【世田谷線の謎④】環七通りのみで見られる路面電車の面影
前置きがだいぶ長くなった。起点となる三軒茶屋駅から世田谷線の旅を始めよう。三軒茶屋の駅は、東急田園調布線の三軒茶屋駅から、地下通路を歩くこと3〜4分。アーケードふうの建物の中に世田谷線のホームがある。
交通系ICカードを改札機にかざしてホームへ入る。料金は一律150円(ICカード利用時は144円)と安い。この手ごろさも世田谷線の魅力と言っていいだろう。それこそ下駄履き感覚で乗れる世田谷区内電車といっていい。
ちなみに途中駅のほとんどが、ホームに自動改札機を設けておらず、電車の乗車時に、車内備え付けの運賃箱に運賃を入れるか、ICカードを車内の簡易改札機にかざして乗車するシステムとなっている。
三軒茶屋駅を発車すると、電車は西に向けて走る。車両は2両編成。2両の連結器部分に台車をはく、連接車といわれる車両で、床が低いせいもあるのか、乗り心地はよく、ほとんど揺れを感じない。線路幅が1372mmと広いせいもあるのかも知れない。
車内は進行方向に向いた一人掛け用の座席が車内の左右一列に並ぶ。通路が非常に広く、立っていても余裕が感じられる。
三軒茶屋駅を発車してわずか、次の西太子堂駅(にしたいしどうえき)に到着する。駅間はわずか300m。このように駅間は路面電車らしく短めだ。
次が600m離れた若林駅だ。この若林駅、すぐ目の前を環七通りが通っている。ここの若林踏切がある。環七通りは都内でも有数の幹線道路だ。世田谷線の電車は若林駅に到着する前、一時停車することがある。環七通り側の信号が青の場合、世田谷線の側が赤となって一時停車が必要になる。
普通の鉄道では見ることができない光景だ。世田谷線でも沿線にある踏切はすべて電車が優先となっている。若林踏切は世田谷線が路面電車であることを示す唯一の場所と言って良いだろう。
【世田谷線の謎⑤】幕末の宿敵が至近距離に集う歴史のおもしろさ
若林駅の次は松陰神社前駅となる。さて松陰神社、ご存知のように幕末に活躍した長州藩の吉田松陰が祀られる神社だ。
吉田松陰の人となりを念のため軽く触れておこう。長州藩に生まれた吉田松陰。松下村塾で、多くの若者たちの教育にたずさわる。日米修好通商条約が結ばれたことに異を唱えた。その後の活動や、他藩の志士たちとの交流などが問題となり、安政の大獄で罪に問われ、捕らわれの身に。江戸、伝馬町の牢屋敷で死刑となった。享年30の若さだった。
亡くなった後に、薩長両藩による倒幕運動が勢いづき、明治維新へ結びついていく。維新後の1882(明治15)年に元長州藩別邸があった地に創建されたのが松陰神社だった。
さて安政の大獄を指揮したのが時の江戸幕府の大老、井伊直弼だった。彦根藩第15代藩主である。日米修好通商条約の調印を、勅許を得ずに行ったと国内から多くの反発の声があがる。そうした声に対して強権を持って弾圧したのが安政の大獄だった。
その後に、井伊直弼は桜田門外の変により暗殺された。井伊直弼は彦根藩の菩提寺、豪徳寺に埋葬される。松陰が祀られる松陰神社と、井伊直弼が葬られる豪徳寺は非常に近い。何と直線距離で700mほどしか離れていない。
吉田松陰は長州藩のその後の人づくり、そして維新につながるきっかけを作った思想家。一方は、開国に向けて通商条約と結んだ政治家。立場こそ違えども国の行く末を案じ、動いた偉人といって良いだろう。
後世の歴史では、井伊直弼が悪役として描かれやすいが、藩主としては名君だったとされ、問題視された勅許に関しても、勅許を得た上で、修好条約を結ぶべきだ、と最後まで言い続けたとされる。
いわば敵(かたき)の関係だったのだが、それこそ呉越同舟。こうして歴史を動かした2人に関係の深い寺社が、ごく近くにあることがおもしろい。