら、一生、陽の目を見なかっただろうね」ってこと。たしかにそうなんだよ。というのもデン助さんのところはしっかりした劇団だから、先輩を追い抜くことはなかなかできないの。「お待ちどおさまでした~」とか言って、ずっとラーメンの出前役をやり続けるしかなかったと思う。

 

──結果的には東洋劇場に入ったことが、のちの成功に繋がりました。

 

萩本 「どっちが得か?」みたいに目先のことばかり考えているとダメなんだよ。そこには未来なんてない。損得勘定は運を呼び込まないからね。それよりは恩返しだったり、人の期待に応えたいという気持ちが大事だと僕は思うんです。人のために何かをすると、途中で投げられないじゃない。自分のために始めたことって、途中でつまずくと「まぁいいや。代わりにこれをするか」ってすぐに路線変更できちゃうでしょ。そこには大きな違いがあるよ。東洋劇場のときもデン助さんを紹介してくれたりしたのが純粋にありがたかったし、その気持ちに応えたいなと思っただけなんだよね。

 

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芸人クビを回避した『はい!』という大きな返事

──入団後、芸を教わったりはしなかった?

 

萩本 何も教わっていない。教えないで自分で気づくのが修行だから。いきなり劇場支配人に楽屋まで連れていかれて、「じゃあ、あとは頼むな」って先輩に声をかけて終わり。僕自身も、そういうものだと思っていたしね。「どうしたら上手くなるんですか?」って先輩に尋ねたこともあるけど、「やってれば上手くなる」とだけ言われたな。答えになってないよね(笑)。

 

──具体的には劇場で何をやっていたんですか?

 

萩本 まず芝居が1時間あって、ストリップの合間にコントをやる。あとは『ウエスト・サイド・ストーリー』をやったりもしたね。本当になんでもやったよ。笑いの東大に入ったようなものだからさ。逆にトークは優先順位が低かった。話術だけでお客さんを笑わせたりすると、あとで鼻血が出るほど殴られたね。

 

──歌やダンスも含めて、オールマイティにこなせるのが一流の条件だったと。

 

萩本 そういうことです。覚えているのは最初のころ、芝居でセリフを3つもらったの。ところが、そのうちの2つは言えなかったんだよ。本番になったら、あがっちゃって……。やっぱり本来は人見知りな性格だからね。3つしかセリフがないのに1つしか言えないなんて、これはもう致命傷ですよ。それくらい才能がない新人だったわけ。それで3か月くらいしたとき、僕を入れてくれた演出の先生に呼び出されてね。「この世界はダメだった場合の潰しがきかない。辞めるなら早いほうがいい。今までいろんな奴を見てきたけど、早ければ1週間くらいで才能の片鱗が見えてくる。3か月経っても、お前からはセンスというものがまるで見えてこない。今日で終わりにしよう」って、こう言われたわけ。

 

──でも、それはそれで一種の愛情表現かもしれません。

 

萩本 うん、そうだと思う。「辞めるか?」って聞かれたら、僕は「いや、続けます!」って言ったはず。「終わりにする」って断定されたら、従うしかない。「悪いけど、お前は芽が出ないよ」って言われたとき、すかさず「僕もそう思います!」って返しちゃったもんなあ。さすがに向こうも苦笑いしていたけど。

 

──しかし、いきなりの引退危機ですか。

 

萩本 さすがにそんなことがあったら、しょんぼりしちゃうよ。それでしばらくボーっとしていたら、師匠筋の池信一さんから「先生が通っていったけど、何かあったのか?」って聞いてきてね。「ちょうど今、クビになったところです」と答えたら、「お前はそれで納得しているのか?」と言うわけ。納得はしていたんですよ。自分に才能がないことがわかっていたから。ただ一方で僕は何をやるのでも人一倍時間がかかるタイプだから、3か月と言わず、もう少し長いスパンで見てほしいという気持ちもあった。そのことを池さんに伝えると、「そうか、わかった」とだけ言って先生のところに向かっていったの。それで1分もしないうちにクビは撤回になった。

 

──池さんが説得してくれたわけですね。

 

