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2020/10/10 18:30

信州松本を走る「上高地線」‐‐巡って見つけた10の再発見

【上高地線で再発見⑤】新村車庫にある古い電気機関車は?

信濃荒井駅まで沿線には住宅が多かったものの、この先、田畑が増えてくる。田畑では信州らしくそば畑が多い。筆者が訪れた9月末には白い花咲く光景をあちこちで見ることができた。

 

路線は住宅街を抜けたこともあり直線路が続くようになる。大庭駅を過ぎ、長野自動車道をくぐると、右手から路線に沿う道が見えてくる。こちらが国道158号で、この先で、ほぼ上高地線と並行に走るようになるが、その模様は後で。次の下新駅(しもにいえき)は旧・新村(にいむら)の駅で、「新」を「にい」と読ませるのはその名残だ。

 

次が北新・松本大学前駅。この北新も「きたにい」と読ませる。平日ならば、大学前にある駅だけに学生の乗り降りが目立つ。

↑ED301電気機関車は米国製で、信濃鉄道(現・大糸線)の電気機関車として導入された。信州に縁の深い機関車である

 

次の新村駅(にいむらえき)は鉄道ファンならばぜひ下りておきたい駅だ。この駅に併設して新村車庫がある。

 

車庫内で気になるのが焦げ茶色の凸形電気機関車。1926(大正15)年にアメリカで製造された。米ボールドウィン・ロコモティブ・ワークスが機械部分を造り、ウェスティングハウス・エレクトリック社が電気部分を担当した機関車で、松本電気鉄道ではED30形ED301電気機関車とされた。この機関車の履歴が興味深い。

 

松本駅と信濃大町駅を結んでいた信濃鉄道(現・JR大糸線)が輸入した1形電気機関車3両のうち1両。1937(昭和12)年に国有化された後には国鉄ED22形と改番されて大糸線、飯田線を走った。その時の国鉄ED22 3号機が後に西武鉄道を経由して1960(昭和35)年に松本電気鉄道へ入線していたのだ。その後、工事および除雪用に使われたが、2005(平成17)年に除籍、現在は保存車両として車庫内に残る。

 

なお国鉄ED22形は長寿な車両で、弘南鉄道大鰐線に引き取られたED22 1は今も社籍があり、除雪用として使われている。技術不足から電気機関車の国産化が難しかった時代の機関車で、その後の国産化された電気機関車も、ウェスティングハウス・エレクトリック社のシステムを参考にしている。そんな時代の電気機関車が、まだこうしてきれいな姿で残っているわけである。

 

余談ながらJR大糸線は、昭和初期までは信濃鉄道という鉄道会社が運営していた。現在、長野県内の旧信越本線はしなの鉄道が運行している。しなの鉄道には、しなのを漢字で書いた信濃鉄道という、先代の会社があったことに改めて気付かされた。

 

【上高地線で再発見⑥】新村車庫で保存されていた元東急電車は?

新村車庫で古参電気機関車とともに、ファンの注目を集めていたのが5000形。現在の3000形の前に上高地線の主力だった車両だ。前述したように東急5000系で、新村車庫には5005-5006編成の2両が保存されていた。2011(平成23)年には松本電鉄カラーから緑一色に塗りかえられ、イベント開催時などに車内の公開も行われていた。

↑新村車庫内に留め置かれていた5000形。2011年に塗り替えられたが、2017年の撮影時にはすでに塗装が退色しはじめていた

 

久々に新村車庫を訪れた筆者は、ほぼ5000形の定位置だったところにED301形電気機関車と事業用車が置かれていたことに驚いた。そして車庫のどこを見ても、緑色の2両がいない。どこへいったのだろう。まさか解体?

 

心配して調べたら2020年春に「電鉄文化保存会」という愛好者の団体に引き取られていた。同保存会は群馬県の赤城高原で東急デハ3450型3499号車の保存を行う団体で、この車両に加えて上高地線の5000形2両を赤城高原に搬入。会員は手弁当持参で、鉄道車両の整備や保存活動にあたっている。

 

こうした団体に引き取られた車両は、ある意味、幸運と言えるだろう。末長く愛され、赤城の地で保存されることを願いたい。

 

【上高地線で再発見⑦】渕東駅と書いて何と読む?

新村駅から先の旅を続けよう。新村駅から次の三溝駅(さみぞえき)へ向かう途中、右手から道が近づいてくる。この道が先にも少し触れた国道158号。路線はこの先、付かず離れず、道路と並行して走る。国道158号の起点は福井市で、岐阜県の高山市を経て、松本市へ至る総延長330.6kmの一般国道だ。一部が野麦街道と呼ばれる道で、明治期には製糸工場に向けて女性たちが歩いた隘路で、飛騨山脈を越える険しい道だ。岐阜県と長野県の県境を越える安房峠(あぼうとうげ)の下に安房トンネルが開通したことにより、冬期も通れるようになっているが、古くは行き倒れる人もかなりいたとされる。

 

そうした国道を横に見ながら森口駅、下島駅と走るうちに、この地の典型的な地形に出会うようになる。右手、眼下に流れる梓川。その河畔よりも、電車は一段、高い位置を走り始めていることが分かる。波田駅(はたえき)付近は、そうした階段状の地形がよくわかる地点で、明らかに河岸段丘の上を走り始めたことが分かる。この波田駅は梓川が流れる付近から数えると2つめの崖上(段丘面)にある。そして次の駅までは河岸段丘を1段下り、梓川の対岸まで望める地域へ出る。

 

ちなみに上高地線の進行方向の左手、南側には段丘崖(だんきゅうがい)が連なり、この上はまた平坦な地形(段丘面)となっている。

↑渕東駅の裏手から駅を望む。先に山が見えるが、ここが河岸段丘の崖地になっていて、上部にまた平野部が広がっている

 

↑渕東駅前に広がる水田。稲刈りが終わり信州は晩秋の気配がただよっていた。藁は島立てという立て方で乾燥させ利用する

 

さて渕東駅である。「渕」そして「東」と書いて何と読むのだろう。何もヒントなしに回答できたらなかなかの鉄道通? 筆者は残念ながら読めなかった。

 

「渕」は訓読みならば「ふち」と読む。この「ふち」のイメージが強く、駅名が思い付かなかったのだが、音読みならば? 「渕」は「えん」と読む。なるほど、だから渕東と書いて「えんどう」と読むのか。理由を聞いてしまうと理解できるのだが、日本語は難しいと実感する。

↑渕東駅前には赤く実ったリンゴの木もあった。元井の頭線の電車が走る目の前に赤く色づくリンゴの実る風景が逆に新鮮に感じられた

 

ちなみに駅名標には上高地線のイメージキャラクターが描かれる。イメージキャラクターは「渕東なぎさ」だそうだ。渕東駅と渚駅が組み合わさったキャラクターなのである。

 

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