第12回「名盤は思い出たちを連れてくる」/燃え殻「もの語りをはじめよう」連載

ink_pen 2025/8/18
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第12回「名盤は思い出たちを連れてくる」/燃え殻「もの語りをはじめよう」連載
燃え殻
もえがら
燃え殻

1973(昭和48)年神奈川県横浜市生まれ。2017(平成29)年、『ボクたちはみんな大人になれなかった』で小説家デビュー。同作はNetfliexで映画化、全世界に配信、劇場公開もされ、大きな話題に。小説の著書に『これはただの夏』、『湯布院奇行』エッセイ集に『すべて忘れてしまうから』『夢に迷って、タクシーを呼んだ』がある。

第12回「名盤は思い出たちを連れてくる」

 先日、新宿の映画館で行われたトークイベントに出演した。イベント終了後、即席サイン会が設けられることになり、三、四年ぶりに人前でサインをすることになった。ありがたいことに大勢の行列ができ、僕はシコシコと一人ひとりにサインを書く。

 数人にサインを書き終わると、ひとりの若い女の子の番になった。女の子は、新品の僕の文庫を、無言で手渡してくる。

「ありがとうございます」と僕は言って、表紙をペラッとめくり、油性ペンでサインを書いた。「これからもよろしくお願いします」そう言って文庫を返すと、女の子は微笑むだけで、なにも答えてくれない。微妙な沈黙が流れる。

 まだ行列はだいぶつづいていたので、「では、すみません……」とお辞儀をして退場を促すが微笑んだまま、女の子は微動だにしない。「どうしました?」と困った僕が尋ねると、スマートフォンの画面をスッと見せてきた。多分、翻訳機能かなにかを使ったであろう日本語の文章が、スマートフォンの画面に表示されていた。

「私はこのイベントをSNSで知って、台湾から来ました。最初の小説を読みました。会えて嬉しいです。いつか台湾に来てください」と。

「わざわざ? もったいないよ〜」と驚いた僕は、思わず言ってしまう。「もっ……たいない? んー、わかりません……」と女の子は微笑みながら首を傾げ、スマートフォンで「もったいない」を調べ始めた。少し離れたところに、お母さんらしき女性の姿もあった。「大丈夫、大丈夫」と僕は慌てて女の子の検索の手を止め、握手をして別れた。

 それから数日後、J-WAVEのラジオ番組の収録で、「前に書いてしまったエッセイが……」という言い回しを僕が本番中にしてしまったとき、ディレクターから、「書いてしまった、とあなたが言ったら、その文章を愛している人にとって、失礼に当たると思うので、言わないようにしてください。『書いた』でお願いします」と真剣な表情で諭された。

 そのとき、あの台湾から来てくれた彼女のことを思い出した。作品が世に出た以上、それはもう、受け取った人それぞれのもので、それぞれの価値が存在する。僕が勝手に照れたり、貶したりすることは、それを受け取ってくれた人に対する冒涜になるのだと思った。「そうですね、気をつけます」とすぐに僕は謝罪を入れた。

 大昔、某ミュージシャンが、「ファーストアルバムは、聴いてほしくないんだよなあ。あれ、いま思えば駄作だからさ〜」と雑誌のインタビューで答えているのを読んで悲しくなったことがある。

 僕にとって、その某ミュージシャンの作ったファーストアルバムは、思い出深い一枚だったからだ。最初に付き合った彼女が、「誕生日おめでとう」とプレゼントしてくれたのが、そのアルバムだった。そのアルバムの素晴らしさを、彼女はよく語っていた。僕は正直、最初はピンとこなかったが、彼女との思い出込みで、忘れられない一枚になっている。それを制作した当事者から否定されると、こちらとしては突然ハシゴを外されたような気持ちになってしまう。

 サブスクに入った、某ミュージシャンのファーストアルバムを久しぶりに聴いてみた。やはり僕は名盤だと思った。「このアルバムは、名盤として語り継がれるはず! うん、間違いない」と熱く語っていた彼女。

 喫茶店で、片方のイヤフォンを左耳に入れた彼女が、もう片方のイヤフォンを僕に渡す。そしてCDウォークマンの再生ボタンを押した。すぐに、音漏れがうるさいと隣りのサラリーマンのおじさんに注意されたことまで、僕はあっという間に思い出した。

 何度か引っ越しはしたが、彼女からもらったアルバムは、本棚にまだ立てかけてある。それを聴くCDウォークマンは、いまはもうないけれど。台湾からわざわざ来てくれた女の子が読んでくれた小説は、その彼女のことを書いたものだった。

 それぞれの作品は、一人ひとりの人生のフィルターを通して記憶され、それぞれの形で完成するものなのかもしれない。

【燃え殻「もの語りをはじめよう」】アーカイブ

イラスト/嘉江(X:@mugoisiuchi) デザイン/熊谷菜生

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