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2019/12/1 18:00

西日本唯一の臨海鉄道線 —「水島臨海鉄道」10の謎

おもしろローカル線の旅57 〜〜水島臨海鉄道(岡山県)〜〜

 

岡山県の倉敷市内を走る水島臨海鉄道。臨海鉄道を名乗るものの貨物列車の運行とともに、旅客列車を走らせる珍しい鉄道会社である。

 

水島臨海鉄道は西日本で唯一の臨海鉄道だ。路線開業時の歴史を含め、謎やあまり知られていない事実が多い。乗って、訪れれば発見が楽しめる、そんな路線だ。今回は、倉敷市駅と三菱自工前駅間を走る水島臨海鉄道の謎発見の旅を楽しんだ。

 

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↑球場前駅付近を走るMRT300形。水島臨海鉄道の主力車両だ。現在6両が走る。ほか旅客用の車両には、JR久留里線を走っていた国鉄形気動車が使われる

 

 

【水島臨海鉄道の謎①】戦時下、路線の開業は謎に満ちていた

初めに水島臨海鉄道の概要を見ておきたい。

路線と距離水島臨海鉄道・水島本線/倉敷市駅〜倉敷貨物ターミナル駅11.2km、港東線(貨物線)/水島駅〜東水島駅3.6km *全線単線・非電化
開業1943(昭和18)年6月30日、三菱重工水島航空機製作所の専用鉄道として倉敷〜水島航空機製作所間が開業
駅数水島本線10駅(旅客駅のみ・起終点駅を含む)

 

水島臨海鉄道の路線は、太平洋戦争の戦時下に生まれた。戦争遂行のためということもあり、計画されてから路線が敷かれ、開業するまでの期間が非常に短い。1941年4月に三菱重工水島航空機製作所(現・三菱自動車工業水島製作所)が誘致された。早くも11月22日に工場が起工され、1943年4月1日に航空機の製作を開始、6月30日に専用鉄道が敷かれた。

 

路線の起工時期は明らかで無いが、ほぼ2年で路線が開業させたのだろう。物資が不足していたとされる時代に、なんとも驚かされる工事の素早さである。

 

現在の倉敷市水島地区には飛行機工場とともに、試験飛行用の滑走路が2本、設けられた。しかし、当時の様子を残した地図を今、見つけることができない。国土地理院のホームページで唯一検索できるこの地方(岡山及び丸亀)の20万分の1の地図(1944年修正版)では、水島のこの地域が真っ白のままで印刷されている。軍需工場だったこともあり、工場があること自体「軍事上の秘密」だったわけだ。倉敷市の歴史資料整備室でも調べていただいたが、やはり戦時中の地図は見つからなかった。

↑水島港に隣接する西埠頭駅(廃駅)。この写真の右手に水島航空機製作所の飛行場(第一滑走路)があったとされる。現在は、大小の工場が連なる一帯となっている

 

戦時下、しかも軍需工場ということもあり機密扱いだったせいだろう。三菱重工水島航空機製作所では、爆撃機の一式陸攻、戦闘機の紫電改を生産していた。1945(昭和20)年6月22日に水島空襲があり、工場は全半壊、壊滅状態に陥った。しかし、空襲前に近くの亀島山の地下に巨大な工場を設け、生産機能を疎開させ、航空機の生産を続けようとしていたとされる。空襲および、こうした施設の突貫工事により、多くの尊い命が犠牲になったことが伝えられている。

 

戦争は、いかに壮大な無駄を生み出すものであるかが良く分かる。軍需工場用に造られた専用鉄道だったが、戦後は一転して復興、そして工業地帯の整備に活用された。

↑水島臨海鉄道の港東線の一部は、戦前の資料によると水島にある王島山から土運び用の線路だったとされる。資料にはトロッコと添え書きされているので土砂を運ぶための簡易鉄道線が設けられたことが推測できる。当時、水島港を越える鉄橋も設けられた

 

↑現在の水島駅の西方向にある亀島山(かめじまやま)。山の下に広大な地下工場が設けられた。掘られたトンネルの長さは全長2055mもの距離があったとされる。水島航空機製作所の機器類などが分散疎開された。左上写真は散策路の入口にある案内。現在も地下工場跡が残されるが、通常時は非公開

【水島臨海鉄道の謎②】水島臨海鉄道の創立が新しいのはなぜ?

