【世田谷線の謎⑥】なぜ上町駅で路線が大きくカーブするのか?
起点の三軒茶屋駅から松陰神社前駅、そして世田谷駅とほぼ西に路線は延びている。線路は、三軒茶屋で国道246号から分岐した世田谷通りに沿って走る。
西へ走った世田谷線の線路が、上町駅(かみまちえき)を境にして北へ向けて線路がほぼ90度の角度に曲がっている。なぜ上町駅で路線は北へ大きくカーブをしているのだろう?
このカーブは、世田谷線が出来た当時の環境が大きく関わっていた。大正末期、世田谷付近はまだ片田舎だった。1923(大正12)年に起こった関東大震災の後に、ようやく郊外に移り住む人たちが出てきた、そんな時代だった。
世田谷通り沿いには古くから住民が住んでいたものの、それも世田谷代官屋敷があった上町駅付近まで。その先は荒野が広がっていたと想像される。
そのため、玉川電気鉄道では上町駅からは北に3kmほどの距離にある下高井戸駅まで路線を延ばそうとしたのだった。下高井戸には五街道の一つ、甲州街道の宿場町、高井戸宿があった。1913(大正2)年4月には京王電気軌道(開業当時は軌道、すなわち路面電車だった)の下高井戸駅が開業していた。京王電気軌道とは線路幅が同じで、乗り入れも可能という思惑もあったのかもしれない。
いわば、未開発の世田谷の奥を目指すよりも、すでに繁華だった土地を終点にしようと、上町駅で大きくカーブする路線が造られたのだった。
【世田谷線の謎⑦】なぜ世田谷で「ボロ市」が開かれるのか?
世田谷線沿線が一年で最も賑わうのがボロ市の時だろう。臨時列車まで運行されるほどだ。
上町駅の南側、世田谷通りの一本裏手の通り、通称、ボロ市通りを会場にして例年12月15・16日と、翌年の1月15・16日に開かれる。世田谷代官屋敷が面している通りだ。約500mの通りに骨董、古本などのほか、古着、玩具、生活雑貨、そして神棚まで商う露天がずらりと並ぶ。
訪れる人は1日に20万人ほどだとされる。平日にもかかわらずだ。ボロ市の歴史は古い。450年近い歴史を持つ。語源は古着を多く商われたことから「ボロ市」になったとされる。だが、なぜ世田谷だったのだろう。
世田谷ボロ市の始まりには、小田原を拠点とした北条家(後北条家)が大きく関わっていた。16世紀後期、北条家3代目の氏政が支配下地域での経済活動を盛んにするために楽市(市場)を開かせた。
さらに現在地にした理由は、小田原と江戸を結ぶ街道筋にあった世田谷宿を賑やかにしたいという思いがあったとされる。
見て回るだけでなかなか興味深い古物に巡りあうことも多いボロ市。現在は東京都の無形民俗文化財にも指定されている。庶民の歴史が世田谷で脈々と息づいている。
【世田谷線の謎⑧】宮の坂駅前に停まる緑色の電車は?
大きくカーブする上町駅の次は宮の坂駅。前述した豪徳寺の最寄り駅となる。豪徳寺に隣接して世田谷城趾も公園として整備されている。歴史好きにとっては魅力的なところだ。
さて宮の坂駅に深緑色の車両が停められている。さてこの保存車両は何だろう。
この車両こそ、かつての玉電、そして世田谷線を知る人にとっては懐しい車両だろう。製造は1939(大正14)年のこと。ちょうど世田谷線が開業する同時期に造られた電車だ。当時は玉川電気鉄道45号という車両だった。
当初は木製車だったが、1953(昭和28)年に鋼製化、デハ104号となった。その後の1970(昭和45)年に江ノ島電鉄に譲渡、引退後の1990(平成2)年にこの宮の坂駅前に戻り、現在のカラーとなった。
往年の玉電、そして世田谷線の血を引き継ぐのが宮の坂駅前に保存された車両なのである。
上町駅から宮の坂駅、そして小田急小田原線の接続駅、山下駅の順に停まっていく。次の松原駅と、四季それぞれの花木が美しく咲く区間だ。6月の梅雨の時期はあじさいが美しい。こうした花と絡めて世田谷線を撮るのも楽しい。
とはいえ、世田谷線を撮影する上で注意しておきたいポイントがある。次には撮影する上でのコツを見ておこう。