〜玉袋筋太郎の万事往来
第26回「神茂」(かんも)第18代目店主・井上卓
全日本スナック連盟会長を務める“玉ちゃん”こと玉袋筋太郎が、新旧の日本文化の担い手に話を聞きに行く連載企画。第26回目のゲストは、元禄元年の1688年に創業以来、日本橋で半ぺん・蒲鉾の製造販売を行う「神茂」(かんも)の第18代目店主、井上卓さん。伝統の味わいを守り抜くために艱難辛苦を乗り越えてきた老舗店の知られざる裏側に玉ちゃんも驚愕!
【公式サイト:https://www.hanpen.co.jp/】
(構成・撮影:丸山剛史/執筆:猪口貴裕)
ペリーが来航時にかまぼこを食べていた?
井上 まずは、この帳簿を見てください。明治時代に使っていた帳簿なんですけど、明治三陸地震や日清戦争に際して寄付したことなんかが記録されているんです。
玉袋 うわー! 歴史があるところはすげーや。
井上 この辺が魚市場だった時に板舟といって、板1枚幾らで場所を貸していたんです。この帳簿には貸していた先にいただいたお金も書いてあります。
玉袋 帳簿だけでも、この街の歴史が感じられますね。
井上 東大の先生に読み解いてもらおうと、この帳簿を渡したら、僕が貼ってしまった付箋を見て、「付箋の跡が付くから外してください」と注意されました(笑)。あと、これは宮内省の時代に使われていた「門鑑」と言われる通行証です。
玉袋 こんな貴重なものが残っているんですか!
井上 僕が子どもの時分、うちにいた工場の人から聞いたんですが、自転車で配達に行って、おまわりさんに職務質問された時に、これを見せたら「大変失礼しました!」と敬礼されて、気分が良かったと。
玉袋 そんな通行証、欲しいもんだね。ETCは通れないけどさ(笑)。社長が18代目でしょう。「江戸っ子は三代続かなければ」なんて言葉があるけど、それどころじゃないね。神茂さんの創業はいつなんですか?
井上 1688年創業になっているんですけど、過去帳を見ると、「神崎屋」という屋号で、もうちょっと前からやっていたみたいです。
玉袋 先ほど工場見学をさせていただいた時にお聞きしましたが、創始者は大阪出身だったそうですね。
井上 江戸幕府開府の時に、大阪の人たちをたくさん江戸に住まわせたらしいんですけど、創始者の神崎屋長次郎も東京に来て、日本橋に店を開いたのが始まりです。このあたりの住所は「日本橋室町」ですけど、当時は「小田原町」と呼ばれていました。というのも江戸城を綺麗に作り直す時、小田原にいた石垣の職人さんを、この辺に住まわせたらしいんです。それで職人さんが故郷を懐かしんで、小田原町という名前にしたんです。
その後、石垣の造成が終わった小田原町の職人さんは築地に移されます。だから築地に今でもある交番は、「築地警察署小田原町交番」と書いてあります。その後、この辺は「本小田原町」と呼び名が変わっていったんですが、石垣の職人さんがいなくなった跡地に魚類の集積場を作ることになったんです。現在の日本橋の下流側の岸が魚の揚げ降ろしをしていたので「魚河岸」という名称が生まれました。
玉袋 なるほどねー。俺も東京出身だけど、この辺のことは何も知らないなぁ。
井上 近くにある昭和通りも、江戸のころは運河でした。関東大震災のがれきで埋め立てられてしまいましたが、そこは「米河岸」と言って、お米の揚げ降ろしをしていたんです。そして日本銀行本店の手前が汐留といって運河の終点で塩の揚げ降ろしする「塩河岸」でした。
玉袋 勉強になるなぁ。その日本橋も、高度経済成長期には上に高速道路が走っちゃったけど、今度は撤去するっていうんだから、時代は変わるね。
井上 ちなみにペリーが来航した時に、江戸幕府が横浜で一行をもてなしたんですが、その時に料理を担当したのが「百川」です。落語に「百川」という噺がありますけど、その舞台になった実在する高級料亭です。この近くにあったんですけど、お土産がかまぼこだったんです。ペリー一行に用意した献立の記録が残っているんですが、紅ちくわかまぼこや伊達巻が供されたと記録に残っています。