爆撃によって破壊された三菱重工水島航空機製作所だったが、戦後は飛行機の生産を断念し、自動車の生産を始めた。終戦の翌年、1946年には「三菱・みずしま」の名でオート三輪の製造・販売が行われている。この変わり身の早さには感心させられる。生産には飛行機用の材料や、軍用トラックの製造技術が活かされたとされる。亀島山の地下工場に製作機械などを疎開させたことも役立ったのだろう。工場は戦後の国造りや復興に役立っていたわけである。

 

専用鉄道はどうなったのだろう。戦後の1947(昭和22)年に、まず水島工業都市開発に移管された。さらに1952(昭和27)年、倉敷市交通局に譲渡され、市営鉄道路線となった。1953(昭和28)年には水島臨海工業地帯の建設が始まった。この臨海工業地帯の建設に、同路線が活かされた。

↑1952(昭和27)年、倉敷市営交通局当時の水島本線。蒸気機関車が貨物と客車を連結した混合列車を牽いていた。写真は現在の福井駅の北側、県立倉敷中央高等学校(当時の倉敷青陵高校富井校舎)付近の光景。写真協力:倉敷市総務課 歴史資料整備室(安藤弘志氏寄贈写真)

 

1950年代に撮られた写真には、畑が広がる中、貨車と客車を連ねた混合列車が走る様子が写り込む。主力機関車は、専用鉄道ができた当時に胆振縦貫鉄道(いぶりじゅうかんてつどう/北海道伊達町)から譲渡された1号蒸気機関車だった。1号機関車は路線開業当時から1956(昭和31)年まで使われた。

 

現在の路線を運行させる水島臨海鉄道株式会社は地元倉敷市、および日本国有鉄道(現在はJR貨物)などが出資して1970(昭和45)年2月2日に設立された。同年4月1日に倉敷市交通局から、市営の鉄道線を譲り受け、水島臨海鉄道水島本線などでの列車の運行を始めている。

 

路線が戦前に造られたのにもかかわらず、水島臨海鉄道の設立が、比較的新しいのは、2つの企業および団体の運営を経たためだった。鉄道路線の運営は、倉敷市のみでのは難しく、当時の国鉄に鉄道会社の運営に加わってもらい、今に至るというのが実情だった。

 

 

【水島臨海鉄道の謎③】旅客営業は倉敷市駅〜三菱自工前駅間だが

ここからは現在の水島臨海鉄道を見ていくことにしよう。

 

水島臨海鉄道は貨物輸送を行う一方で、旅客営業を続ける臨海鉄道である。他に、貨物輸送と旅客営業を共存させている臨海鉄道は、茨城県を走る鹿島臨海鉄道しかない。

 

同鉄道は水島臨海工業地帯にある工場のコンテナ輸送を行うとともに、通勤・通学の足として利用されている。この水島臨海鉄道、路線図を見ただけでは、列車がどのように運行されているのか、ちょっと分かり難いところがある。簡単に運行形態について触れておこう。

↑JR倉敷駅(写真左)に隣接する水島臨海鉄道の倉敷市駅。専用の乗換通路は無く、乗車にはJR倉敷駅の南口を出て、右手にある水島臨海鉄道の建物内に入り、専用ホームへ向かうことが必要となる

 

まずは旅客列車の運行に関して見ていこう。旅客列車の起点となるのは、JR倉敷駅に隣接する倉敷市駅。水島本線の路線は、この倉敷市駅と倉敷貨物ターミナル駅間となっているが、乗車できる区間は、倉敷貨物ターミナル駅の手前、三菱自工前駅までだ。

 

倉敷市駅発の旅客列車は三菱自工前駅(距離10.4km)行き、もしくは一つ手前の水島駅行きが運行される。列車は20分〜30分おきが基本だが、11時台や15時台には1時間に1本と列車の本数が少なくなる。

↑水島本線の終点駅となる三菱自工前駅。倉敷市駅発の列車は、多くが三菱自工前駅行きだが、日中の時間帯は水島駅どまりが多い。駅の名前どおり、写真左手に三菱自動車工業の水島製作所がある

 

一方、貨物輸送はどのような運行形態をとっているのだろう。貨物時刻表には、JRの路線から、そして水島臨海鉄道からJR路線への乗り入れる列車の時刻が掲載されている。

 

