「高架化区間」&「新線建設現場」を探訪 〜〜相模鉄道(神奈川県)〜〜
相模鉄道は大手私鉄16社の中で路線の総営業距離が最短ながら、地道な鉄道経営を続けてきた会社として知られる。そうした相模鉄道が変貌しつつある。
まず11月下旬、相鉄本線の一部区間が高架化された。さらに新線建設が進む。数年後にJR東日本や、東急と線路が結ばれ、車両の相互乗り入れが可能となる。大きく変る相模鉄道のいまと、期待が膨らむ沿線模様をお伝えしよう。
【相鉄の歩み】現在のJR相模線の開業から始まった相鉄の歴史
相模鉄道(以下「相鉄」と略)の歴史と歩みに簡単に触れておこう。
会社設立と路線開業 | 1917(大正6)年に会社設立、翌年に茅ヶ崎駅〜寒川駅間が開業 |
相鉄本線の開業 | 1926(大正15)年、神中鉄道により二俣川駅〜厚木駅間が開業 |
現有路線と営業距離 | 本線(横浜駅〜海老名駅間24.6km)、いずみ野線(二俣川駅〜湘南台駅間11.3km) |
相模鉄道の歴史は今からちょうど100年前。1918(大正7)年に現在のJR相模線の路線の一部を開業させたことから始まった。1931(昭和6)年に相模線の茅ヶ崎駅〜橋本駅間が全通している。
一方、相鉄本線を開業させたのは神中鉄道(じんちゅうてつどう)という会社だった。1926(大正15)年に二俣川駅〜厚木駅間が開業した。延伸が続けられ、1933(昭和8)年12月27日に横浜駅への乗り入れを果たしている。
その後の1943(昭和18)年に相模鉄道が神中鉄道を吸収合併し、すぐ翌年の1944(昭和19)年に、創業時に関わった相模線が国有化されてしまう。相鉄の手元には本線のみが残された。太平洋戦争さなかの“大どんでん返し”のようなドラマ。これが相鉄にとって吉と出た。
国有化された相模線がその後、赤字で苦しんだのに対して、相鉄本線は横浜市と周辺都市の急速な発展に伴い、順調に業績を伸ばしていった。
相鉄は長らく本線のみの運営に専念していたが、1999(平成11)年に、いずみ野線が全通した。ちなみにいずみ野線の一部区間が開業した1990(平成2)年、準大手私鉄から大手私鉄に昇格を果たしている。
【変貌する相鉄線1】16年の歳月をかけて高架化された星川駅
昭和の初期に全通した相鉄本線は地上を走る区間が多い。当然ながら路線をまたぐ踏切も多く、列車の本数が増える朝夕の渋滞が問題視されてきた。とくに星川駅周辺は、横浜市保土ケ谷区の行政の中心エリアであり、以前から立体交差化できないか取り沙汰されてきた。そこで横浜市を事業主体として計画されたのが「相模鉄道本線(星川駅〜天王町駅)連続立体交差事業」だった。
2002(平成14)年6月5日に都市計画が決定、同9月13日に事業認可が下り工事が始まった。事業区間は天王町駅(てんのうちょうえき)と、和田町駅(わだまちえき)間の約1.9kmだ。
そして2018年11月24日、待望の星川駅の高架化切り替え工事が完了した。切り替え工事の前後を含め、写真を中心に追ってみたい。
今回、高架化された星川駅。筆者と名が同じということで、気になっている駅だった。何回か通ったが、上の写真は高架化工事が始まったころの様子だ。
高架化事業は次のような行程を経て進められた。まずは路線に隣接する用地の買収と、更地化。この更地化が終了して、初めて本格的な高架化工事が始まる。
星川駅前後の高架化切り替え完了は都市計画が決定してから、実に16年という長い年数がかかっている。しかし、11月末の高架線への切り替え工事が終了して、全ての工事が終わったわけではない。駅や道路の整備などまで含めるとあと3年ほどかかるとされている。
20年近い歳月を経て、ようやく終了する立体交差事業。鉄道を取り巻く都市計画事業というのは、多大な年月と資金と、労力がかかることがよく分かる。
【変貌する相鉄線2】高架化工事の完成前後を写真で見比べる
星川駅の高架化が完了するその前後で同区間の写真を記録したので、確認しておこう。
上記の2枚の写真は星川駅と和田町駅の中間にある高架線への入口部分で撮影したもの。
最初の写真は高架化へ切り替え工事が行われる前日の、11月23日の撮影。下り路線の高架化が先に進められたことが分かる。上り線は同日まで、このポイントから高架線に沿った地上線へ入り、地上駅のホームへ進入していた。
23日から24日の早朝にかけて線路の切り替え工事が行われた。24日の早朝には高架ホームへ入る線路が無事につながり、高架ホームの利用が始まった。
今回の高架化で8か所の踏切がなくなり、沿線道路の渋滞緩和に結び付くと期待される。ちなみに和田町駅側にある踏切(星川6号踏切)も最終的には閉鎖される予定で、高架化により計9か所の踏切が消えることになる。