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2023/2/28 11:30

放浪の末、弟子がたどり着いた「宮絵師」の世界。連綿と息づく“心の模写”という在り方とは?【師弟百景 第4回】

師弟百景
第4回 宮絵師/師=安川如風(にょふう)弟子=水野兼太

コロナ禍によりリモートワークが推奨されている昨今。そんな世の流れと対極にあるのが、職人仕事であり、その師弟関係です。

 

「好きなことを極める」「就職せずに生きるには」といった要素に魅力を感じて職人を志向する若いひとが増えてきている現在、「師弟関係」というものもまた、「親方の背中を見て覚えろ」から「理論も教える。科学的に仕事を学べ」の形へと、時代に即して多様に変化してきています。

 

本企画では、血縁以外にも門戸を広げている職人仕事の師匠と弟子のそんな“リアル”な関係を、ノンフィクションライターの井上理津子氏が取材し描き出していきます。4回目は、年の差は40歳以上…後進の育成を真摯に考える師匠から、世界中を旅していまの仕事に辿り着いた弟子に引き継がれる“想い”とは。

 

(執筆:井上理津子/撮影:大道雪代)

 

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「頭を叩かれて、こちらの世界にきました」

「業界内で『彩色屋』と呼ばれますが、それだと友禅の職人さんと同じだし、絵を描く仕事なので絵師・画家に違いないんですが、どの呼称も自分にはしっくりこなかったんです。そうや、『宮大工』にならって『宮絵師』やと。30代のときに閃いて以来、誇りを持って名乗っています」

 

お目にかかって早々に、「宮絵師とは耳慣れないんですが」と申し上げると、安川如風さんは笑みを湛えながらそう話した。安川さんの師匠、川面稜一さん(1914-2005)が修復した知恩院経蔵の本に『宮画師』の名を発見した。「画」を「絵」に変えたが、昔から使われていた呼称らしい。すなわち、社寺に関わる絵付け職人のことで、経年による褪色を鮮やかに再生する仕事を中心に、新しい絵も描く。仏さまから襖、天井絵、社殿の蟇股まで守備範囲が実に広い。

 

京都・洛北にある安川さんの工房を訪ねた。

 

12畳二間ほどの広さで、座敷机で若者が黙々と絵筆をとっている。彼こそ、今日の主役の一人だが、壁一面を覆う曼陀羅絵が目に飛び込むわ、色とりどりの絵の具が並ぶわ、『密教美術大観』『日本屏風絵集成』といった本が数多あるわ。ワクワクする空間だ。

 

――この仕事、安川さんは何代目かでいらっしゃるんですか?

 

「いや、創業者です。父は漆の塗り師でした。私は絵が好きで東京の美大に進み、日本画家を志していたのですが、卒業後しばらくして京都に戻り、父の紹介で文化財修復を扱う川面美術研究所に入り、頭を叩かれて、こちらの世界にきました」

 

――頭を叩かれて?

 

「二条城障壁画の狩野派の模写スタッフに加えてもらったときのこと。不遜にも自分は日本画がうまいと思っていたけど、とんでもない。たとえば、線をスーッと一本描くにも、いくら感情移入をしてもスーッとは描けない。昔の職人さんはこんな線が描けたんや、すごいーと頭を叩かれたんですね」

 

北野天満宮の復元彩色の手伝いにも行き、唐獅子の巻毛に金線を入れる仕事をしたが、ましてや建造物や彫刻物に線を引くほど難しいことはない。手が震える。肘、肩、手首、腰を効かせて筆を回していく相当なテクニックが要る。

 

「昔の職人はスパッと描かはったんや。うまい」と。正直言うと職人仕事を「一段下」に見ていたが、撤回。その奥深さに感嘆し、一生の仕事と決めたのだという。

 

「師匠は技術を伝授してくれましたか」の質問に、安川さんは「週に数回、現場に師匠が来て全体の監督をしはる。細かいことは先輩から。師匠から学んだのは、 “心の模写をしなさい”ということでした」。抽象的なアドバイスをモノにするための知識と技法を深める自助努力、いかばかりであったか。

 

最も印象に残っている仕事、「蓮如上人絵伝」

安川さんは30歳で独立した。通常、寺の仕事は仏具店や仏壇店、神社の仕事は神具店や装束店から依頼される。当初は納期が短い、予算が少ないなど同業者が嫌がる仕事を受け入れ、「困ったときの安川さん」と重宝された。

