【八高線の歴史1】閑散路線だからこそ楽しめたレアな車両たち
今でこそ八高線の沿線の一部では住宅が立ち並ぶ風景も見られるようになっている。しかし、ひと昔前までは、原野がひろがる光景が沿線のあちこちにあった。閑散路線ということで、使われる車両も都心で使われた車両の“お古”が主流だった。
そのため鉄道好きにとっては楽しい光景が多々見られた。
八高線を走る車両で筆者が記憶に残っているのは蒸気機関車。元々、首都圏のバイパス線として昭和初期に設けられた八高線。戦時下を念頭に起き、都心を通らず、貨物列車が走れるように計画され、長年、貨物輸送に活用された。
近年まで貨物輸送に使われていたのがC58形やD51形といった蒸気機関車だった。都心部でも1970年ごろまでは蒸気機関車がわずかに走っていたが、八高線へ行けば確実に出会うことができ、多くの鉄道ファンが訪れた路線でもある。
上は拝島駅の構内に停まる蒸気機関車。1970(昭和45)年9月27日に八高線で「さよならSL号」が運転されたと記録されているので、写真は1969(昭和44)年ごろだと思われる。都心からも近く八高線は気軽に蒸気機関車の姿を楽しめる“聖地”でもあった。
さらに八高線の歴史を車両中心に記しておこう。
1958(昭和33)年11月20日 | 旅客列車の運行がすべて気動車となる(当初はキハ20系のほか、キハ15形やキハ17形などを利用) |
1970(昭和45)年9月27日 | 無煙化が進みSLがさよなら運転される |
1993(平成5)年3月18日 | キハ110系が運転開始(寄居駅〜高崎駅間) |
1996(平成8)年3月15日 | キハ30形・35形、キハ38形の運転が終了 |
1996(平成8)年3月16日 | 八王子駅〜高麗川駅間が電化され(当初は103系、201系、209系3000番台を利用)、気動車は高麗川駅〜高崎駅間のみの運行となる |
2005(平成17)年3月31日 | JR貨物による貨物輸送が廃止される |
1996年に一部区間が電化されたことにより、神奈川県に続き東京都が非電化路線のない2番目の都道府県となった(沖縄県を除く)。
【八高線の歴史2】太平洋戦争後すぐに起きた悲惨な2つ事故
八高線の歴史を語る上で避けて通れないのが、太平洋戦争後まもなく起きた2つの事故だろう。いずれも今では考えられない鉄道事故であり、太平洋戦争が終わって間もなくという世情が落ち着かないなかで起きた悲劇だった。
まずは終戦の日から9日目、1945(昭和20)年8月24日に起きた「八高線列車衝突事故」。朝7時40分ごろ、小宮駅〜拝島駅間に架かる多摩川鉄橋上で上り下り列車が正面衝突したのである。
互いの列車は橋から落下、運悪く豪雨の影響で多摩川が増水していたため、濁流の飲み込まれた人が多数いたとされる。犠牲者数ははっきりしなかったが少なくとも105人の方が亡くなった。
現在、同鉄橋付近は広い河川敷が多摩川緑地ぐじら運動公園などに整備され、週末ともなると多くの人たちが野球やテニスに興じている。70年前にこの鉄橋の上で事故が起きたことを伝える案内板が堤防上に立つが、ほとんどの人が気付かず通り過ぎていく。“何だろう?”と興味を寄せる人も少ないことが、ちょっと残念に感じられた。
「八高線列車衝突事故」のわずか2年後。さらに悲惨な事故が起きた。
1947(昭和22)年2月25日、東飯能駅〜高麗川駅間で起きた「八高線列車転覆事故」である。八王子駅発の高崎駅行きの列車が、20パーミル(1000mの間に20m下るまたは上る)の急勾配区間、さらに半径250mというカーブを、曲がり切れずに客車4両が脱線、築堤の下に転落した。
食料難に見舞われた戦後まもなく。買い出しに向かう人たちで列車は超満員となり、屋根の上までに人が乗る状況だった。定員を大きく上回る乗車人員で、ブレーキが効かずに、また重心が高くなったことも転覆を招いた原因とされた。死者は184名、負傷者は495名という未曾有の大惨事となった。
この事故後に脆弱な木造客車の排棄が進み、鋼製客車に順次、変更されていくことになった。太平洋戦争後しばらくは、こうした鉄道事故が相次いだが、事故の教訓がその後の鉄道運行に役立てられていることは言うまでもない。