萩本 池さんは先生にこう伝えたらしい。「たしかにあいつは何もできない男です。ただ、あんなに気持ちのいい『はい!』という返事はそうそうない。あの『はい!』に免じて残してくれないか」。そして先生が僕に改めて言いました。「この仕事は誰かに応援されて初めて成立する。お前のように下手糞で才能もない奴を応援する人がいるということに俺は驚いた。ひょっとすると、お前は何者かになれるかもしれない。いいか、絶対に辞めるなよ」。

 

──いい話ですね。「はい!」という声が大きかったのは、中学のときの先生の影響もあるわけでしょうし。

 

萩本 それもあるし、レストランでアルバイトしていた経験もあるかな。大声で返事しないと、厨房まで聞こえないような店だったから。不思議なもので、人生って全部が繋がっているんだよね。ある意味、無駄なことなんてないというかさ。

 

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「1回だけなら…」が大ブレイクへ! コント55号結成秘話

──しかし、その後もコント55号で大ブレイクするまでにかなり長い時間がかかっています。

 

萩本 僕ね、「浅草時代の欽ちゃんを見たことがある!」と言う人に出会ったことが1回もないの。ある意味、それも不思議な話でしょ? つまり、それくらい笑いが取れず、印象にも残らない存在だったんだろうね。でも僕には帰る家もなかったし、続けるしかなかったんだよ。解散式をやっちゃった以上、受けなくても舞台に上がり続けるしかなかった。

 

──コント55号って、どちらが先に結成話を持ちかけたんですか?

 

萩本 (坂上)二郎さん。というのもね、自分で言うのもアレだけど、僕が一気に成長した時期があったの。周りからも「お前はもう一人前だ」って言われて、舞台での出番も増えて。そのころ、上の先輩たちがダレているということをフロントが言い出して、代わりに僕を上げようという話になったわけ。ダレているというのは舞台で笑い出したり、思いつきで劇と関係ないアドリブを入れたり、そういうことだよね。現場の気を引き締めるために、若手の僕を主役に抜擢するという作戦。ところが、二郎さんがこれに対して「ふざけるな!」と怒り始めてさ。大変だったんだよ。

 

──年齢的には坂上さんのほうが萩本さんより7歳も上ですしね。

 

萩本 それで向こうは舞台の上で“ケンカ”をしかけてくるわけ。ケンカというのはアドリブのこと。こっちもこっちで頭に来て、そのアドリブにアドリブで返していったんだけどさ。そうしたら、意外なことにお客さんからは受けたんだよね。仲は普通に悪かったから半年で共演は終わりにしたんだけど、二郎さん的には僕と一緒にやった経験がすごく刺激的だったらしいの。それで「一緒にやろう。欽ちゃんの若さが魅力的なんだ」って口説かれたんだけど……正直言って、面倒くさくて嫌だなあと思いました。だけど、きっぱりとは断りきれなくて「1回だけなら……」って消極的な感じで引き受けちゃったんだよ。

 

──1回やったら、すぐに辞めるつもりで?

 

萩本 そうそう。だけど、その1回がバカ受けだったのよ。それで味をしめちゃって、「じゃあ、もう1回だけ……」みたいなことで続いていくんだけどね。当時は看板に書くコンビ名もなくてさ。「なんでもいいから名前をつけてください」って頼まれても、「いや、我々はすぐに解散する2人ですから。コンビ名なんてつけません」って言い張っていたもんな(笑)。コント55号というのも、会場側が適当につけた名前なのよ。55っていうのは王(貞治)さんのホームラン数にあやかったらしいんだけど。

 

──コント55号は天下を獲りましたが、何が勝因だったとご自身では思いますか?

 

萩本 コンビを組んでからの二郎さんというのは、決して文句を言わない人だったんだよね。僕のことを買ってくれていたの。「俺のほうが年齢も芸歴も上なのに!」みたいなエゴが一切なく、「若い人が考えるほうがいいから」ってネタ作りも僕に任せてくれた。ネタといっても簡単なものだったけどさ。「マラソンをする選手とコーチ」みたいな設定だけ決めておけば、2人でどうにでも転がしていけたのよ。浅草で修行していた僕たちにとっては、それが当たり前だったから。

 

──すごいな。今のお笑いでは考えられないことです。

 

萩本 逆に自分たちがテレビに出たとき、決まりごとばかりで戸惑ったよね。浅草時代は当日になってから用意された衣装を見て、「じゃあ今日はこういうテーマでいこうか」って決める感じだったの。もちろんリハーサルも台本もなかったし。でも事前の打ち合わせなんてしなくても芸の精度は高かったし、ステージに緊張感があった。僕はずっと笑いの世界でやってきたけど、浅草のときに先輩たちがやっていた舞台が一番レベルが高いと今でも思っていますから。

 

──コント55号がスタートして、手応えは最初からありました?

