【美濃赤坂線の秘密⑤】本線からは平面交差しつつ分岐していく
美濃赤坂線が分岐する南荒尾信号場では、大垣駅を出発した列車が東海道本線の下り線から、一度、上り線の線路上を走り、さらに支線の線路へ入っていく。いわば東海道本線と美濃赤坂線の線路が平面交差しているわけだ。
そのため同信号場を美濃赤坂行きの列車が走る時は、通過しきるまで、行き合わせた上り列車は停車して待たなければいけない。列車本数が多い路線ならば、立体交差にしたのだろうが、本数が少ない美濃赤坂線だからこそ、可能な分岐スタイルと言うことができるだろう。
美濃赤坂線に入って、線路は右へ大きくカーブする。このカーブの途中に路線で唯一の途中駅、荒尾駅がある。カーブを曲がりきった先からは終点の美濃赤坂駅まで直線路が続く。左右に住宅地を眺めながら列車は進む。
美濃赤坂駅の手前では左の小高い丘に注目したい。関ヶ原の戦いでは徳川家康がこの小高い丘に本陣(岡山本陣跡)を設けて采配を振っている。
短い美濃赤坂線だが、歴史上、重要なポイントを2つも見つつ走ってきたわけだ。ちなみに、この美濃赤坂線、鉄道史でも大きな役割を果たしている。
【美濃赤坂線の秘密⑥】日本初の内燃動車が走った路線でもある
現在、非電化区間ではディーゼルカーが主力車両として活躍している。ディーゼルカーは「内燃動車」とも呼ばれる。内燃動車とは車両に積んだディーゼルエンジンなどを利用して自走する鉄道車両のことで、外部から電気を取りいれて走る電車は除かれる。
日本初の内燃動車はガソリンカー・キハ二5000形気動車だった。このキハ二5000形が1930(昭和5)年2月1日に美濃赤坂線で走り始めた。
当時の鉄道用ガソリンカーは非力で長距離、そして勾配のある路線は不向き、また車体が小さく定員数が限られていた。そのために距離が短く、路線が平坦で、利用者も少なめな美濃赤坂線が最初の運行場所として選ばれた。
ガソリンカーは大垣駅から美濃赤坂駅、さらにその先に線路がつながっていた西濃鉄道の市橋駅(現在は廃止)まで乗り入れた。ちなみにキハニ5000形が、西濃鉄道という他社路線まで乗り入れた国鉄初の気動車にもなっている。美濃赤坂線はこうして鉄道史にも名を残す路線となったわけだ。
【美濃赤坂線の秘密⑦】美濃赤坂駅の近くにある赤坂はどんな町?
終点の美濃赤坂駅。駅前に喫茶店が1軒あるのみで閑散とした印象だ。とはいえ、そのまま帰ってしまうのは惜しい。駅から北へ300mほど歩いたところに町の中心がある(大垣市赤坂町)。
この町の歴史は古い。江戸時代に五街道の一つ、中山道(なかせんどう)の宿場町「赤坂宿(あかさかじゅく)」があったのだ。
中山道は江戸から上州、信州を経て京都まで行く重要な街道だった。中山道には途中に67カ所の宿場が設けられていた(中山道六十九次とも呼ばれた)。赤坂宿は56番目の宿場町で、往時は本陣、脇本陣がそれぞれ1軒あったほか17軒の旅籠があり、賑わった。
現在もその面影が残り、徳川家康が上洛する際に使ったとされる「お茶屋屋敷」などの史跡も残る。
古いたたずまいが残る一方で、観光地化されていないために、のんびりと街歩きが楽しめる。唯一、残念なのはカフェなど一休みする施設が、ほとんどないこと(わずかにあるが日曜日のみなど、営業日時が限定される)。貴重な財産が見聞きできる場所だけに、ちょっと残念に感じた。