〜〜横浜・日本郵船歴史博物館で開催中の企画展「貨物船」〜〜
横浜といえば、山下公園に氷川丸、中華街にマリンタワー。横浜の日本郵船歴史博物館で10月17日から興味深い企画展が始まっている。開かれている企画展のタイトルは「1960年竣工 高度経済成長期を支えた貨物船」。乗り物全般が大好きな筆者は、“貨物船”というテーマに興味を持った。催し前に一部、情報と写真を提供していただいた。その一部をお届けしよう。
そこには復興する経済の中で大きく変っていった世の中と、海運業界の栄光と多くの犠牲を払った過去、そして現在へ至る変化が見えてきたのである。
*写真:日本郵船歴史博物館提供、絵葉書は筆者所蔵・写真一部は筆者撮影
【はじめに】輸出入品の99%を海上輸送に頼っている現実
はじめに、日本の貿易量のうち、海上輸送の割合がどのぐらいなのか見ておこう。物流団体、海事関係の団体の調査を見ると、数字に多少のばらつきはあるものの、海上輸送が占める割合は99.6%、航空輸送は0.4%。金額ベースでこそ、航空輸送の占める割合は約3分の1になるものの、国際物流の世界では、圧倒的に海上輸送の割合が高いことが分かった。
つまり私たちの暮らしには、海上輸送こそ生命線そのものであることが分かる。しかし、意外に船の輸送を知らないというのも事実だ。そこで今回は、日本郵船歴史博物館が開催している企画展を元に、海上輸送とその歴史を見ていくことにしたい。なお、企画展の開催日程および開催概要は次の通りだ。
■企画展「1960竣工 高度経済成長期を支えた貨物船」
開催日程 | 2020年10月17日〜2021年1月17日 |
会場 | 日本郵船歴史博物館企画展示室(横浜市中区海岸通3-9) |
開館時間 | 10〜17時(最終入館16時30分) |
休館日 | 月曜(祝日の場合は翌平日) 臨時休館日:12/28〜1/4休 |
入館料 | 400円 ※日本郵船氷川丸とのセット券あり(500円) |
交通 | みなとみらい線・馬車道駅6番出口から徒歩約2分 |
【貨物船再発見①】日本郵船創業期の貨物船に迫ってみる
今回は日本郵船という船会社を通して、船の歴史を見ていくことにしたい。日本郵船は海運会社として日本一の規模を誇り、また世界でも最大手の一つである。歴史は古い。会社の創業は1885(明治18)年の9月29日のこと。その前にも礎となった歴史がある。念のため触れておこう。
まずは1870(明治3)年に九十九商会という会社が造られた。その後に三菱商会へつながる企業である。この会社は土佐藩首脳の海運業商社を元にしている。さらに元をたどれば坂本龍馬が生み出した海援隊だった。海援隊の影響を受けた土佐藩出身の岩崎弥太郎により九十九商会が創業されて、ちょうど今年で150年にあたる。1875(明治8)には会社の名前を郵便汽船三菱会社へ変更した。
この会社は三井系国策会社だった共同運輸会社と激しい競争を繰り広げ、値引き競争と荷主の争奪戦を行った。これを案じた政府が仲介、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併することに。そうして誕生したのが日本郵船会社だった。1885(明治18)年のことである。さらに1893(明治26)年には日本郵船株式会社となった。このあたりの経緯は日本郵船歴史博物館で常設展示されている。興味がある方は見ていただきたい。
ここで会社創業期の船を見ておこう。
◇横濱丸
まずは「横濱丸」。岩崎弥太郎が率いた三菱商会が英国に発注した貨客船で、総トン数2305トン、速力13.0ノット、最高出力2600馬力、建造は英国・ロンドン&グラスゴーエンジニアリング&アイアン社で、1884(明治17)年3月に竣工した。