 

「納期や大きさの制約があるなかで、自分の技量を発揮するのが職人仕事だと思います。個性を抑えて、相手に気に入られるものをつくる。昔の職人の仕事を見ることから始まるわけですが、その表現方法や技法の巧みさに、毎回唸らされる。見て覚える、の繰り返しですね」

 

社寺建造物、壁画、神仏具など広範囲の仕事を受けるため、習得しなければいけない知識や技法も多様で、コツコツと勉強を重ねた。努力に勝る天才なし。業界内の口コミが口コミを呼び、やがて全国からオーダーが絶えなくなっていく。41歳で、その名も「宮絵師安川」という株式会社を設立する。大規模な壁画制作なども依頼され、多いときには30人の弟子を抱えたという。

 

――最も思い出深い仕事はなんでしょうか?

 

「大阪・八尾の浄土真宗本願寺派、久宝寺御坊、顕証寺。蓮如の絵伝ですね」

 

即答である。蓮如上人500回忌の記念事業として、新調したいという寺からの依頼で、4幅(1幅3×1.5メートル)に及ぶ巨大なもの。錚々たる僧侶らが幾人も出席する会議が30回、ストーリーや表現等について議論が重ねられた。安川さんは弟子を率いて蓮如上人を徹底研究し、約40場面に1000人以上の人物を登場させる構図を作成。完成まで10年を要し、2010年に完成したそうだ。9回描き直したという1幅目のラフを見せてもらい、その精緻さに肝をつぶした。

 

職人仕事の頂点のようなプロジェクトだ。「やり甲斐が半端なくあったでしょうね」と言うと、安川さんは「う〜ん」と腕を組み、一拍置いてからこう返答した。

 

「宮絵師としてはね。ただ……経営者としては大変苦しかった。文化にはお金が要りますから」

 

当初の見込みより制作過程が大幅に複雑化し、費用負担が重くのしかかったのだ。そんな職人仕事の光ばかりか影の部分も包み隠さず話してくださる安川さんはこう続ける。

 

「近年、仕事が減ってきているんですよ。若い人を育成できなくなりかねないでしょう? すると先々、社寺が存続できなくなり、みんなが困る由々しき問題ですよね。そこで、永遠に続く仕事をつくることにしました」

 

元グラフィックデザイナー、大英博物館で仏教美術に目覚める

先にも書いたが、この日工房に黙々と絵筆をとっている若者がいた。

 

水野兼太さん(34)。11センチ四方の板に貼った紙の上に、息をこらして、細い筆でなにやら文様を描いている。

 

「東寺伝来の、今は京都国立博物館が所蔵する国宝、十二天像の装束にある団華紋をわずかにアレンジした文様です」

 

と安川さん。文様は金、真紅、濃紺など色目もすこぶる美しい。「開運」「魔除け」をも意味する格好のインテリアグッズになりそう。2023年には商品化し、13万8000円(税別)で販売を始めるそうだ。塗る、ぼかすなどの技法がすべて詰まっているため、後進たちの格好の勉強になる。なるほど、安川さんの言う「仕事をつくる」がこれだったのだ。

 

「十二天とは方位の神々で、正月の宮中儀礼に用いられたという由緒があります」

 

筆をとめた水野さんがさくっと教えてくれた。「お詳しいんですね」「いえいえ」などとやりとりし、さて「どういう経緯で弟子に?」と聞けば、「元はグラフィックデザイナーだったんですが」。その先に奇想天外な長い道のりがあった−−−−。

 

水野さんはもともと絵が好きでグラフィックデザイナーになったが、デジタルでの直截的な表現が求められる世界は「ちょっと違うな」と1年で辞めた。「見聞を広げたい」との思いから海外を旅したのは、23歳のときだ。オランダを経てイギリスへ。

 

「ロンドンで大英博物館に行ったところ、古代エジプト、古代ローマというふうに時代や地域別の展示ブースを上階へと辿って行くと、最上階に日本のブースがありました。茶室や国宝・百済観音像(レプリカ)、兜、鎧、浮世絵などが展示されていて、階級社会のイギリスで日本がリスペクトされている……と不覚にも涙がこぼれてきて」

 