 

萩本 最初に手応えを感じたのは、劇場の支配人に「久しぶりに楽屋が空っぽになった」と言われたときかな。楽屋が空っぽというのは、要するに同業者が全員僕たちの舞台を観にきているわけ。そうやって身内から評価されていることが、すごくうれしかった記憶はある。それから当時、僕らの最大の目標はテレビではなくて、日劇(日本劇場)に立つことだったんだよね。でも、わりとすぐに日劇に立つことができた。コンビ結成からわずか4か月くらいで、夢が叶っちゃったんだよ。日劇と演芸場に交互で出演して、途中からはそれにテレビも入ってきて……。やることなすこと上手くいっている感覚は、たしかにあったよ。

 

──ただテレビに関しては、手痛い失敗もやらかしたのだとか。

 

萩本 そう。でも、それはコント55号結成の前の話ね。21回連続でNGを出して、降板させられたのよ。二郎さんも二郎さんでテレビで大失敗したことがあったから、僕たちにとってテレビというのは鬼門だった。それで55号としてテレビに出たとき、スタジオの床に場位置確認のテープが貼ってあったの。「そこからはみ出すと、カメラワークの関係で映らなくなります」って番組のスタッフから注意されてさ。それで思い出したわけ。「そうだ。あのときも自分はそうやって失敗したんだった」と。僕が二郎さんに伝えたのは「自分の中でテレビ局の言うことを聞くという選択肢はない。二郎さんがテレビに出たいのなら、あの黄色いテープの内側に収まっていればいい。二郎さんの人生なんだから、それは二郎さんの自由だ」ということ。二郎さんは「テープの内側でもできる気がするんだけどな……」とか言っていたけど、いざ本番が始まると段取りなんて関係なく暴れまくっていてね。「気が合う同志だな」って、そこで実感しました。

 

──嫌々コンビを組んだにもかかわらず、相性が抜群だったんでしょうね。

 

萩本 そのテレビ収録のときは、局側の言うことを一切聞かずにハチャメチャやったわけだから、本番が終わったら逃げるようにして帰ったの。だけど、向こうのスタッフが僕らのことを追いかけてきてさ。怒られるかと思ったら、こんなことを言うわけ。「君たちにマイク1本は無理だったね。残念だけど、今日のやつは放送できない。次までにマイクを5本用意しておくから」。僕は、そこでハッとしたんだよね。ここに大きなポイントがあると思った。自分たちがテレビに出たいと思っているから、向こうの言うことをなんでも聞く。媚びることで失敗する。逆にテレビなんて別にいいやと思っていたら、本当に自分が面白いと思っていることだけを堂々とできる。結果として上手くいく。結局、55号の笑いは最初からテレビの枠に収まるものじゃなかったということなんだよね。

 

──一気にブレイクしたことで、周囲の反応も変わったのでは?

 

萩本 ものすごく変わった。驚いたのは僕たちに向かって女の子が「キャー!」とか言いながら走ってきたとき。「後ろに誰かいるのかな?」と思ったら、コント55号目当てのファンだったの。信じられなかったよ。舞台に出ても「キャー!」という黄色い声援が飛ぶものだから、「うるさい!」って僕が怒鳴ったこともあったな。あんなにのべつまくなし騒がれたら、こっちが何をしゃべっても聞こえないんだもん。

 

──完全にアイドル扱いじゃないですか。

 

萩本 そんなの、こっちは望んでいなかったけどね。だからテレビ収録するときは、なるべく女性のお客さんをスタジオに入れないでくださいって頼んでいたくらいなの。実際、『コント55号のなんでそうなるの?』(日本テレビ系)は、みんな男のお客さんだったし。女の子のファンばかりだと何をやっても受けちゃうものだから、どうしても一発芸的な方向に走りがちなのよ。そうすると、大人のお客さんに受けない。

 

