第15回「レコードプレイヤーのある生活」
レコードを一枚も持っていないのに、レコードプレイヤーとスピーカーを購入してしまった。それも、雑誌の編集者からのお下がりで。
とある打ち合わせの終わりに編集者が、「最近、レコードプレイヤー買い換えたんですよ。もっと良い音で聴きたくて」と言ってきた。僕はなんとなくその話に乗っかりたくなって、「あー、いいなあ。ずっとレコードプレイヤー欲しかったんですよ」と、大して欲しくもないのに言ってしまった。
その場の会話のキャッチボールに少し変化をつけたくなるというか、ブーストをかけたくなってしまうのは、自分の昔からの悪い癖だ。
結果、その先で面倒が起きるということは、もう人生で何度も何度も学んできたはずなのに、ほんの出来心でそれを繰り返してしまう。
「えっ? じゃあ中古ですが、差し上げますよ」先方は良かれと思ってそう返してくる。「いやいや、タダはいくらなんでも申し訳ないですよ」僕はさらに事態をややこしくするようなことを口走ってしまう。「そうですかあ……、ではわかりました! 一万円で譲るということでどうですか?」
聞けば、そのレコードプレイヤーは、十万円ちょっとの品。さらに中古といっても、一年しか使っていない。それがスピーカーとセットで一万円なら、かなりお得な逸品ということになる。
ただ一つだけ問題があった。僕がそのレコードプレイヤーとスピーカーを大して欲しくないということだ。
「では、今日帰ったらすぐ自宅にお送りしますね!」
「それなら、いま一万円はお渡しします」と僕。交渉成立。めでたしめでたし。
……じゃない。またやってしまった。
これはもう、筋金入りの悪い癖だ。程なくして、編集者からきれいに梱包されたレコードプレイヤーとスピーカーが届いた。中古とは名ばかりの、傷一つない新品の状態だった。

「レコードのある生活はどうですか?」次の打ち合わせの終わりに、編集者がそう訊いてきた。もちろん僕の部屋には、一枚のレコードもない。棚の上に、音を発しないレコードプレイヤーがあるだけだ。
「やっぱり、いい音に包まれる生活は豊かな気持ちになりますよねえ」僕は当たり障りのなさそうな言葉を返す。「わかります。そんな燃え殻さんが絶対好きな喫茶店が名古屋にあるんですよ。店主が作った真空管アンプでレコードを聴けるお店!」編集者から、当たり障りのある言葉が返ってきた。
「え〜! いいですねえ。体感してみたいなあ〜」口からまたスルスルと、事態をややこしくする言葉が澱みなく溢れ出てくる。「そう来ると思った!」とガッツポーズの編集者。あっという間に、次の休みに、僕は名古屋にある、手作り真空管アンプでレコードを聴ける喫茶店に行くことになってしまった。
ここまできたらもう仕方がない。この筋金入りの悪い癖も、極めたら個性の一つにでもなるかもしれない。
川の流れに逆らわず、身を委ね、行き着く先で、思いもよらぬ世界、思いもよらぬ自分が待っているかもしれない。
いや待っていてくれ。そう願いつつ、帰り道にレコードショップに立ち寄り、レコード棚から一枚のレコードを何気なく手に取ってみた。
「モダンジャズ好きなんですか? ソニー・ロリンズいいですよね」と店員が声をかけてきた。「モダンジャズのレコードを探してて」ソニー・ロリンズの霊でも憑依したかのように(九十五歳でご存命でした!)、僕の口はまたまた勝手に喋り出してしまう。
「テナーサックスってなんであんな沁みるんでしょうね〜」店員はそう続ける。「ですねえ。じゃあ、これください」と僕。川の流れに身を任せ、今日、僕の家にソニー・ロリンズのレコードがやってきた。

イラスト/嘉江(X:@mugoisiuchi) デザイン/熊谷菜生