現在は、1日に3往復がJR山陽本線の岡山貨物ターミナル駅と、水島臨海鉄道港東線(こうとうせん)の東水島駅(貨物専用駅)の間を結ぶ(上り列車の1本は東水島駅発、岡山貨物ターミナル駅経由、東京貨物ターミナル駅行き)。さらに岡山貨物ターミナル駅と倉敷貨物ターミナル駅間を走る貨物列車も1日に1往復、臨時列車扱いで走っている。

 

港東線は水島本線の水島駅から分岐、東水島駅へ向かう貨物専用線。貨物駅の東水島駅は倉敷市の潮通三丁目の、大小の工場や発電所に囲まれた場所にある。

↑東水島駅はコンテナを積み下ろしする貨物専用駅で、水島地区の工場から集めた荷物が全国へ向けて運ばれている。水島には化学工場が多いことから、化学薬品を搭載したタンクコンテナの扱いも多い。写真は小社「貨物列車ナビ」誌取材時のもの

 

↑倉敷貨物ターミナル駅には隣接して水島臨海鉄道の車両基地や整備工場がある。主力のMRT300形に混じってJR久留里線を走ったキハ30形や、キハ37形、そして現在は稼働していないが、キハ20形の姿も見える。なお、倉敷貨物ターミナル駅は、この左手にある

 

一方の倉敷貨物ターミナル駅は三菱自工前駅の800m先にあり、水島臨海鉄道の車両基地、整備工場、運転区に隣接している。倉敷貨物ターミナル駅〜水島駅〜東水島駅を結ぶ水島臨海鉄道内のみを走る貨物列車も運行されている。

 

ちなみに倉敷貨物ターミナル駅という名前から、大規模な貨物駅を想像してしまうのだが、規模は小さめで、今は三菱自動車工業で生産された軽自動車をコンテナへ積み込む業務が主となっている。

【水島臨海鉄道の謎④】元国鉄形車両は、以前どこを走っていたの?

水島臨海鉄道の車両をここで見ていこう。旅客営業には4タイプの車両が使われている。中には元JR東日本を走った貴重な車両も利用されている。

 

◆MRT300形気動車

水島臨海鉄道の主力車両で、現在は6両が在籍する。前後に運転台を持ち、1両での運転が可能だ。そのため、1両で走る日中の列車、連結して2両編成で朝夕の運転に、と活用されている。塗装は水色ベースにひまわりのイラストが入る車両と、クリームホワイトにブルーの濃淡の帯が入る車両が走る。

 

◆キハ37形・キハ38形気動車(元国鉄キハ37形・キハ38形)

↑水島臨海鉄道唯一のキハ38形(手前)とキハ37形の組み合わせ。キハ38形は国鉄標準色と呼ばれる国鉄時代の気動車塗装で塗られている。通常、同色のキハ37形とコンビを組んでいるが、この日は水島臨海鉄道塗装のキハ37形との組み合わせが見られた

 

キハ37形が3両、キハ38形が1両、使われている。キハ37形、キハ38形ともに、以前は房総半島を走るJR久留里線で使われていた車両だ。

 

両車両ともJRになる前の国鉄時代に誕生した車両で、製造車両数はキハ37形が全部で5両、キハ38形が8両と少ない。当時、キハ40系が大量に製造され、全国の非電化区間を走っていた。このキハ40系が、性能過多気味だったため、ローカル線用に性能を控えめに造られたのが両形式だった。

 

JR久留里線で30年近く走り続けたが、新型車が導入されたため、水島臨海鉄道が両形式を譲り受け、2014年5月から運行させている。

 

キハ37形・38形とも片運転台のため、朝夕の2両編成で運行される列車に使われている。この車両を乗ろうとしたならば、朝夕の列車が狙い目だ。

 

◆キハ30形気動車(元国鉄キハ30形)

↑2014年5月、JR久留里線から水島臨海鉄道にやってきた当時のキハ30形。前面が平面的な形状、側面に特異なスタイルの両開きドアが付く。国鉄標準色の車両で今も水島臨海鉄道の人気車両となっている。写真は小社「貨物列車ナビ」誌取材時のもの

 

水島臨海鉄道に1両のみ残るキハ30形。この車両もJR久留里線を走っていた車両だ。キハ37形や、キハ38形よりも誕生した時期は早く、1960年代に生まれ、主に大都市近郊の非電化ローカル線で利用された。車両前面を切り落としたような、いわゆる“切妻タイプ”で、今となっては個性的な顔立ちをしている。水島臨海鉄道で稼働できる車両1両は、鉄道ファン向けイベントなど、特別な催しがある日を中心に走っている。残る元国鉄キハ30形の中で、日本で唯一の現役車両だけに、鉄道ファンの注目度も高い。

 

車両基地にはもう1両のキハ30形が留置されているが、こちらは走ることはなく部品取り用に利用されている。

 

 

【水島臨海鉄道の謎⑤】DE70形とはどんなディーゼル機関車?