──コント55号の人気は絶大でしたが、坂上さんは俳優業に、萩本さんは司会業に重点を移していきます。

 

萩本 新聞や雑誌には「コント55号 解散か!?」と書かれていたけど、当人たちとしては解散する気なんてなかったの。だけど「解散か!?」って言われている中でコントなんてやっても、観ている人は笑えないでしょ? それで「55号を休憩する」と表現したんだけどね。報道されていたような不仲とかは本当に一切なかったですよ。そもそも僕と二郎さんは、プライベートでごはんを一緒に食べたり、遊んだりするような間柄じゃなかったから。むしろそういうことはやめようと最初から決めていたくらい。距離が近すぎるから仲が悪くなるんであってね。二郎さんが出ていたドラマとか映画のことも僕には相談なんて一切してこなかった。でも、それでよかったんだと思う。

 

──つかず離れずの絶妙な距離感というか……。

 

萩本 休憩から5年くらいしたころかな。『欽どこ(欽ちゃんのどこまでやるの!?)』(テレビ朝日系)の100回記念で二郎さんを呼べないかという話が出たの。番組スタッフは恐縮しきりといった様子で「いや、無理だったら全然結構なんですけど……」とか言っていたけど、僕は二郎さんに対して気まずいことなんて何もないから。「そういう声があるんだけど、出てくれない?」って普通に電話してね。二郎さんも「うれしいね。久しぶりの欽ちゃんとコントか。はいよ~」って感じで。その後もたまに一緒にやったしさ。解散なんて考えたこともないし、僕と二郎さんの関係っていうのはずっとそんな調子だったんだよ。最後、二郎さんが入院していた病院にお見舞いに行ったときまで何も変わらなかった。

 

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進行ができない司会の誕生。「アシスタント」システムは欽ちゃんがつくった!!

──司会業も最初は頼まれて始めただけだったと自著で書かれています。与えられた場所の中で努力したら、それが上手くいったということでしょうか?

 

萩本 努力ねえ……努力はあまりしていないな。強いて言えば、いい仲間に出会ったことが大きかったんだと思う。55号の番組で当時ADだったフジテレビの方がディレクターに出世して、自分で番組を担当することになったの。その番組が『オールスター家族対抗歌合戦』(フジテレビ系)。それで「司会は誰にする?」ってことになるんだけど、その人はテレビ局に入ってから芸能人の知り合いが2人しかできなかったらしいんだよね。その2人が誰かというと、僕と二郎さん。なんという狭い世界で仕事をしていたんだという話なんだけどさ(笑)。だけど僕は55号で段取りをブチ壊すようなコントをやっていたわけだから、台本通りに進行するなんてもっとも向いていないわけ。それで最初は断っていたんだけど、「欽ちゃんが進行できないなら、きちんと進行できる人を隣に置けばいいじゃないですか」とか言い出したのね。それを聞いて僕は「ああ、それはいい考えだね。それだったら、なんとかなるかな」と思った。

 

──今では当たり前になっている「アシスタント」というシステムも、それが最初だったと言われています。

 

萩本 そうなんだけど、最初だったからやっぱり大変だったのよ。というのも、そのディレクターは上司からこっぴどく怒られたのね。テレビ界のタブーを破ったということらしいんだ。司会者がいるのにもかかわらず、横には別の進行係がいる。これはテレビ的にあってはないことだったらしくて。

 

──えっ、なんでですか?

 

萩本 僕もわからなくてポカーンとしちゃったの。それで理由を聞いたら、「司会者が能なしだということを、自から言っているようなものだ」という話らしい。そのディレクターは「いや、でも大将は仕事がやりやすいと喜んでいましたよ」と上司にも伝えたんだけど、「それはたまたま萩本さんが細かいことを気にしないだけであって、やっていることが非常識すぎる!」と取り合ってくれなかったそうです。「謝ってこいと言われたから、とりあえず謝りにきました」ってディレクターも苦笑いしていたけどね。でも、たしかにその上司が言うこともわかるんだよ。それくらい僕も司会者としての基本能力がなかったんだから。

 

──今では芸人が司会をやるのが当たり前だし、ワイドショーのみならずニュースキャスターを務めるケースすらあります。当時は芸人が司会業に進出すること自体、まだ珍しかったですから。

 