竣工した年に明治天皇の御召船となり、その後には横浜上海航路の定期船として活躍した。1910(明治43)年に売却されている。
◇山城丸
こちらは共同運輸会社が発注した船。横濱丸と同じく英国で造られた。総トン数2528トン、速力13.0ノット、最高出力2200馬力、建造は英国・アームストロング・ミッチェル社で、1884(明治17)年5月に竣工した。
日本からハワイへの移民団を乗せたほか、明治29(1896)年には豪州航路の初の便に使われた。横濱丸と同じく1910(明治43)年に売却されている。
日本に海運会社が誕生したころ、わが国には造船する能力がまだなく、導入した船はみな海外へ発注したもの。当時、わが国が導入した船は、多くが英国の造船所で造られていた。その後、1897(明治30)年の中ごろになって、国内の造船所も次第に造船技術を高めていき、徐々に国産の船も導入されていくようになる。
ちなみに船には煙突部分に会社のマークを付ける習慣がある。これをファンネルマークと呼ぶが、日本郵船のファンネルマークは白地に2本の赤線が入る。「二引(にびき)」と呼ばれるマークで、創業時に2社が対等に合併したということを表している。
こうして勃興期を迎えた日本の海運業。四方を海で囲まれる日本ならでは、国際航路が次々に開設され、興隆期を迎える。
【貨物船再発見②】華やかな昭和初期までの外航船を振り返る
興隆期の模様は、現在も残る港や船の絵葉書を中心に見ていきたい。日本三大港と言えば、横浜港、神戸港、そして門司港である。
横浜港は東京、神戸港は大阪という互いに大都市の近くにあり、また門司港は筑豊炭田に近い港ということで栄えた。当時は、貨物だけでなく、旅客も船以外の海外への交通手段がなかったこともあり、国際港イコール日本の玄関口だった。現在で言えば、羽田空港や、成田空港、中部国際空港、関西空港と同じだったわけだ。下記は、そんな華やかだった大正初期の横浜桟橋の絵葉書だ。
横浜には鉄桟橋と呼ばれた大さん橋が1894(明治27)年に竣工、さらに1917(大正6)年には現在のみなとみらい地区に新港埠頭も誕生している。また1911(明治44)年には赤レンガ倉庫も完成した。
もう一枚の絵葉書は日本三大港の一つ、神戸港の様子。神戸は開港後、次第に整備されていき、東洋最大の港とされた。特に世界四大海運市場として、ロンドン、ニューヨーク、ハンブルクと並び、世界的にも知られる港となった。
絵葉書は昭和初期と思われるもので、多くの客船、貨客船が接岸し、港は活況に満ちている。貨物の積み下ろし、および旅客利用者でさぞや神戸港は、賑わったことが想像される。
さて一般の人たちが客船、もしくは貨客船に乗る機会は、今の海外へジェット機で行くよりも数10倍も難しいことだったと想像される。非常に時間もかかった。たとえば1935(昭和10)年発行の時刻表により、日本郵船の横浜〜バンクーバー・シアトル間を氷川丸で渡った場合を調べてみると。
3月26日に横浜港をたち、バンクーバーには4月6日、シアトルには4月7日に着いている。太平洋を渡るのに11日を要していたのだ。それも頻繁に便が出港するわけでなく、1か月にせいぜい1〜2本で、他社の船便も似たり寄ったりの本数だった。
運賃は、氷川丸の3等船室で60ドル。円換算では171円43銭。当時の大学出の初任給が月給73円とされているので、73円=20万円とすると、今の47万円ぐらいにあたるだろうか。1等船室ともなると250ドルで、現在のお金に換算すると196万円以上になる。
ちなみに現在の正規の航空運賃は成田空港〜バンクーバー間がエコノミークラスで15万円〜53万円、ビジネスクラスで39万円〜86万円と、それほど差がないと感じる(正規料金が旅する人は少ないだろうが)。とはいえ、当時の国民所得は現在の6分の1以下と貧しかった。大卒はエリートだったわけで、庶民はそれほどの所得がなかったわけである。船便の場合に運賃に加えて、食事代なども必要になるわけで、庶民にはかなり縁遠い旅行だった。
