【養老鉄道の謎⑩】なぜ揖斐駅までの盲腸線が造られたのだろう?
さて養老線の大垣駅から終点の揖斐駅へ向けての旅を続けよう。
大垣駅からは前述したように、スイッチバックの構造となっている並走区間を戻るように走る。最初の駅は室駅。室とかいて「むろ」と読ませる。ちなみに1972(昭和47)年までは、桑名方面への線路上に、新室駅という駅があった。
新室駅と室駅が隣接していたこともあり、その当時は、大垣駅まで行かなくとも、両駅を使えば桑名行、揖斐行電車の乗換が可能だった。
室駅を発車した電車は大きく右にカーブ、間もなくJR東海道本線をくぐり抜ける。そして大垣の住宅地が広がる一帯を左右に見ながら進む。
大垣駅から3つめの東赤坂駅。この駅付近から左右に水田が広がりはじめる。ちなみに東赤坂駅の南側を通るのが旧中山道だ。この道を西にいけば旧中山道の宿場町、赤坂宿がある。
神戸町(ごうどちょう)、池田町と、大垣市郊外の水田地帯や町並みを見ながら24分で終点の揖斐駅へ到着した。この先に線路はもうない。
養老線は揖斐駅で行き止まり。先に線路が無く、接続する路線もないいわゆる盲腸線となっている。なぜ、養老線は揖斐駅まで路線が敷かれたのだろうか。そこには創業者たちの遠大な計画が隠されていた。
揖斐駅から先は建設されなかったものの、当初、南は桑名駅から四日市まで路線を延ばし、北は福井県の敦賀を結ぶ路線計画が立てられていた。貨物輸送により太平洋側と日本海側を結ぼうとしたわけである。岐阜県内のローカル線には、実はこうした日本海側を目指した路線が複数ある。大垣駅を起点とした樽見鉄道、そして国鉄の越美南線(現・長良川鉄道)。結局のところ、それらの路線は“夢物語”にみな終わってしまったものの、先人たちの夢はなんとスケールが大きかったことだろう。
現在は、通勤・通学に活用される養老線ながら、大正期の鉄道人たちのロマンが感じられ、何とも大らかな気持ちにさせられた。
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