玉袋 百川というと、与太郎が行ったり来たりする話だけど、この辺が舞台とは知らなかった。俺も勉強不足だなぁ。
井上 ただ、アメリカの公文書簡には、「あまり江戸の料理は美味しくなかった」と書いてあるんです(笑)。その前にペリーは沖縄に寄っているんですが、沖縄料理のほうが、味が濃くてアメリカ人の口に合ったんでしょうね。まだ日本の出汁文化が世界的に伝わっていなかった時代ですからね。
江戸時代の輸出事情から生まれたはんぺん
玉袋 はんぺんや練り物と聞くと、「紀文」や「佃權」(つくごん)、「鈴廣」などの大手が思い浮かぶんですけど、歴史で言ったら神茂さんのほうが全然長いんですよね。
井上 佃權さんは2017年に廃業されてしまいましたけどね。
玉袋 そうなんですか!? 俺たちの世代だと、佃權のテレビコマーシャルが流れていて、「あたしゃ佃權 はんぺんだ こんにゃく問答 おでん種」ってフレーズを今でも覚えてますよ。先ほどのお話しに戻すと、鈴廣は小田原に本社があるから、その辺の話も繋がってくるんですかね?
井上 小田原は伊勢などに行く時に通る観光場所でした。関東よりも西はお湯で食べる文化があるので、かまぼこを蒸したりする。かまぼこは大量に作れるから、それを旅行で訪れた人に食べさせるうちに、海も近いし、名産になる。関東よりも北は寒いから、お湯を沸かすのにすごくエネルギーがいるので、焼くほうが手っ取り早いから笹かまなんですよ。
玉袋 言われてみるとそうですね。
井上 はんぺんについてお話しすると、今でも日本は中国にアワビとナマコとフカヒレを輸出していますけど、江戸時代のころから、この三品は「長崎俵物」や「俵物三品」と言って、中華料理の食材として長崎から中国に輸出して重宝されていたんです。そのために、江戸幕府は「たくさん鮫を獲ってこい」という指令を出していたんですが、フカヒレ以外は不要になるので、鮫を食べるために江戸時代に作られたのがはんぺんなんです。今の時代は食べる魚も豊富にあるので、鮫なんかに目を向けないでしょうし、獲った魚を保存できない江戸時代だからこそはんぺんが生まれたんでしょうね。
玉袋 子どもたちに「はんぺんって何でできてる?」と聞いて、「鮫」って答える子はいないと思うよ。以前、「はんぺんを作ってみよう」みたいな番組があって、担当したタレントも、はんぺんが何でできてるか分からないってところから始まって、最終的に鮫に辿り着いて作ったみたいな流れだったからね。鮫っていうと気仙沼のイメージが強いんですけど、実際はどうなんですか?
井上 今も気仙沼は鮫漁が盛んですし、うちも気仙沼や銚子から鮫を仕入れています。
玉袋 はんぺんには何鮫が向いているんですか?
井上 一番いいのは星鮫なんですけど、江戸時代は保健所がないから、はんぺんに何鮫を使っても良かったんです。だから、その時に水揚げされた鮫を何でも使っていました。歌舞伎座が版権を持っている浮世絵に、日本橋の橋の上で、一心太助みたいな男が天秤棒で大きな鮫を運んでいて、二人の女性が振り返って見ている作品があるんです。
玉袋 それぐらい鮫を食べるのが珍しいことじゃなかったんだね。
井上 江戸湾と隣の相模湾、さらに隣の駿河湾と、だんだん海が深くなっていって、そのあたりが鮫の産卵場所らしいんです。だから江戸湾には産卵のために多くの鮫が集まって来て、大型もいれば小型もいます。僕は水産庁の「たか丸」という船に乗って、底引きの試験操業を見学したことがあるんです。そうすると今でも網いっぱいに星鮫が獲れるんです。ただ近辺の漁師さんは、高く売れるアナゴやヒラメが目当てだから、なかなか星鮫は獲ってくれないんです。青森県や佐賀県では今でも星鮫を獲ってますけどね。
玉袋 星鮫でもフカヒレは作れるんですか?
