【只見線じっくり探訪記③】難工事を極めた只見駅〜大白川駅間
最後に残った区間、只見駅〜大白川駅間の開業は1971(昭和46)年となった。
当時の1971年11月発刊の月刊「鉄道ファン」誌を見ると、満面の笑みを見せてテープカットを行う当時の通産大臣、田中角栄氏の姿がある。後に首相となり、また上越新幹線の開業などにも辣腕をふるった地元、新潟県出身の田中角栄氏は、この只見線開業にも大きく関わっていたことがわかる。今ふりかえると「なるほど」とも思う。
只見駅〜大白川駅の間には三国山脈と越後山脈が横たわる。そのためトンネルは計10か所、その総延長だけで11.8kmになった。さらに橋梁の数はなんと41。最高勾配は25‰(1000m走るうち25m上る)にもなった。同区間の建設は1935(昭和10)年に始められた。その後、戦時下となり、工事中止に。1964(昭和39)年に工事が再開された。当時の工事費用が約51億円だそうだ。
今ふりかえると、どうしてそこまでしてこの路線を造ったのだろうと考えてしまう。だが地元、只見に住む人にとっては交通手段が必要とされたのだった。新潟県との県境を越える国道252号の同区間は「六十里越(ろくじゅうりごえ)」とも呼ばれ難所となっている。冬期は雪に埋もれ、11月下旬から5月までの長期間、通行止めとなる。
筆者の従兄弟は一時期、只見に赴任していた時期があり、赴任当時のことを聞いてみた。喜多方の自宅へ帰るのに「冬はクルマで1時間半の距離が2時間以上にもなってしまう」と話す。雪道に慣れていても、滑りやすい雪道、ヒヤッとさせられることも多いそうだ。
さらに豪雪の時期ともなると会津の中心部へ向かう国道すら不通になることもあり、生活路が断たれることがある。大変な地域なのである。さらに冬は国道を使って県境を越えることができない。2011年に起きた水害で、会津地方の中心でもある会津若松への鉄路は断たれている。只見の人々にとって、冬でも安全に他の地域へ行き来することができる只見線は欠かせない“唯一の生命線”なのだ。
【只見線じっくり探訪記④】2011年7月末から一部区間が不通に
前述したように、現在は只見駅から鉄路で会津若松へ行くことができない。この原因となった豪雨災害のことも、ここで触れておかなければいけないだろう。
2011(平成23)年は災害の多い年だった。まずは3月11日に東日本大震災が起こっている。幸い只見線沿線は被害を受けなかったものの、福島県では多くの人が被災し、今も避難を続けざるをえない人々も多い。
そして7月28日から30日にかけて、新潟県福島豪雨災害が発生する。先に紹介した従兄弟も「バケツをひっくり返したすごい雨だった」と振り返る。
この豪雨の影響で多くの橋梁が流され、線路を支える路盤が複数個所でで流出してしまう。そして会津坂下駅〜小出駅間が不通となった。
その年の8月中に、会津坂下駅〜会津宮下駅間が、大白川駅〜小出駅間が復旧し、さらに12月になって、会津宮下駅〜会津川口駅間が復旧工事を終えた。
現在は列車が走る大白川駅〜只見駅間の県境区間はいつ、復旧したのだろう。復旧工事は翌年の2012年10月1日まで、1年の歳月がかかった。平行する国道252号は復旧したものの、鉄路は通ずることなく只見は1年以上の歳月、陸の孤島となってしまったわけだ。冬が早いこの地域にとって、雪が舞い始めるぎりぎりの10月、県境の国道が通行止めとなる直前に間に合ったのだった。
今も只見駅〜会津川口駅間が不通となっている。不通となった2011年からかなり時間がたった2018年6月、福島県の主導で只見線の本格復旧が始められた。2021年度の復旧を目指し、工事が進められている。不通区間の模様は次回の本原稿にて紹介したい。
【只見線じっくり探訪記⑤】美景と秘境感が気軽に楽しめる路線
路線模様に話を移すことにしよう。昨今、さまざまな媒体に掲載されることが多い、只見線の象徴的なシーンが、下記の「第一只見川橋梁」の風景だろう。
鉄道ファンではなくとも、目にした人も多いのではなかろうか。同ポイントに魅せられ訪れる写真愛好家の人たちも多い。ポイントの詳細は後述するとして、この風景が只見線の魅力を端的に現しているといって良いだろう。
季節、時間によって、風景を染める色合いが変わっていく。梅雨の時期ならば川霧が立つ。朝の景色、夕方の景色、新緑の時期、紅葉の時期で、刻々と表情を変えていく。
こうした美景は第一只見川橋梁だけに限らない。只見線には多くの美景ポイントがある。こうした只見線へ訪れた時は、ぜひとも只見線の列車にも乗車して、路線の存続に寄与していただければと一鉄道ファンとして願うばかりだ。