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2021/6/26 6:00

陸軍が造り戦時下に消えた「成田鉄道多古線」——ミステリアスな痕跡を求めて

【多古線その⑩】多古町内に旧駅と新駅があった

先に多古線の歴史に触れた時に多古(仮)駅とした。千葉県営鉄道として開業した時に多古駅は、町の中心に近い場所に設けられた。しかし、その後に八日市場駅との間に設けられた軌間1067mmの新しい駅は町の南側、現在の国道296号が走る場所に多古(仮)駅として設けられた。同じ多古町多古という字名なのだが、距離差は直線距離で600mほどある。

 

筆者は両駅に訪れてみた。最初にできた駅は町の中心といっても良いところにあった。町役場もすぐそばだ。だが、新たにできた、多古(仮)駅は町の外れにあり、南側に広大な田畑が広がっていた。

↑旧多古駅(初代)に立つ多古町の歴史案内。そこに県営軽便鉄道として生まれた多古線の紹介があった

 

多古線の路線を敷くにあたり、どのように計画されたかは、今となっては調べることが難しくなっている。成田駅〜多古駅間が1067mm軌間に改軌された時に、旧駅の南側に造られた多古(仮)駅が、正式に多古駅となった。町の中心から600mほど南に移動したこともあり、当時、多古に住む人たちは不便に感じたことだろう。

 

利用者を無視した駅の移動といっても良い。利用者減少に悩み、不要不急線になってしまったわけだから、矛盾を感じる。

↑軌間幅を広げたのちは、多古町の南はずれの仮駅が正式な駅となった。現在の国道296号が通るあたりだが町外れの印象が強い

 

旧駅付近には多古町が立てた歴史散策という案内板があった。建設時の写真もあり、県営軽便鉄道として多古線が開業した当時のことにも触れている。さらに興味深い記述があった。

 

「セレベス島(現インドネシア・スラウェシ島)鉄道敷設用の資材供出のため廃線となりました。供出された多古線の鉄道資材は、輸送船が撃沈され、結局セレベスでの鉄道敷設は実現しませんでした」とあった。

 

戦争遂行のために不要不急線として休止させられ、その後に廃線となった多古線。駅の移動自体も矛盾を感じたが、不要不急線という政策自体に矛盾を感じる。廃止させられ、線路が持ち出されたものの、結局、何にも役立たなかったわけである。

 

多古線は不要不急線とならなくとも、その後に廃止されたかも知れない。とはいえ、戦後は復興に向けて必ず役立ったであろうし、なんともやるせない気持ちが残った。

 

【多古線その⑪】そして今回の終着駅・八日市場駅へ

多古から先、路線バスは多古の町内を巡り八日市場駅へ向かう。多古線の多古駅〜八日市場駅は、現在の国道296号にほぼ沿って線路が設けられていた。国道の拡幅にも路線跡が活かされたようだ。この区間には3つの途中駅があったが、今も昔も千葉県の穀倉地帯でもある広大な田畑が広がり、集落は点在するのみとなっている。

 

八日市場駅が近づくにつれて、住まいも増えてくる。現在のJR総武本線と並走したその先に、旧終点だった八日市場駅が見えてくる。

↑総武本線に並走して多古線の線路が敷かれていた。線路跡は現在、一般道として使われている

 

↑八日市場駅(左上)の西側を跨線橋から望む。駅付近の広い駐車場にはかつて多古線のホームや貨車の入換え線などがあったと推測される

 

多古線は太平洋戦争前後で休止、廃線となってしまった。多古線が走った千葉県の同エリアは現在、鉄道の無いエリアとなっている。一方、成田空港まではJRと京成電鉄の路線があり、本数が多く便利な路線となっている。

 

地元向けの鉄道路線といえば、芝山鉄道2.2kmしかない。この芝山鉄道を延伸させようという連絡協議会「芝山鉄道延伸連絡協議会」が設けられている。こちらは地元の芝山町、横芝光町、山武市の3市町で構成される。路線の延伸自体は、現在の鉄道とバスなどの利用状況を見ると適いそうにないが、連絡協議会によって空港シャトルバス・空港第2旅客ターミナル〜横芝屋形海岸間が運行されている。路線が走るのはちょうど、多古線よりも南側である。さらに前述したように多古町と成田空港もシャトルバスによって結ばれている。

 

これらのシャトルバスの運行に関わっているのが千葉交通。このバス会社こそ、多古線を運行させた成田鉄道の現在の姿でもある。成田鉄道多古線は消えたが、今も同地区ではそのDNAを受け継ぐ千葉交通のバス路線網が健在だったのである。

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