萩本 そうね。だからこそ「新しい司会者のスタイルだ」って言われたんだろうけどさ。そりゃ新しいに決まっているよ。司会者なのに司会できないというスタイルなんだもん。本来は「はい、次のチームは〇〇です!」ってやるべきところを、「はい、次のチームは……誰だっけ?」とかその場のノリでしゃべるだけ。あとは隣の女の子が話を前に進めてくれるという。僕ね、細かい段取りを覚えられないんだよ。評価されるのはありがたいことだったけど、「努力した」とか「編み出した」とかそういう話では全然ないわけ。

 

──自然体の雰囲気が視聴者には新鮮に映ったのだと思います。

 

萩本 人生って面白いものだよね。運というのは、いつも後ろからやってくるんだよ。「この人とは合わないな」と思っていた二郎さんと組んだら大受けした。「司会だけは勘弁してくれ」と思っていたのに評価された。それともうひとつあったのは、『オールスター家族対抗歌合戦』(フジテレビ系)にしても『スター誕生!』にしても素人が相手の司会業だったでしょ。ここで素人が持つ面白さに気づいたことが、のちに素人をいじるような番組作りに発展していったのよ。

 

──ああ、それが『欽ドン!』(フジテレビ系)、『欽どこ』、『(欽ちゃんの)週刊欽曜日』(TBS系)の3番組だったわけですね。僕も当時は夢中で番組を観ていましたけど、張本人としては「時代を作っているな」という実感はあったんですか?

 

萩本 ありましたよ。あったからこそ、辞めたんでしょうね(※1985年、充電期間に入るため全レギュラー番組を降板)。

 

──どういうことでしょうか?

 

萩本 欽ちゃんが欽ちゃんじゃなくなっている気がしたの。「視聴率100%男」なんて言われて、周りからは王様みたいな扱いをされる。そんな状況、自分で処理できないよ。何かを追い越そうとしているのが欽ちゃんであって、そういう姿勢がみんなから受けていたんだと思うしね。たとえば雑誌のインタビューを受けるでしょ。すると記者の人は「なぜ視聴率30%の番組を3つも持つことができるんですか?」って尋ねてくるんだよね。

 

──記者の立場からしたら、当然そうなります。

 

萩本 こっちは誠実に答えようとするんだけど、結局、何をしゃべっても自慢話になっちゃうのよ。そんな偉そうなインタビュー、僕自身が一番読みたくない! 自分の番組を始めたところで、最初は歌手の人からもその事務所からも相手にされなかったのよ。司会者としても超亜流だから、どこかバカにされていたしね。だけど数字の結果を出すうちに、だんだん「欽ちゃんのやることは正しい」という空気になっていったの。これは僕にとって決して心地いいものではなかった。むしろ苦しかったです。

 

──全盛期は「とりあえず欽ちゃんと絡んでおけばオイしい」という打算も芸能関係者の間にあったはずですよね。

 

萩本 正直に言うと、有名人の方から山のようにお手紙が届いていました。それもマネージャーや事務所を通さない直接のお手紙。内容は「私の夢は欽ちゃんの番組でイジられることなんです」みたいなことでね。あるいは「うちの両親も欽ちゃんの番組が大好きなんです。親孝行がしたいので、どうしても一度だけ番組に出させてください」というのもあった。だけどそんなお願いをいちいち聞いていたら、番組全体の構成がめちゃくちゃになるでしょ。だから、なかなかそこは慎重に進めていたけどね。

 

──もともと浅草時代に志していた笑いの質と、たとえば風見慎吾(現・風見しんご)さんのブレイクダンスでは受けている内容自体がまるで違いますよね。そのへんはご自身の中でどう消化していたんですか?

 

萩本 結局は消化できなかったのかもしれないね。どこかで違和感があったというか……。それを如実に感じたのは、誰も僕のことを「欽ちゃん」と呼ばなくなってきたのよ。「萩本さん」あるいは「大将」。もう欽ちゃんの時代は終わりなんだなって自分でも思いました。

 

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映画製作、野球チーム結成――そして……

──充電期間に入ったのは、そういった思いがあったからなんですね。

 

萩本 あれは「充電期間」というより「放電期間」だったけどね。当時、「まだまだ自分は30%取れるぞ」とか「さらなる頂点を目指す」とかいう気持ちは一切なかったの。もう自分はいっぱいいっぱいだし、実力以上の評価をもらっていたなというのが正直な気持ちだった。「僕、そんなすごい人じゃないですよ?」と言いたかったね。

