【堤 康次郎の生涯④】鉄道は土地開発の補助事業と割り切っていた
堤康次郎が箱根土地を設立した当初から鉄道事業に興味を持っていたわけではない。どのように鉄道事業に関わっていったのだろうか。箱根土地が傘下に収めていった鉄道会社、設立した鉄道会社の事業を時系列で見ていきたい。
◆1923(大正12)年:駿豆鉄道(静岡県)を傘下に
最初に関わりを持ったのは駿豆鉄道(すんずてつどう)だった。現在の伊豆箱根鉄道駿豆線(すんずせん)である。路線は東海道本線の三島駅と修禅寺駅の間を結ぶ。
◆1928(昭和3)年:多摩湖鉄道が国分寺駅〜萩山駅間を開業
多摩湖鉄道(現・西武多摩湖線)とは箱根土地の子会社で、箱根土地が関わる初の新設路線だった。また東京の近郊で初めて設けた路線でもあった。
◆1933(昭和8)年:大雄山鉄道(神奈川県)を傘下に
大雄山鉄道とは、現在の伊豆箱根鉄道大雄山線のことで小田原駅〜大雄山駅間を走る。この年に箱根土地の経営となり、1941年、駿豆鉄道に吸収合併され伊豆箱根鉄道と改称された。
堤康次郎は自叙伝で「土地の開発と関連して重要なのは交通機関である」と述べている。土地の価値を高めるためにも交通機関の整備に気を配った。とはいえ、交通機関とは鉄道だけでなく、道路整備なども含む。例えば箱根の土地の価値を高めるために、箱根周辺の有料道路を整備したが、事業は傘下に収めた駿豆鉄道の名で進めている。
鉄道事業への参入はあくまで土地開発の補助的な位置づけだったことが、この時代の康次郎の動きから感じられる。
しかし、昭和初期から太平洋戦争の前後に渡って鉄道事業への参入を強めていく。駿豆鉄道を傘下にしたことや、多摩湖鉄道の開業は序章に過ぎなかった。
1923(大正12)年9月1日に起った関東大震災の影響も大きかった。震災前までは東京の人たちの住まいといえば東京の中心部、もしくは下町がメインとなっていた。震災後はより安全だと思われる山手へ目が向くようになっていった。康次郎はそうした流れを読み、次々に手を打っていったのである。また郊外での暮らしがモダンといった風潮もそうした動きを後押しした。
一方で、関東大震災の後には不況が世の中を襲った。加えて世界恐慌と呼ばれる不況の波にさまざまな業種が巻き込まれていく。既存の鉄道路線も、こうした不況の波にのまれていった。
【堤 康次郎の生涯⑤】武蔵野鉄道を傘下に収めさらに……
昭和初期の東京の北西部には2社の鉄道路線があり、激しい争いを繰り広げていた。
池袋駅〜吾野(あがの)駅間に路線を持つ武蔵野鉄道(現・西武池袋線)。一方は国分寺駅〜本川越駅間を結ぶ川越線(現・国分寺線と西武新宿線)と、高田馬場駅〜東村山駅間を結ぶ村山線(現・西武新宿線)の路線を持つ西武鉄道(現在の西武鉄道とは会社組織が異なり、旧・西武鉄道という位置づけ)である。
筆者の手元に両社の昭和初期の路線絵葉書と路線図がある。武蔵野鉄道、旧・西武鉄道は所沢駅で、お互いの路線と接続しているのだが、他社の路線は、まるでないかのように線すら記されていない。ライバルとはいえ、ここまで他社線を無視する姿勢もすごい。
互いをライバル視する動きは、当時の行楽地であった村山貯水池への路線造りにも現れている。武蔵野鉄道は、1929(昭和4)年5月1日に村山公園駅(現・西武球場前駅)を開業、さらに1933(昭和8)年3月1日に村山貯水池際駅と名を改めた。
箱根土地の子会社、多摩湖鉄道は1930(昭和5)年1月23日に貯水池近くの駅、村山貯水池駅(現・西武遊園地駅の近くに設けた旧駅)を開業させた。旧・西武鉄道は同年の4月5日に村山貯水池前駅(現・西武園駅)を開業した。
利用者にとって、村山貯水池周辺に似通った名前の駅が3つも生まれたわけで、さぞかし迷ったことだろう。