【御殿場線の歩み②】2時間をかけてSL列車が踏破した
御殿場線がまだ東海道本線だった1925(大正14)年の時刻表をわかりやすく修正、再現してみた。細かく見ると非常に興味深い事柄が浮かびあがってくる。
1925年の御殿場線内の時刻を見ると、まずは下り列車が21本、上り列車が23本運行されていた。深夜、早朝を含めて寝台列車や夜行列車がほぼ24時間、引っ切りなしに走っていた。さらに気になることをあげると…。
◇御殿場線内で普通列車は2時間以上、急行・特急は2時間弱かかった
かかった時間は現在の感覚では予想以上と言っていいだろう。普通列車は下りならば約2時間20分、上りは約2時間30分かかった。また急行・特急列車は、下りが約1時間55分、上りが2時間5分前後かかっている。なぜか下り列車に比べて上り列車のほうが10分ほど長くかかっている。その謎解きは沿線のガイドしていく時に説明したいと思う。
ちなみに、現在の列車は各駅に停車しつつ約1時間半で国府津駅〜沼津駅間を走る。坂に強い電車ならではの時間と言っていいだろう。
なお、丹那トンネル開通後、東海道本線の列車は熱海駅経由に変更されたが、国府津駅〜沼津駅間が普通列車で約1時間10分前後と所要時間が大幅に短縮された。御殿場線経由がいかに大変だったかを物語る時間の差と言えるだろう。
◇下り急行列車や特急列車は途中、山北駅のみに停車した
大正末期の時刻表を見ると、下り急行列車や特急列車は御殿場線内で山北駅のみに停車している。一方、中心駅の御殿場駅に停車していない。なぜだろう?
御殿場線は勾配が厳しい。そのため先頭の機関車のみの牽引では列車が急坂を登れなかった。そのために御殿場線内では最後尾に補助の蒸気機関車(補機)を連結して勾配を登った。山北駅に機関区があり、多くの機関車が待機、下り列車は後部に機関車を連結するため山北駅に停車した。
ちなみに上り列車の場合は、沼津駅で後部に補機を連結。山北駅は停車せずに、連結器を解放、走ったまま後部の機関車を切り離したとされる。言わばアクロバチックのような列車運行だったことがわかる。
山北駅はやむを得ず停車したが、急行・特急は少しでも時間を短縮したいがために御殿場駅は通過したのだった。
紹介した1925(大正14)年の少しあと、1930(昭和5)年からは、東海道本線を走る特急列車に愛称が付けられた。後世にも名が引き継がれた名特急「燕(つばめ)」が走り始めている。
同列車はスピードが売りで、下り列車は国府津駅で30秒停車する間に補機を連結、沼津駅は通過する。こちらも走ったまま機関車を切り離した。上りはその逆で、沼津駅で補機を連結、国府津駅は通過した。30秒停車で補機を連結というのは、さぞかし忙しく、大変な作業だったろう。
◇東京駅発、下関駅行きの特急も御殿場を経由して走った
当時は東海道本線ということもあり、東京駅から大阪駅方面、そして広島駅、下関駅行き、さらに北陸の富山駅行きの直通列車が御殿場経由で走っていた。華やかな寝台列車にプラスして一部には食堂車が連結される豪華さだった。
◇その後の御殿場線の歴史は
1934(昭和9)年12月1日 | 丹那トンネルの完成で東海道本線から御殿場線に路線名が変る。直通列車は減り、区間内を運転する列車が主流となった。 |
1943(昭和18)年7月 | 全線が単線に。太平洋戦争の戦時下、不要不急路線とされ、片側の線路や橋梁が撤去され、軍事用に転用された。 |
1955(昭和30)年 | 旅客列車に気動車が使われ始める。同年、小田急線との連絡線が敷かれ新宿駅〜御殿場駅間を走る準急列車が運行され始めた。 |
1968(昭和43)年 | 4月末に国府津駅〜御殿場駅間を電化、7月に沼津駅まで電化区間が延びる。 |
1987(昭和62)年4月1日 | 国鉄分割民営化。御殿場線はJR東海へ引き継がれる。 |
1955年から始まった小田急電鉄の列車乗り入れだが、その後、特急列車となり、近年は特急「あさぎり」が沼津駅まで乗り入れた。2012年からは新宿駅〜御殿場駅間と運転区間が縮まり、2018年からは列車名が「ふじさん」と改称された。