貨物輸送用の機関車も在籍、現在2タイプが使われている。

 

◆DE70形式ディーゼル機関車

↑倉敷貨物ターミナル駅構内に到着したDE70形式ディーゼル機関車牽引の貨物列車。DE70形式は車両番号こそ違うが、JR貨物のDE11形式とほぼ同じ性能だ

 

岡山貨物ターミナル駅〜東水島駅間の貨物列車の牽引を行う主力機関車。DE70形式を名乗っているが、国鉄のDE11形式ディーゼル機関車と同形機だ。

 

DE70形式のほか、水島臨海鉄道の路線では、JR貨物のDE10形式も入線している。今も多くが活躍するDE10形式とDE11系ではどのような違いがあるのか確認しておこう。DE10形式とDE11形式の違いは、DE10形式が客車列車用に暖房用の蒸気発生装置を備えていること。DE11形式は、貨物輸送に特化した車両で蒸気発生装置が省略され、装着されていない。

 

ほかDE10形式では2両連結で列車を牽くために、重連総括制御という機能を持ち、前面下部にジャンパ栓が付いている。一方、DE11形式はこの設備を省略している。

 

要は一部の機能は省略しているが、DE10形式とほぼ性能上、変わりがない。さらにDE70形式にはJR西日本の路線、水島臨海鉄道の両路線を走るため用に、保安設備、無線装置などが取り付けられている。定期検査もJR貨物の工場で行う。DE70形式は名乗るものの、JR貨物の車両とほぼ同じと見て良いわけだ。

 

◆DD50形式ディーゼル機関車

↑東水島駅(写真)構内の入換えに、さらに倉敷貨物ターミナル駅間の貨物列車の牽引に活躍するDD50形式ディーゼル機関車。倉敷市交通局当時に導入された機関車だ

 

DE70形式以外に、DD50形式というディーゼル機関車も使われている。DE70形式よりもやや小さめの機関車で、DE70形式が70t機であるのに対して、こちらは50t機であることからDD50形式を名乗っている。導入されたのは倉敷市交通局時代の1960年代のことで、以来、半世紀にわたって活用されている。

 

走るのは主に、倉敷貨物ターミナル駅〜水島駅〜東水島駅間で、さらに駅構内の入換えにも使われている。

【水島臨海鉄道の謎⑥】JR山陽本線との連絡線はどこに?

ここからは水島臨海鉄道の旅を楽しもう。起点となるのは倉敷市駅だ。JR倉敷駅南口を出て、ほぼ隣接する倉敷市駅へ向かう。

 

倉敷市駅はホーム1つ、線路は1線で行き止まり式のシンプルな造りだ。旅客列車は同ホームを使う。一方、貨物列車は、どこからJR山陽本線へ出入りしているのだろう。

↑JR倉敷駅南口に隣接して設けられる水島臨海鉄道の倉敷市駅。駅の建物は3階建てだが、写真でも分かるように、駅施設をのぞき、2階や3階は、自転車の駐輪場となっている

 

この日、乗車したのは主力のMRT300形。朝一番の列車は1両編成だった。MRT300形の車内には、中間部に2人掛けのクロスシートと、車内前後にロングシートが配置されている。

 

朝一番の列車に乗車していたのは定員の1割ぐらい。空いていて快適だったのだが、めったに乗らない路線なのだから、朝7時台の元JR車両で運用される列車を選ぶべきだったな、と悔やむ。

↑倉敷市駅側から水島臨海鉄道の進行方向を眺める。前方のカーブの手前にJR山陽本線からつながる連絡用の線路があることが分かる

 

倉敷市駅6時18分、三菱自工前駅行きの始発列車が静かに走り始めた。進行右手にJR山陽本線の線路が見える。出発してすぐ、JR山陽本線の線路から分かれ、JR伯備線の線路が米子駅方面へ右に大きくカーブしていく。

 

その先に、JR山陽本線から、水島臨海鉄道に合流する線路があった。この線路が岡山貨物ターミナル駅と水島臨海鉄道の間を走る貨物列車が利用する連絡線である。

 

