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2021/6/26 6:00

陸軍が造り戦時下に消えた「成田鉄道多古線」——ミステリアスな痕跡を求めて

【多古線その③】JR成田線に沿って残る多古線の廃線跡

↑成田駅前発のジェイアールバスが、ほぼ旧多古線に沿って走っている。三里塚までは本数も多く便利な路線となっている

 

ここからは多古線の路線跡を歩いてみよう。30km以上の長い路線ということもあり、旧路線に沿って走る路線バスを何回か利用した。このバス路線はジェイアールバス関東の多古本線と呼ばれる。ただし、千葉県内を走る同社の路線バスとして主要路線となっているのに、同社の案内には多古本線の名前はない。

 

1928(昭和3)年、国土地理院(昭和初期は「参謀本部陸地測量部」)の地図を見ると、まず多古線の線路は、JR成田線の線路に沿って走っていたことが分かる。成田駅から成田線に沿って歩いてみた。すると、線路の横に細い歩行者専用道路が北へ向けて延びていた。ちょうど線路1本分ほどの幅で、明らかに多古線の跡だと分かった。この歩道も現在の成田小学校の先から途絶える。

↑多古線は成田線に沿って走っていた。現在、線路跡は歩行者専用道路に整備され、地元の人たちに利用されている

 

多古線は開業当初、成田市街を大きく迂回、遠回りして走っていたが、軌道幅を広げるにあたって、成田山新勝寺の裏手を通る新たなルートに変更されている。その新ルートの遺構が市内に残っている。

 

【多古線その④】新勝寺の裏手に路線唯一の遺構が残る

成田市街の北に成田山公園という丘陵地がある。この西に成田山新勝寺があり、裏手を通る土屋中央通り沿いに、多古線の鉄橋を支えた橋台の遺構がある。かつての多古線がここを走っていた証しだ。

 

廃線の前後が私有地となっているために、路線跡をたどれないのが残念だったが、移設した路線の工事も鉄道連隊によって行われたのだろうか。気になるところだ。

↑成田市内、土屋中央通沿いに立つ多古線の橋台跡。写真に写る側しか橋台は残っておらず、手前は住宅がひな壇状に建つ

 

多古線の橋台跡を探索した後は、そのまま路線跡をたどれないこともあり、新勝寺を参拝しつつ成田山門前へ。ここには以前、成田鉄道宗吾線の停留場があった。この路線も太平洋戦争下に休止、そして廃止の道をたどった。成田市近辺には、こうした廃線跡が複数残る。ちなみに成田鉄道は現在、千葉交通と名前を変えて、路線バスの事業者となっている。しかし、多古線は太平洋戦争中に鉄道省(後の日本国有鉄道)が営業する路線バスが営業権を引き継いだこともあり、国鉄の路線バス網を引き継いだジェイアールバス関東が路線バスを運行させている。

↑成田山新勝寺に近い成田山前バス停に到着するジェイアールバス。同地には成田鉄道宗吾線の成田山門前停留場があった

 

多古線を引き継いだジェイアールバスに成田山前から乗車した。バスはしばらく、多古線の路線から付かず離れずの道をたどる。

 

成田市の市街、東側を通り抜ける国道51号から先、道路の造りが謎めいている。

 

路線バスは通称・芝山はにわ道という高台の県道を走る。多古線は高台の下のやや標高の低いところを走っていた。現在、路線跡は片側一車線の道路(こちらの道路は名称が付けられていない)となっている。この2本の道は、その後に合流することも無く、ほぼ平行して成田空港方面へ向かう。バスに乗車した筆者は法華塚というバス停で下車して、旧路線跡を目指した。

 

【多古線その⑤】三里塚駅は現在のバス停と異なる場所にあった

バスが走る芝山はにわ道と平行した多古線跡を利用した道が、京成電鉄東成田線をまたいでいる。同路線は成田空港の開港にあわせて1978(昭和53)年に開業したこともあり、当然ながら多古線が走っていたころに、この線路はない。

↑今もバス停として法華塚の名が残る。この右手下に多古線が走り法華塚駅があった。その近く、現在は京成電鉄東成田線が通る(左上)

 

奇しくも筆者が降りた法華塚バス停の近くは法華塚駅があったようだ。法華塚バス停に近い、京成電鉄東成田線の線路との交差地点から、多古線はほぼ現在の路線バスが走る通りに沿って走っていた。この先、三里塚の町へ入る。

 

現在の三里塚バス停は、三里塚の町の中心に設けられている。多古線の三里塚駅はこのバス停より1kmほど手前にあった。

↑現在のバス通りに平行して走っていた多古線。この先、道が細くなる(左上)あたりに旧三里塚駅があった

 

↑バスターミナルとして整備された現在の三里塚バス停。同バス路線では、多古とならぶ大きめのバス停となっていた

 

さて三里塚へ到着した。三里塚といえば、古くは御料牧場があり、その後には成田空港開港時に闘争の町として記憶されている方も多いかも知れない。現在の三里塚は成田空港近郊の静かな住宅地という印象が強かった。

 

ちなみに成田鉄道の八街線(やちまたせん)という路線が八街駅〜三里塚駅を走っていた。この路線も鉄道連隊が線路を敷設していた。開業は1914(大正3)年のことで、千葉県営鉄道としてスタートしている。こちらも軌間幅は600mmと狭く、その後に改軌されることもなく、1940(昭和15)年8月19日に廃線となっている。

 

三里塚には戦後に開拓団が入植した。そうした三里塚に戦前に鉄道路線を敷くこと自体、鉄道連隊の演習路線だったにしても無謀という印象がぬぐえない。

 

【多古線その⑥】今の成田空港の滑走路上を多古線が走っていた

三里塚から先、多古線では千代田が次の駅となる。しかし、今は廃線の上を成田空港のA滑走路が貫いている。多古線は長さ4000mのA滑走路のちょうど南端部分を走っていた。旧三里塚駅からの先の路線跡は現在、細い道となっている。道は空港の西側に設けられた壁にちょうど突き当たるが、先への進入はもちろん出来なくなっている。

 

さて、多古線とほぼ同じルートで走る路線バスは、どのようなルートで走っているのだろうか。空港内を突っ切る道路はない。そのために、南側へ大きく迂回している。路線バスはA滑走路の南端にある航空科学博物館へ。また航空科学博物館を経由して、第2、第1ターミナル、貨物管理ビル前へ向かう便が多い。

↑成田空港の三里塚側は厳重なフェンスで囲まれる。ちょうど左に白い案内板があるあたりから多古線の線路は千代田へ向けて延びていた

 

その先、多古線のルートをたどるバスがないのか調べると、三里塚を出たバスのうち、千代田バス停を経由して、多古町内を通り八日市場駅へ向かうバスが走っている。しかし、このルートを走るバスは本数が非常に少ない。平日は成田駅発が7便、八日市場駅発が6便、土休日は5往復しかないのだ。

 

この路線バスは、三里塚に住む人たちが成田駅方面へ、また成田空港方面へ向かう人で成り立っているように感じた。

 

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