そうした貴重な旅、しかも船内に滞在する時間も長かったこともあり、船で配られる絵葉書はお土産として持ち帰る人が、国内、海外ともに目立った。そんな船の絵葉書が多く残っている。
日本の浮世絵が海外からの旅行者から喜ばれる一方、船内で過ごす様子が絵葉書として残っている。スーツを着込み、デッキでゲームに興ずる姿。その光景を見ると海外旅行は、まだごく一部のセレブの旅という印象が強く感じられる。何しろ、この時代、日本では和装というのが一般的だったのだから。
【貨物船再発見③】戦時中、壊滅的な被害を受けた日本の商船
昭和初期、高額だったにかかわらず、国際航路を利用する人が増え、日本郵船では1936(昭和11)年に世界一周線といった航路も創設している。遠洋航路網がピークを迎えた年代だった。ところが。
1939(昭和14)年に欧州で第二次世界大戦が勃発したことから、遠洋航路網は急速にしぼんでしまう。定期航路は休止に追い込まれ、さらに戦禍に巻き込まれる船も出るようになった。さらに日本は1941(昭和16)年、太平洋戦争への道を歩む。日本郵船の船も多くが陸海軍に徴用され、輸送船、一部は軍艦に改造された。
太平洋戦争中は多くの商船が軍事物資や兵員の輸送に使われた。しかし、無防備の商船ゆえ、敵から狙われたら防ぎようがない。そして多く船が犠牲となった。日本郵船では計185隻113万トンを失った。沈没を免れたのはわずかに37隻といったことに。特に1万トン以上の大型船の損害は甚大で、無事に残ったのは特設病院船となった氷川丸のみという惨状だった。日本郵船の海上社員も5157人が犠牲となっている。
上の絵葉書は1930(昭和5)年に竣工した照国丸のもの。欧州航路向けの客船で、日本とロンドンを結んだほか、ロンドンからアントワープ、ロッテルダム、ハンブルクを巡るクルーズ航海も行い、好評を得た。1939(昭和14)年11月、第二次世界大戦が始まって2か月あまり、英国テムズ河口を航行中に機雷に触れて沈没。日本の商船として第二次世界大戦初の犠牲となった。さらに日本が参戦する前に犠牲となった唯一の船だった。
【貨物船再発見④】占領下は船を作るのにも規制がかかった
太平洋戦争後、船自体を失った痛手が大きかった。さらに新造船を造るにしても、占領軍当局から規制がかかった。5000総トン以上、15ノット以上の船舶建造禁止、保有船舶量も鋼船150万総トンまでとされた。
日本郵船が終戦後の1948(昭和23)年に造った最初の船は「舞子丸」で、総トン数1035トンだった。創業時ですら2000トン以上の船を用意しているのだから、想像しにくい。同船は小さく、外洋航海には向かなかったせいか1954(昭和29)年に、早くも売却されている。
四方を海に囲まれた日本にとっては、船を持てないというのは死活問題だった。占領軍もさすがに現状を見かねたのか、1950(昭和25)年に占領軍の統制がとかれる。1951(昭和26)年には総トン数6724トンという平安丸が竣工、ニューヨーク航路に就航、1953(昭和28)年7月には氷川丸も貨客船としてシアトルへの定期航路に復帰した。さらに日本の造船業が復興されていく。その後には世界を代表する造船王国となっていったが、耐えていたものが一気に花を咲かせていったのだった。
【貨物船再発見⑤】1960年に竣工した代表的な船を見る
さて前降りが長くなったが、今回の企画展、1960(昭和35)年に竣工した貨物船に関して触れてみたい。
