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2020/5/10 18:50

西武王国を築いた「堤 康次郎」−−時代の変化を巧みに利用した男の生涯

【堤 康次郎の生涯⑧】戦後から高度成長期までの西武電車の実情

堤 康次郎の鉄道事業は長短はっきりしていた。筆者は西武沿線で生まれ、育ったこともあり、少年期に当時の西武鉄道の車両を数多く撮影していた。

 

康次郎が生きていた時代に新造された車両を中心に、その様子を振り返ってみよう。当時の西武鉄道には康次郎の哲学が生きていた。車両造りは明確に節約思考が感じられた。その一例が、国鉄の戦災車両や、事故車両、木造車両を利用したこと。これらの“訳あり車両”を大量に購入して、自社の所沢車両工場(現在は廃止)で再生、鋼体化して走らせた。

↑西武園線を走る国鉄の払下げ車両。昭和40年代までは、旧国鉄車両が大量に走っていた

 

太平洋戦争後の西武鉄道の車両といえば、多くが旧武蔵野鉄道、旧西武鉄道が戦前に造った車両と、国鉄の払下げ車両でまかなわれていた。戦後に初めて1954(昭和29)年に新造したのが351系(当初は501系)で、この車両にしても当時、すでに古くなりつつある吊り掛け駆動を採用し、乗り心地は二の次という台車が使われていた。

 

その後に501系という同社としては高性能な車両が導入されたが、増える乗客に対応するために、2M4T(Mは駆動車、Tは付随車)という異色の編成を組んで対応した。そして1963(昭和38)年には私鉄初の10両編成という列車も走らせている。時代は高度成長期で、質より量で増える乗客に対応したのである。乗り心地よりも輸送力を重視した車両造りにも、康次郎の考えが見えてくる。

↑国分寺線を走る351系。西武鉄道が戦後、始めて新造した車両だが、鉄道ファンからは「見せかけ新車」と呼ばれた

 

↑351系の後に生まれた501系。写真の編成は4両だが、左上の写真のようにドアの形が異なる2M4Tの6両編成の車両も走っていた

 

↑近代的なスタイルをした701系。堤康次郎の晩年1963(昭和38)年に誕生した。先頭のクハ車は国鉄の払下げした台車を改造して使用

 

 

【堤 康次郎の生涯⑨】亡き後の西武鉄道は時代の変革に乗りきれず

堤 康次郎は経営者として西武鉄道をまとめるとともに、総選挙に13回出馬し、当選を果たした。そして長年、政治家としても活躍した。1964(昭和39)年4月24日、東京駅の構内で倒れ緊急入院、26日に心筋梗塞で死去した。享年75。

 

二男の清二氏が西武百貨店などの流通部門を引き継いだ。また箱根土地を改称したコクドはすでに三男の義明氏に引き継がれていた。コクドは西武鉄道グループの不動産会社で、西武鉄道の親会社にもあたる。

 

↑西武鉄道初の高性能車とされる101系。1969(昭和44)年に西武秩父線の開業に合わせて新造された。今も改良型の新101系が走り続ける

 

西武の主要な会社は子息に引き継がれたものの、康次郎の遺訓もあり、しばらくは新たな動きを始めようとしなかった。

 

清二氏、義明氏とも一定の期間をおいたその後、活発に動き始める。まず西武百貨店は池袋店と隣接する東京丸物の撤退に合わせて資本参加し、ファッションビル・パルコ1号店が開店させる。その後、堤清二氏はセゾングループを築いていった。

 

一方、コクドを引き継いだ堤義明氏はプリンスホテルを全国に展開、スキー場を中心としたリゾート造りに専念した。

↑コクドは各地でスキー場を中心にしたリゾート地開発を行っていった。写真は苗場スキー場

 

両グループとも長年にわたり繁栄を続けてきた。ところが、時代は変化していった。その変化に足並みを揃えていくことが次第に困難になっていく。

 

まず堤 清二氏が率いるセゾングループがバブル崩壊の影響を受けた。金融機関からの借入金で運営するスタイルが破綻を招き、清二氏は1991年にグループ代表を辞任した。

 

一方、堤 義明氏が率いるコクドも時代の波に呑まれていく。スキー場を核としたリゾート造りが2000年を境に曲がり角を迎えた。借入金により造ったリゾートホテル、施設などの経営が成り立たなくなっていき、鉄道事業もその大きな影響を受けた。

 

そうした最中の2004年には総会屋に利益供与、さらに有価証券報告書の虚偽記載が問題視され、義明氏はコクド、西武鉄道などの役職から去る。さらに翌年には証券取引法違反の疑いで逮捕されてしまう。執行猶予付の実刑判決を受けた後、西武と義明氏との資本関係は消滅し、西武グループと堤一族との縁が切れる。

 

父の康次郎が残した借入金により事業を広げる会社経営の手法、そしてカリスマ経営者によるワンマン経営は、2人の子どもたちにそのまま引き継がれた。会社が上手く動いているうちは、非常に上手く機能する手法といえよう。だが、時代は常に動いている。その動きを客観的に見極め、修正していく能力が結果のみを見れば欠けていた。助言できる部下もいなかったし、2人とも求めようとしなかった。

 

企業経営は1人の経営者のみに長年、委ねていると、時に失敗に直面すると乗り越えられないことがある。堤康次郎と2人の子息の生涯を見ると「盛者必衰」。そうした世の習いを如実に示しているようである。

 

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