JR山陽本線と1.5kmほど並走した列車は、ほどなくJR線と分かれて走り始める。そして最初の駅、球場前駅に到着する。倉敷市営球場の最寄り駅だ。

 

【水島臨海鉄道の謎⑦】岡山県の駅なのだが駅の名前は福井駅

球場前駅を発車すると、路線は高架上を走り初め、国道429号を越える。しばらく走ると、進行方向、左手から水島本線に近づいてくる高架線がある。すでに線路ははがされているが、ここにはかつて専売公社(現・JT)倉敷工場へ延びていた引込線があった。この路線は工場閉鎖とともに廃止されている。

 

西富井駅の先で、列車は国道2号を越える。しばらく高架上を走った後、福井駅付近から、再び地上を走り始める。

↑福井駅はホーム1つの小さな駅。1989(平成元)年の3月に生まれた、水島臨海鉄道では常盤駅に次ぐ新しい駅だ。同駅付近の古い写真を水島臨海鉄道の歴史紹介スペースで掲載しているが、当時は畑が多く、見通しが良かった駅周辺も、現在は住宅街が取り囲む

 

さて、岡山県にある駅なのに福井駅という駅名である。福井県の福井駅と同じ名前で、読みも全く同じだ。倉敷市福井という場所に駅が造られたことから、福井駅と命名された。駅名の起源に、取り立てて不思議なところはないが、調べてみてちょっと興味深いことがあった。

 

岡山県内の市町には、福井という地名が多いのである。この倉敷市のほか、高梁市、総社市、真庭市、津山市に「福井」という地名があった。「福が居る」が福井となった、または「福の井戸」が転じて福井となったなど、福井の地名は起源がいろいろあるが、とにかく縁起の良い地名なのだろう。

【水島臨海鉄道の謎⑧】沿線を彩る地元野菜は何だろう?

福井駅から浦田駅、そして浦田駅の先まで地上部分を走る。このあたりが、倉敷と水島の地域の境となる。路線の左右には連島(つらじま)山塊と呼ばれる標高の低い山が連なる。この山塊があることで、地元の人に言わせると、倉敷の市街地と、水島では気候が少し異なるそうだ。

 

沿線には住宅地点在する一方で、畑が広がる。訪れた時期には、ちょうど緑の葉が色づき、取り入れの真っ最中だった。この畑では倉敷特産の「連島(つらじま)ごぼう」を生産しているのだそうだ。

↑浦田駅〜弥生駅間を走るDE70牽引の貨物列車。植えられていたのは倉敷名産の連島ごぼう。緑の畑を左右に見ながら走る(写真は連島ごぼうの耕作者に許可を得て撮影)

 

連島ごぼうは農林水産省GIマーク取得農水産品で、岡山県の産品では初登録された。いわば、お国からのお墨付き産品というわけだ。連島ごぼうは、この地域でしか採れない。こうした産品の栽培を守るとともに、伝統的な食文化の継承をしていこうという取り組みが連島ごぼうを通して行われている。

 

ちなみに連島ごぼう、特徴は肌が白くアクが少ない、そして柔らかく甘味が強いとされる。秋に種をまいて、7〜10月に収穫するのが一般的。ほぼ1年がかりで生産されるそうで、何とも手間がかかる貴重な農産物なのである。

 

 

【水島臨海鉄道の謎⑨】水島駅前のバスターミナルの不思議

寄り道してしまったが、旅を続けよう。ごぼう畑を眺めつつ走ると、再び高架路線を走り始める。このあたりから水島の市街地へ入る。水島は三菱重工水島航空機製作所を誘致するにあたって、大規模な区画整理が行われた。

 

次の水島臨海鉄道の弥生駅から、栄駅(さかええき)、常盤駅(ときわえき)、水島駅にかけて、約2kmにわたり、ほぼ一直線に線路が延びている。この線路に沿うように道路も平行にしかれ、また直角に交わる道路が整備された。町内の道路はほぼ碁盤の目状になっている。そしてこの地域に、戦前は工場に勤める人たち向けに社宅が造られ、学校などが設けられた。

↑水島駅の目の前には大きなバスターミナルが設けられている。整備されてはいるものの、現在は、ほぼ使われていない。病院や介護施設などの公共施設も駅近くに複数が建ち並ぶが、やや寂しさが感じられる駅前風景だった

