【越後線の秘密②】なぜ戦後まで信濃川橋梁が架からなかったのか
新潟駅と白山駅の間を流れる信濃川。新潟県内では信濃川と呼ばれる。中・上流部の長野県内を流れる千曲川を加えると、日本一長い大河となる。
水量も並みではない。実は今、新潟市内を流れる信濃川は、昔の信濃川とは姿が大きく異なる。
下の地図は、新潟市内を流れる信濃川の現在と、越後鉄道が開業した当時の流れを比較したもの。古い川の太さは巨大そのもので、新潟市内で700〜800mもあった。さらに古い時代には阿賀野川の流れも合流していたというから想像を絶する。
現在、新潟市のシンボルでもある萬代橋(ばんだいばし)は橋の長さが306m。初代、2代目の長さは共に782mもあった。初代の橋が1886(明治19)年に架かったが、当時、川を渡る手漕ぎ船は川を渡るのに約1時間かかったと伝わる。
長らく白山駅が始発駅だった越後鉄道は、思うように収益をあげることができずに、国に路線を買収してもらうように働きかけた。当時、同じように国有化が検討された路線が全国で5線ほどあったが、越後鉄道の路線は、当初は「国営化は不要」とされた。ところが突然、1927(昭和2)年10月に国有化とされてしまったのである。
多くの政治家への金品の受け渡しが行われたと噂され、のちに当時の大臣が収賄容疑で起訴されるなど、「越後鉄道疑獄」と呼ばれる騒動にまで発展した。
こうした疑獄事件が重なり、政党政治への不信感を増していく。不満の高まりが、その後に五・一五事件、二・二六事件といった反乱事件を生み、結果として軍部の政治介入へつながっていった。
【越後線の秘密③】信濃川の水量の豊富さを物語る2つの分水
越後線の話題とやや離れるが、新潟市内の信濃川の流れが、古い時代に比べて細くなったのはなぜなのだろう。
信濃川は水流豊富なだけに水害も多かった。さらに新潟市内には萬代橋があったものの、初代、2代目は長過ぎて渡るのもひと苦労した。巨大の信濃川が市街地を南北に流れていたために、新潟という都市の発展を阻んでいたのである。
そんな信濃川の流れを、分水路を新設することによって、水量を減らす試みが行われた。その1本目が1922(大正11)年に完成した大河津分水(おおこうづぶんすい)だった。
1870(明治2)年に工事が開始され、途中、頓挫したものの、50年近くの年月をかけて完成されたのだった。
大河津分水の完成による効果は大きかったが、諸問題が生じた。下流にまったく水が流れない状態になり、河口付近での舟運などに大きく影響した。そのため1931(昭和6)年に、川が分岐する箇所に可動堰が設けられた。
その後の1972(昭和47)年には、関屋分水も造られた。この分水は下流部での水害を減らすため、という目的があり、大河津分水と関屋分水により、下流の新潟市内では水害の影響が起こりにくくなるのと同時に、新潟港内の土砂堆積の防止にも結びついた。
こうして新潟市内の信濃川の川幅が細くなるとともに、南側河畔が徐々に整備されていった。
分水工事が進められたものの、越後線の信濃川橋梁が長らく設けられなかった。ようやく橋が架かったのが1943(昭和18)年のこと。最初に旧新潟駅〜関屋駅間を結ぶ貨物線が設けられた。当初は貨物専用線だったが、1951(昭和26)年からは、同駅間の旅客営業も開始された。新潟駅へのルートも1956(昭和31)年に現在のルートに変更された。
越後鉄道の創始者たちが夢見た新潟駅への乗り入れは、信濃川の流れが細くなり、新潟の街が戦後に整備されて、ようやく実現したのだった。