井上 作れますけど、本当にちっちゃいから、加工する手間を考えたら、もっと大型の鮫のほうが喜ばれます。ただ本当に味が良くて、香りもある魚なので、星鮫だけではんぺんもできるし、かまぼこもできるんです。
ヨシキリザメなど大型の鮫だと、アンコウみたいに身質が水っぽくて柔らかいので、空気を抱き込みやすいんです。それだけだと味的に弱いので、そこに青鮫と言って、カジキみたいな身質の鮫を入れると、味と食感のバランスが上手く取れます。
だから、うちでは青鮫とヨシキリザメを混ぜて、はんぺんを作っています。たまに星鮫だけで作ったはんぺんを、「復刻版星鮫はんべん」という商品名で出しているんです。それを高島屋のイベントなんかに出すと、10時開店で10時半ぐらいには売れきれちゃいますね。
玉袋 鮫ってアンモニアが回っちゃうから、早く処理しなきゃいけないイメージなんですけどどうなんですか?
井上 むしろ鮫って自分でアンモニアを出すから傷みにくい魚なんです。臭いは強くなるけど腐敗しにくいので、マグロなんかと比べると、比較的長く食べられるんですよね。広島では鮫のことをワニと読んで、ワニ料理を食べる習慣があります。鮫は鮮度が良ければ、刺身でも食べられますからね。
玉袋 鮫の代用品としてエイははんぺんに使えないんですか?
井上 エイは板鰓類(ばんさいるい)と言って、鮫と一緒の仲間なんですけど、ほぼ身がないんです。よっぽど大きいエイだったら、真ん中に身がありますけど、それでもヒレの部分ばかりです。そういえば僕の代になって、もっときめの細かいはんぺんを作れないのかと、ミンチでもっと細かくして試作品を作ってみたんです。でも基礎がなくなっちゃったような味と食感で、とても商品化できるものではなかったですね。
玉袋 ちょうど1週間前に静岡に行ったんですけど、静岡おでんと言ったら黒はんぺんじゃないですか。それで地元の人に「黒はんぺんだね」なんて言ったら、向こうはカチンときたらしくてさ。「静岡では、これがはんぺんで、もう一つが白はんぺんだ」って言ってたね(笑)。
井上 黒はんぺんは焼津の名産ですが、青魚が原料という違いはありますけど、作り方は同じようなものなんです。それが関東では鮫が原料でたまたま白くなっちゃった、みたいな。先ほど関東より北はお湯で茹でる文化がなかったというお話をしましたが、たとえば北海道なんかは、近年まではんぺんは食べられていなかったんです。今は紀文さんやコンビニのおでんのおかげもあって、全国的にはんぺんは有名になりましたけど、今でもはんぺんに馴染みのない方もいらっしゃいます。初めてはんぺんを食べて、「淡雪みたいで美味しい」と仰っている方がいました。
玉袋 そうなんだ、俺なんか小さいころからはんぺん好きだから、全国的に食べられていると思っていました。社長にとってベストなはんぺんの食べ方って何ですか。
井上 はんぺんをほんのり温める程度に焼いて、大葉やミョウガを刻んで、それと一緒に生姜醤油で食べてもらうのが一番のオススメです。父と母は「わさび醤油で召し上がってください」と言ってましたけど、今はスーパーでも美味しいお刺身がたくさん出回っていますから、同じ食べ方をすると負けちゃいますね。