 

──明石家さんまさん、ビートたけしさん、タモリさん……年齢を重ねても笑いの最前線にいる人もいますし、坂上さんのように違う路線に進む人もいます。

 

萩本 僕の場合、完全に疲れちゃったから別の方向に進んだパターン。テレビ番組で笑いをやることに疲れちゃったから、映画での笑いを目指した。それが『欽ちゃんのシネマジャック』。それから一番笑いを入れるべきジャンルだと思ったのが野球だったから、球団をやることにした。それが茨城ゴールデンゴールズなんだよね。あのころは野球が地上波放送から撤退していき、子どもたちの野球人口も減っているという話だったのね。だったら野球自体を面白くしていかないとダメだって僕は考えたの。

 

──実際、茨城ゴールデンゴールズはものすごい人気球団になりました。

 

萩本 あれは実に夢がある話だったのよ。まず広告代理店が間に入って、テレビ放送したいという話が出てきたの。それからプロの球団とも絡む話もあったね。2軍のイースタンとウエスタンはそれぞれ7チームと5チームなんだけど、そうすると試合が組みづらいわけですよ。そこを調整するために、お客さんが集まるゴールデンゴールズ戦を入れようというわけ。僕としては視聴率30%を狙うような感覚で、自分のチームを人気球団にしようとしていたんだよね。最後は事件(2006年、所属選手の極楽とんぼ・山本圭一が未成年との飲酒淫行事件で書類送検される)があって終わったんだけど、大人数をまとめることの難しさをそこで痛感したね。

 

──映画はどういった動機で?

 

萩本 これはチャップリンさんとの約束だったんだよ。ご本人とお話させていただいたとき、「僕は昔からチャップリンさんに憧れていて、いつかはチャップリンさんのような映画を作りたいと思っているんです」と伝えたので。チャップリンさんとのその約束は果たせていないなと、心の中でずっと引っかかっていたわけ。だからやってみたんだけど……まぁ予想以上に映画はお金がかかるものだったね。テレビで稼いだお金が吹っ飛ぶくらい、めちゃくちゃにお金が必要になってくる。これ以上やったら破産すると思って辞めたのが正直なところです。もうひとつやってみて気づいたのは、僕らが楽しんでいた大衆娯楽としての映画とはちょっと意味合いが変わってきているなということ。今の映画って、とにかく賞を獲らないとダメなのよ。だから芸術寄りになっていくんだよね。そういう事情があるなかで、いい映画を作ろうとするよりは……最後にいいテレビを作ろうというのが今の心境なの。

 

──わかりました。非常に長いインタビュー、ありがとうございます。最後にこの記事を読んでいる人にメッセージなどはありますか?

 

萩本 こうして振り返ってみると、自分でもやっぱりダメな奴だったなと思うよね。でもダメな奴なりに、ダメじゃない人生を送ることは可能だと言いたいんだ。世の中には「自分はダメだ……」と諦めちゃっている人がたくさんいると思う。ダメなほうがいいとは言わないまでも、わざわざ可能性を自分で潰す必要はないですよ。人生は死ぬまで修行だから、僕もまだまだ頑張ります。元気を出しながら、最後の最後まで挑戦し続けたいなって思いますね。

 

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【プロフィール】
萩本欽一(はぎもと・きんいち)

1941年5月7日、東京・入谷生まれ。高校卒業後、浅草・東洋劇場の軽演劇一座に加わる。66年に坂上二郎とコント55号を結成。68年から始まったテレビ番組『お昼のゴールデンショー』で人気が爆発し時代の寵児に。71年に始まった『スター誕生』からは司会業にも進出した。80年代は『欽ドン!良い子悪い子普通の子』『欽ちゃんのどこまでやるの!?』『欽ちゃんの週刊欽曜日』などが絶大な人気を博す。05年にはクラブ野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」を結成し監督に就任。15年に駒澤大学仏教学部に入学を果たすが、新しいお笑いを志すため19年に自主退学。近著に『人生後半戦、これでいいの』(ポプラ新書)など。

 

 

(企画・撮影:丸山剛史、執筆:小野田衛)