1960(昭和35)年という年はどのような年だったのだろうか。政治では池田勇人内閣が誕生し、「国民所得倍増計画」を打ち出した。ここから高度経済成長への道がスタートしたわけだ。この年にアメリカと「日米新安保条約」を調印している。人口は1億人に達しない9341万8501人で、5年前に比べて414万人増加した。
一方、三井三池炭鉱争議が起き、石炭から石油へのエネルギー転換の真っ盛りだった。安保闘争も激化していた。世情は多少の混乱はあったものの、政治主導の成長経済へ変わりつつあり、日本経済の飛躍を遂げつつある時代だった。そんな時代に造られた船舶はどのような特徴を持っていたのだろうか。
1960年という年は船にとって大きな転機となった年でもある。同時代の日本郵船の貨物船は、同形船ごとにアルファベット別にAクラス、Iクラス、Sクラスなどのクラス別に分けられ、それぞれ日本名も、Aクラスならば「有馬丸」、「有田丸」、Iクラスならば「伊勢丸」「伊豫丸」、Sクラスならば「瀬田丸」、「隅田丸」というように船名が付けられていた。また日本郵船では新造船を用意するだけでは間に合わず、「平戸丸」「双栄丸」といった他社からの購入船も揃え、急造していく輸送量に対応している。
ちなみに1960年に竣工した船が多いSクラスは平甲板型の高速貨物船である。例えば「瀬田丸」は最高速力が20ノット(時速37.04km)を越え当時の商船としてはかなりの快速を誇る。
【貨物船再発見⑥】専用の運搬船も造られるように
貨物船では高速な船が出現する一方で、各種の専用船が導入されていった時代でもある。重量運搬船や、鉱石専用船、原油タンカーなども次々に竣工していった。要は汎用性の高い貨物船から、積み荷に合わせた専用船が多く取り入れられ、多角化していったその分岐点が1960年だった。この専用船の導入は、エネルギー源が石炭から石油へ転換していったことも大きかった。
この1960年当時の商船の外観を見ると艦橋、またはブリッジとも呼ばれる船の操舵室などがある部分が、船の中央部にある貨物船が多い。
しかし、その後に登場し始めた貨物船は積み荷を載せやすくするように、また重量物運搬船、鉱石運搬船といった船は、前方に運搬物を載せやすくするために、ブリッジを中央から後方にずらす船が表れている。このあたりの姿形の変化も興味深い。
なお、重量物運搬船として1960年に竣工した「若戸丸」は、甲板上にデリック(荷役作業用のクレーンの一種)が設けられていた。この装備は世界でもトップクラスのつり上げ能力を誇ったとされる。港湾にクレーンがなくとも、重量物の積み下ろしが可能だった。同船は日本と欧州、インド、南米東岸などへの航路で活かされていた。
こうした専門性を持つ船が次々に導入が計画され、1960年竣工の貨物船に目立ち始めたわけだ。ちなみに日本郵船では、初の原油タンカー「丹波丸」を1959(昭和34)年に、1962(昭和37)年には日本初の大型LPG専用船「ブリヂストン丸」。1968(昭和43)年に日本初のフルコンテナ船「箱根丸」を就航させている。1960年以降、海運業界は大きく変わっていったのだった。
【貨物船再発見⑦】1960年は客船の氷川丸が引退した年だった
太平洋戦争中にも戦禍をくぐりぬけ生き延びた日本郵船の“幸運な船”といえば「氷川丸」である。ちょうど1960年に引退している。この氷川丸引退により日本郵船は客船事業から撤退することになった。
1950年代に新型ジェット機が次々と登場しはじめていた。その後に、世界の航空会社から採用されることになるボーイング707は1957(昭和32)年に初飛行をしている。ダグラスDC-8も翌年に初飛行を行った。ちょうど1960年ごろは、飛行機を使っての海外旅行が、一部のセレブ向けの旅から一般大衆化が始まったころだった。もう客船を使っての海外旅行は、流行らない時代となっていたわけである。その後にクルーズ客船の旅が人気となっていくが、それは30年も後のことになる。