 

今もその名残が残る。街並みは栄駅、常盤駅周辺がより賑やかだ。倉敷市役所の水島支所も栄駅近くにある。

 

一方で、高架上を走る列車からは街の様子が良く見えるが、繁華街や駅近くに閉鎖され、今は使われていない様子の雑居ビルや、さら地化された土地が点在する。常盤駅の一つ先の水島駅付近は、歩行者もあまり見かけなかった。広々したバスターミナルも使われておらず、寂寥感が感じられた。

 

水島支所内の人口の推移を見ると2002(平成14)年から2019年まで各年の4月の人口を見ると、9万人前後でほぼ横ばいとなっている。また倉敷市全体の人口は2002年当時43万7288人だったのに対して、令和元年には48万2250人まで増えている。にもかかわらず、筆者が以前訪れた5年前よりも人通りが少なくなり、街の賑わいが薄れているように感じた。

↑水島駅〜三菱自工前駅間で水島港を見て走る(写真右手)。水島港には海上保安庁の巡視船や、中小の貨物船が多く停泊していた。港に旅客待合所も設けられるが、現在、瀬戸内海の島々などへの定期船は出ていない。そのため待合所はひっそりとしていた

 

ひと気が感じられなかった要因として考えられるのは、基幹産業となる三菱自動車工業の不調があるかも知れない。また水島臨海工業地帯にある工場へ通う人たちも、鉄道よりも、クルマを利用して動く人が増えていることも原因としてあるのだろう。クルマでの移動が主となれば、駅周辺は必然的に寂れていく。

【水島臨海鉄道の謎⑩】水島港方面へ向かう廃線跡は何だろう?

水島駅の先、路線は2手に分かれる。左側は貨物専用線の港東線で、この先、東水島駅へ向かう。右にカーブする側が三菱自工前駅方面だ。水島駅の先まで高架線が続き、車窓からは進行左手に水島港が見える。

 

筆者が乗車した列車は朝一番ということもあって三菱自工前駅行きだった。ただ、早朝の到着のため、終点まで乗車した乗客は、ほんの数人だった。起点の倉敷市駅からは所要27分で到着した。運賃は片道350円だった。

↑三菱自工前駅近くの臨港第一踏切を列車が通過する。目の前に三菱自動車工業水島製作所の通用門があり、新車が連なる様子が見られた。新車はこの門から水島港の埠頭へ自走し、船などを使って輸送される。右上写真は同踏切近くにある西埠頭線(廃線)の路線跡

 

三菱自工前駅に降りて、駅周辺をぶらぶらする。まずは東側、水島港方面から。

 

臨港第一踏切の手前に、かつて分岐ポイントがあり、路線が走っていた形跡が残る。道を越えて線路が一部、残っているが、これが三菱自工前駅から水島港に隣接する西埠頭駅まで延びていた西埠頭線(0.8km)の跡だ。この路線は正式には2016年7月15日に廃線となった(実際にはこの数年前から休止状態だった)が、今も線路が一部分、敷かれたままとなっている。

↑ホーム一つの三菱自工前駅。道をはさんだ北側に三菱自動車工業の水島製作所の工場が広がる。駅の利用者はそれほど多くないが、写真を撮ったこの日は、ちょうど車両基地の公開日だったため、同駅を利用する人が目立った

 

三菱自工前駅の西側へ線路がまっすぐ延びている。前述したように、駅の800m先に倉敷貨物ターミナル駅がある。貨物ターミナル駅に隣接して車両基地や整備工場があり、平行する通り沿いからも基地内の車両を眺めることができる。

 

三菱自工前駅に到着した旅客列車は、一部の列車がすぐに折り返す。また整備や乗務員交代のため、同基地へ入ってくる列車もある。貨物列車の出入りも目にすることができる。ちなみに、車両基地の先にも工場内へ入っていく線路が延びている。この線路はJFEスチール西日本製鉄所内まで敷かれていた引込線で、現在は使われていない。

 

各地のローカル線を乗り歩いて、気付かされることだが、水島臨海鉄道の沿線でも複数の路線が廃線となり、駅周辺ではかつての賑わいが薄れている様子が見受けられた。社会が高齢化とともに、地方では若い世代の流出が止まらない。伴う地方経済の疲弊と、弱体化……。ローカル線の旅を楽しみつつも、簡単に片付けられない現実がかいま見られ、寂しい気持ちにさせられた。

 

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