乗り物
鉄道
2021/6/3 20:00

東急の礎を築いた「五島慶太」−−“なあに”の精神を貫いた男の生涯【前編】

【五島慶太の生涯②】阪急の創始者、小林一三に見いだされて

東京帝国大学を卒業した慶太は、まず官僚への道を歩む。ところが、大学を卒業したのが30歳近くとあって、官僚となったものの、周りに比べればかなり遅いスタートとなった。そのため出世の道はほぼ断たれていた。

 

1913(大正2)年 鉄道院へ移る

1918(大正7)年 鉄道院総務課長心得に就任

 

そのためもあってか、農商務省へ入省したものの、2年で鉄道院へ移った。この鉄道院へ移ったことが、その後の人生を決めたといっても良いだろう。プライベートな話題としては、

 

1912(明治45)年 建築家・久米民之助の長女、万千代と結婚

 

同年に五島に改称している。義父から五島の家を継いで欲しいという申し出があったからだという。明治から昭和に至るまで、名家の名前を殘すために夫婦どちらかが養子となり、その姓を名乗るケースがあった。妻となった万千代は10歳年下で、一目ぼれだったらしい。妻との間に2男2女をもうけている。

 

さて、鉄道院に移った慶太は鉄道院総務課長心得として務める。だが“心得”が気にくわないと、書類の心得は消して提出したと言う。堅苦しい役人生活は性に合わなかったのであろう。役人として風変わりな存在でもあった。

↑田園調布駅の復元駅舎。田園調布の住宅地造りには渋沢栄一、小林一三らそうそうたるメンバーがかかわっていた

 

慶太が鉄道院総務課長心得となった年に、その後に大きく関わることになる事業が始められた。

 

今年の大河ドラマの主人公、渋沢栄一が晩年に起こした事業である。それは田園調布を開発し、住宅地化しようという試みだった。そのために1918(大正7)年に田園都市株式会社という開発会社が設けられた。発起人であり相談役として渋沢栄一が就任する。渋沢は田園都市の開発には鉄道が必要として、阪急を生み出した小林一三を引き込もうとした。

 

とはいえ小林一三は、自社の経営で忙しい。さらに今の時代ならば、可能かもしれないが、当時は関西と東京を移動すること自体も大変だった。誰か代わりが務められる人材がいないだろうか、と探していた時に“おもしろい男がいる”ということで引き込まれたのが五島慶太だった。慶太は1920(大正9)年に鉄道院を退官、武蔵電気鉄道の常務取締役に就任していた。

 

1922(大正11)年9月2日に田園都市開発株式会社の傘下の荏原鉄道が、目黒蒲田電鉄と改称した。この日が東急電鉄の創立記念日となっている。そして五島慶太は10月2日に目黒蒲田電鉄の専務取締役に就任した。

 

五島慶太は、まず武蔵電気鉄道という会社に関わっている。この武蔵電気鉄道はその後に東京横浜電鉄の大元になる会社なのだが、当時はほとんどペーパーカンパニーで、内容が伴っていなかった。武蔵電気鉄道に関わったのが30歳代の終わり、そして目黒蒲田電鉄という鉄道会社の専務となったのが、40歳という年齢だった。ここから鉄道事業に携わる慶太の半生が始まった。

 

不幸なことに最愛の妻、万千代を1922(大正11)年に亡くしている。わずか31歳だった。こうした心の痛手を埋めるかのように慶太は事業に没頭し、妻の死後は一生、独り身を通した。

 

【五島慶太の生涯③】無人の荒野を行くかごとくの東京の郊外開発

渋沢栄一が構想を練り、そして小林一三まで巻き込み、五島慶太が実質的な開発責任者となった田園調布の開発計画だったが、そのころの東京城西、城南地区の状況はどのようなものだったのだろうか。

 

一枚の絵葉書がある。これは、大正中ごろの玉川電車沿線の様子だ。玉川電車とは、“玉電”の名前で親しまれ、現在の国道246号上を走った路面電車だ。現在、東急世田谷線として、一部区間が残っている。中央本線の路線の南西部で、最も早く設けられた鉄道路線だった。玉川電気鉄道により1907(明治40)年、渋谷〜玉川間が全通している。

 

玉川電気鉄道は、路線開業前の会社名が玉川砂利電気鉄道だった。要は乗客を運ぶよりも、多摩川の河原の砂利を東京の都市部へ運ぶことを主目的に造られた路線だった。

↑大正中ごろの玉川電気鉄道の路線風景。現在の二子玉川駅近くか、駒沢大学駅付近か、沿線には広大な田畑が広がっていた

 

大正中ごろの玉川電車の絵葉書を見ても、線路の周りは田畑のみで、ここがどこなのか今となっては分からない。まさに隔世の感がある、玉川電気鉄道の路線は、現在の東急田園都市線の渋谷駅〜二子玉川駅間にあたるが、沿線はほとんどが住宅地となり、畑地などほとんどない。

 

城西・城南地区で他の私鉄路線といえば、旧東海道の沿線に路線を設けた京浜電気鉄道の一部区間が1901(明治34)年に開業したぐらいのものだった。

 

五島慶太が電鉄会社を設けたころは、東京の城西・城南は玉川電気鉄道の沿線と同じような状況で、こんなところに鉄道路線を設けること自体、よほどの物好きと考えるのが普通だったわけである。まさに無人の荒野を行くがごとくの郊外開発だった。

 

  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4