玉袋 いやいや! はんぺんも負けてないですよ。確かに生姜醤油だと、これからの暑いシーズンにぴったりのつまみだね。冷ややっこよりも美味しそうだ。
井上 昔の日本料理屋さんでは、はんぺんにウニを塗って焼くこともあったみたいですね。
玉袋 ウニはんぺんは美味しそうだなぁ。先ほど工場見学中に仰っていましたけど、寿司屋や日本料理屋にもはんぺんを卸しているそうですね。
井上 卵焼きにはんぺんを混ぜるそうなんです。たとえば日本料理屋さんだと、数年前に閉店しましたが新橋の「京味」さん、最近だと大門の「くろぎ」さん、お寿司屋さんだと、予約の取れないお店として人気の「日本橋蛎殻町 すぎた」さん、銀座の「寿司幸」さんが買われていきます。
「寿司幸」さんとは長くお付き合いしていて、卵の黄身にはんぺんを溶かすんですが、泡立ててはダメらしいんです。どうやって泡立たせないで混ぜるかは分からないんですが、混ぜたものを備長炭で、45分かけて焼くそうです。お寿司屋さんによっては、乾燥させた海老とはんぺんの両方を入れて卵焼きにするところもあるそうです。
玉袋 はんぺんだけに何色にも染まるというか、白いキャンバスだよね。神茂さんは、さつま揚げも主力商品なんですよね。
井上 そうですね。ただ当初は作ってなくて、関東大震災以降に作り出したんです。戦後になって、さつま揚げの量もどんどん増えていったんですけど、それまではかまぼこと白ちくわとはんぺんだけだったんです。その3種だけで、よく商売が成り立っていたなと思うんですけど。
玉袋 晩酌する時にかまぼこで一杯やることもあるんですけど、スーパーで売ってるかまぼこを食べると、どうも昔食べたかまぼこと違うなってていう感覚があるんですよね。正月なんかは、おせちに高級かまぼこを買って食べるんだけど、混じりけがないというか、やっぱり良いものは美味しいんですよね。
井上 魚の量が違うんですよ。あと魚を練る時に使う氷も必要最小限にとどめるんです。それによって水っぽくなくなりますし、そうするとでんぷんを入れる必要もなくなります。やっぱりでんぷんの入ってないかまぼこのほうが美味しいんです。
会社の危機を救った二つの商品
玉袋 ところで社長は、どうして18代目を継ごうと思ったんですか?
井上 僕は次男坊なので、もともと稼業を継ぐ気はなくて、ジャスコに就職しました。そこで、いろいろ流通について学ぶうちに、コスト感覚も身に付きました。ところが、神茂の売り上げが下がっていたころ、うちの父が体を壊してしまい、母から「相続のこともあるから、ちょっとこっちも見てよ」と言われて、ちょいちょい見るようになったんです。それで会社の会計士とも話をしたら、相続対策を何もやってなかったんです。
玉袋 老舗にありがちな話ですね。
井上 すでに私の兄は工場で働いていましたけど、のんびりした性格で、兄弟で銀行に行っても他人事みたいなんです。僕が銀行の人に事業計画書を渡して、「本当に申し訳ございません。こういうふうに会社を変えていきます」と頭を下げている横で兄は普通に座っている(笑)。うちは自社ビルなんですけど、バブルの時にビルを建てたので、借金が12億円ぐらいあったんです。その額をかまぼことはんぺんで返済するのも大変じゃないですか。ビルの家賃収入もバブルが崩壊してから、どんどん下がっていましたからね。
玉袋 危ない、危ない!