氷川丸は現在「日本郵船氷川丸」として公開されている。
■日本郵船氷川丸(横浜市中区山下町山下公園地先)
開館時間 | 10〜17時(最終入館16時30分) |
休館日 | 月曜(祝日の場合は翌平日) 臨時休館日:1/4〜2/28休 |
入館料 | 300円 ※日本郵船歴史博物館とのセット券あり(500円) |
交通 | みなとみらい線・元町・中華街駅4番出口から徒歩約3分 |
余談ながら、日本郵船はそうした航空機の隆盛をじっと眺めていたわけではない。1978(昭和53)年に成田空港が開港した同じ年に、日本貨物航空株式会社の発足に参加している。時間がかかったものの1985(昭和60)年に初飛行が実現している。現在、日本貨物航空は日本郵船グループの一般貨物輸送事業に携わる一企業となっている。
【貨物船再発見⑧】横浜の港が繁栄した歴史の足跡をたどる
横浜港が賑わったころの名残は、港のさまざまな場所で見ることができる。桜木町駅から日本郵船歴史博物館へ、さらに氷川丸のある山下公園へ歩いてみてはいかがだろう。コースを組んでみた。
桜木町駅→ 0.2km(徒歩約2分)→ 日本丸 → 汽車道1.2km(徒歩約13分)→ 旧横浜港駅プラットホーム → 1.0km(徒歩12分)→ 日本郵船歴史博物館 → 1.2km(徒歩15分)→ 山下公園・氷川丸
*全行程3.6km徒歩約45分
桜木町駅から港側に出ると、かつて桜木町駅から先、港湾部まで線路が延びていた旧横浜臨港線の線路跡がある。今も線路の一部が残されていて、廃線跡を偲ぶことができる。
臨港線は桜木町駅からまず2つの人工島を造って線路が延びていた。途中、小舟が通ることための水路部分にあり、鉄橋を架けられていた。そのルートを生かした遊歩道「汽車道」をのんびりと歩くことができる。残る線路にはウッドデッキがかぶせられ歩きやすい。
線路が残る遊歩道はホテルナビオス横浜の建物をくぐり、万国橋交差点まで延びている。さらに港側へ歩いて行くと、商業施設「MARINE & WALK YOKOHAMA」と「横浜赤レンガ倉庫」の間に旧横浜港駅プラットホームがある。ホーム近くには線路も残っている。ここは新港と呼ばれる地区で、1911年(明治44)年、臨海部初の路線が敷かれた。旧横浜港駅へは旅客列車も運行されていた。同駅で下車した人たちは、出国手続きを行い、桟橋から船へ乗船し、海外を目指したのだった。
旧横浜港駅のプラットホームからは赤レンガパーク越しに、現在、旅客船が多く寄港する横浜港大さん橋国際客船ターミナルを望むことができる。
臨港線の線路は、旧横浜港駅の横に立つ横浜赤レンガ倉庫の前を抜けて、さらに山下公園へ延びていた。
現在、路線の跡は汽車道や山下埠頭線プロムナードとなっていて、多くの人たちがのんびり散策している。歩いている人たちのどのぐらいの方が、かつて、この遊歩道を旅客列車や貨物列車が走っていたことを知っているのだろうか。
そして企画展が開かれている日本郵船歴史博物館。1936(昭和11)年築の建物で、ギリシャの神殿を思わせるような16本の列柱が特徴。ルネサンス様式とも称される建物だ。威厳のある建築で、横浜港への船の出入りが多かった時代、多くの人が忙しく出入りしていたことだろう。このビルを見るだけでも価値があると感じた。
こうした横浜の歴史を感じさせる施設と変貌ぶり。鉄道好き、船好きにとっては、ちょっとノスタルジックな気持ちになってくる臨港エリアでもある。
※参考文献:大澤浩之著「紙模型でみる日本郵船 船舶史1885-1982」星雲社、池田良穂監修「プロが教える船のメカニズム」ナツメ社