日本人としてのアイデンティティに目覚め、仏教美術にじわじわと興味が湧いたと水野さん。帰国して京都の絵仏師に弟子入りしようとするも、初訪問のとき「800年前の仏画を真横に置いて、模写している姿」に度肝を抜かれ、「自分のように生半可な気持ちではムリだ」と尻尾を巻いて踵を返す。まじめなのである。

 

「宮絵師安川」に連綿と続く、仕事への姿勢

それからが、さらに面白い。「自分の内面を探す旅に出よう」と行った先が、沖縄のタバコ農園、北海道のアイヌ集落、長野のヒッピーコミューン。「丁寧な暮らしをしている人たちを探していたのかもしれません」。続いて四国遍路を歩く。その途中で、仏教美術の画商に出会ったのが運のつき。彼の紹介で、なんとネパールとチベットへ飛んだというのだ。彼の地のタンカ絵師(絵仏師)の元で1年間学ぶ。さらにインドの仏教聖地に巡礼後、画塾に入ること3か月。いずれでも「ギリギリの英語」で意思疎通した。

 

「私が行ったネパール、チベット、インドは仏教信仰が強く、信仰をバックボーンに絵仏師が居るという感じ。仏画は青色がスカッとしているなど色彩が日本よりかなり明るかったですね。30歳で帰国後、いよいよ日本の仏画を学びたいと思い、京都で仏画工房を訪ね歩き、ついに6軒目で安川先生とのご縁をいただいたんです」

 

この工房に足を踏み入れたときは、壁面にかけられた當麻曼陀羅の模写に目が釘付けになった。工房の作品として描かれたもので、大画面に数多の仏が緻密に染筆されていた。「ここでは敬虔な気持ちで仕事をされている」と感じたという。

 

「水野君が来たときは、タイミングが良かった」と安川さん。大阪府豊中市の光國寺での荘厳彩色の仕事に人手が必要になるタイミングだったのが幸いした。海外の地ですでに学んでいるとはいえ、仕事に入る前に基本的な技法の指導を工房でうけた上で、現場へ。40代のベテラン弟子を筆頭に組まれた4人のチームの一員となって、1年間を過ごした。

 

「僕にとっては、もう『面白い』しかありませんでした。元の色はこうだったんじゃないかと感覚的に推測し、先人の仕事に近づきたい一心で……」

 

――安川さんの指導で印象的だったのは?

 

「先生からではなく、ベテラン弟子の方から言われたんですが、『仏さんからの目線を意識して、裏側から見ても引き立つように』という言葉です。私たちは前から見るのが当たり前みたいになっていますが、それは一面的だと」

 

「宮絵師安川」に連綿と続く、職人仕事への対峙の姿勢だろう。安川さんが半世紀前に師から言われた「“心”の模写をしなさい」に通底するのではないか。

 

「水野くんは目が肥えてはるから、細かいことを言う必要がないんやなー。この仕事は苦労も多いけど、後世まで残るありがたい仕事やねー」と安川さんが言い、場が和やかな空気に包まれた数分後、安川さん・水野さん共に絵筆を握った。

 

空気がみるみる変わる。気迫が空間に充満する。あ、この気迫も伝統文化だと思った。

 

<師弟プロフィール>

●安川如風(やすかわ・にょふう)
宮絵師。1946年京都生まれ。武蔵野美術大学日本画専攻卒業後、京都の川面美術研究所で3年間の文化財修復の修業を経て、1977年に独立。1987年には株式会社宮絵師安川に改組。宗教関係の美術全般を担い、全国の社寺500箇所以上の荘厳(彩色)、修復を手掛けてきた。

●水野兼太(みずの・けんた)
1988年鳥取県生まれ。グラフィックデザイナーを辞めて、23歳のときに旅に出る。ロンドン・大英博物館で「日本」の展示見学をしたことにより仏教画に興味を持ち、国内放浪の後にネパールとチベット、インドで絵師修業をする。30歳で帰国。株式会社宮絵師安川に入る。

 

 

井上理津子(いのうえ・りつこ)

奈良市生まれ。ノンフィクションライター。タウン紙勤務を経て、フリーに。町と人、また両者が織りなす文化を主たるテーマとし、『絶滅危惧個人商店』『さいごの色街 飛田』『葬送の仕事師たち』『いまどきの納骨堂』など著書多数。

本連載で紹介した4組を含む、計16組の師弟を取り上げた『師弟百景 “技”をつないでいく職人という生き方』が、辰巳出版より3月1日に発売される。