井上 そこで、僕はお店の中の商品で、要るものと要らないものを分けました。さらに新商品として、袋に入った調理済みおでんを作ろうと、築地に行って似たような商品を21社分買ってきて、何品おでんが入ってるかと平均重量を調べて、コストを全部算出しました。
玉袋 ジャスコのおかげですね。いわば実家コンサルティングだ。
井上 それで、父にこういう商品を作ると報告したら、「うちらしくないから駄目だ」と。「どこが“らしく”ないんだ?」と聞いたら、パッケージが嫌だと。だから八重洲ブックセンターに行って、元禄時代の地図を買って来て、版元に連絡して、製品のパッケージに使いたいとお願いしたんです。使用料を聞いたら、「カレンダーだと15万円いただいています」と言うから、同じ金額をお支払いして、その地図をパッケージに使って。そしたら初年度でクラウン1台分ぐらい売り上げたんです。
玉袋 それはすごいですね!
井上 今度は調理済おでんの「其の二」を作ろうということで、今度は中央区に住む画家の方が日本橋の絵を描いていたから、また電話をして、「使わしていただきたい」と。前回が15万円だったので同じ値段で交渉したら、「結構ですよ」と許可をいただいて。「其の二」を出したら、これも好評だったんです。こういう商品を出したら好調ですと伝えたら、銀行の反応も良くて、融資の交渉もスムーズに進みました。そしてこうしているうちに、運が向いていたんですかね。コンビニ大手さんから電話がかかってきて、「おでん種のすじを作ってくれないか」という注文があったんです。
――コンビニの発注量は個人経営だと大変ですよね。
井上 そうなんですよね。それまで、竹のすだれを巻いてすじを作っていたんですけど、とてもじゃないけどコンビニさんの発注量を作ることはできない。そこで東急ハンズでアルミ板を買って来て、50枚単位で硬貨をまとめるプラスチックのケースをヒントに、ベンディングマシンでちょっとずつアルミ板を曲げていって。すだれの型みたいなものを二つ作って、蝶番で繋げてパカパカ開閉する試作品を作ったんです。ちくわぶの作り方が、これに近かったんですよね。それを篠崎あたりの鉄工所に持って行って、「これと同じような作りで、量産できるものを作ってほしい」と。それで完成した型で、毎日千本、二千本と千単位ですじが作れるようになったので、改めてコンビニさんと契約したんです。
玉袋 大手との契約はでかいね!
井上 従業員の士気も上がりますしね。それで出荷を始めたら、売り上げも好調で、川崎にあったフェリーターミナル近くの店舗では、大根、卵に次いで、すじが3位になったそうです。厚みと食べ応えがあったので需要があったんでしょうね。ところが、あまりにも忙しくなり過ぎて、夏場でも夜の11時まで残業が続くようになって、辞める従業員が出始めたんです。それで、これ以上作り続けるのは難しいということで、コンビニさんとの契約は4年で終了とさせていただきました。でも、そのおかげで会社の危機を脱することができたので感謝しています。
玉袋 まるで一本のドラマを観ているようなお話しでしたね! 第19代目店主は決まっているんですか?
井上 今は子育て中の娘が、もうすぐ復帰するんですけど、おそらく継いでくれると思います。娘の旦那も工場で働いているんですよ。ただ僕の時代に、今お話ししたような波乱がたくさんあったから、安泰という訳ではないですよね。ただバトンさえ渡せば、あとは新しい代が、新しい発想で頑張ってくれればいいんです。
玉袋筋太郎
生年月日:1967年6月22日
出身地:東京都
1987年に「浅草キッド」として水道橋博士とコンビを結成。
以来、テレビ、ラジオなどのメディアや著書の執筆など幅広く活躍中
一般社団法人全日本スナック連盟会長
スナック玉ちゃん赤坂店オーナー(港区赤坂4-2-3 ディアシティ赤坂地下1階)
<出演・連載>
TOKYO MX「バラいろダンディ」
BS-TBS「町中華で飲ろうぜ」
CS「玉袋筋太郎のレトロパチンコ☆DX」
夕刊フジ「スナック酔虎伝」
KAMINOGE「プロレス変態座談会」