不要不急線を歩く05 〜〜 成田鉄道 多古線(千葉県) 〜〜
そろそろ“不要不急の外出を控えて”という言葉も聞かなくなりつつある。今から80年ほど前に不要不急といえば、不要不急線を指した。利用率の低い鉄道路線を休止、廃止にして、線路などを軍事用に転用する。そのため全国に不要不急線が指定され、多くの路線が消えていった。
今回は、千葉県内を走った成田鉄道多古線の旧路線跡を訪ねた。そこにはいくつかの謎が浮かび上がってきたのである。
【関連記事】
「成宗電気軌道」の廃線跡を歩くと意外な発見の連続だった
【多古線その①】陸軍の鉄道敷設部隊が造った県営路線が始まり
かつて、千葉県のJR成田駅とJR八日市場駅(ようかいちばえき)の間を結んでいた鉄道路線があった。成田鉄道多古線(たこせん)と呼ばれる路線である。太平洋戦争中に不要不急線として指定され、運転休止となり、戦後そのまま廃止となった。
この路線の歴史は興味深い。まずは千葉県営鉄道として誕生した。しかし、建設したのは千葉県ではなく、大日本帝国陸軍の鉄道連隊という鉄道敷設のプロ集団だった。この連隊は、占領した地域などで素早く線路を敷設するために設けられた部隊だった。
この鉄道連隊の第一・第二連隊が千葉県内に連隊本部が設けられ、主に千葉県内で路線を敷く演習をさかんに行った。
この鉄道連隊は、太平洋戦争時に内外に二十連隊まで出来たというのだから、大部隊だったことがわかる。この部隊により、千葉県内では現在の東武野田線、JR久留里線、小湊鐵道線などの路線が造られ、今も使われている。鉄道会社では、用地のみ提供すれば路線を造ってもらえるとあって、非常にありがたい部隊でもあった。
今回、取り上げた多古線も連隊により造られ、設備、車両などは当初連隊から県が借用し、のちに千葉県へ払い下げられた。
【多古線その②】戦時下に休線となり戦後、正式に廃線へ
多古線の概要と歴史を見ておこう。
路線 | 成田鉄道多古線・成田駅〜八日市場駅間30.2km |
路線の開業 | 1911(明治44)年7月5日、成田駅〜三里塚駅が開業、10月5日、多古駅まで延伸。1926(大正15)年12月5日、多古(仮)駅〜八日市場駅間が開業 |
廃止 | 不要不急線の指定をうけ1944(昭和19)年1月11日に休止、1946(昭和21)年10月9日に廃止に |
鉄道連隊による演習で、まず成田駅〜三里塚駅間の路線が敷かれた。線路敷設は軍の演習として行われたので、開業後のことなどは念頭におかれなかったようだ。初期に出来た成田駅〜多古駅間は、軌間幅が600mmという狭いスケールで造られている。軽便鉄道と呼ばれる路線ですら762mmという軌間幅(現在の黒部峡谷鉄道、三岐鉄道北勢線など)が多数なので、極端に狭かったことが分かる。要は、占領した土地での線路敷設は恒久的なものではなく、あくまで一時的で、利用しやすさなどは二の次だったようだ。
多古線は1911(明治44)年に千葉県営鉄道の路線として運転が開始された。その後の1926(大正15)年に開業した多古(仮)駅〜八日市場駅間は1067mmという軌間幅だった。成田駅〜多古駅間は開業当時の600mという軌間幅での運転がしばらく続けられた。
軌間幅が600mmのころの記録が複数の文献に残されている。軌間の狭さから列車のスピードは極端に遅かった。当時の様子を、“列車に乗り遅れても駆け足で追いつけた”、“乗客が走行中の列車から降りて、用を足した後に駆けて飛び乗った”といった逸話が残る。のんびりした列車だったようである。
千葉県営鉄道として開業した多古線だったが、軌間幅が狭く、さらにスピードは遅く、経営がたちゆかなくなった。そのためもあってか、1927(昭和2)年に成田電気鉄道に譲渡された。同年に成田電気鉄道は成田鉄道に改められている。そして1928(昭和3)年に1067mmに改軌され、ようやく全線を通して列車が運転されるようになったのだった。
それから16年後。不要不急線に指定され、1944(昭和19)年1月11日に運転を休止、戦後の1946(昭和21)年10月9日に廃止となっている。ちなみに休止した後は省営自動車が営業権を引き継ぎ、貨物運輸の営業が開始されている。
不要不急線として指定されたのは、もちろん利用者が少なかったこともあっただろう。それよりも、むしろ陸軍が演習で造った路線だけに、政府も不要不急線として指定しやすかったのかも知れない。
【多古線その③】JR成田線に沿って残る多古線の廃線跡
ここからは多古線の路線跡を歩いてみよう。30km以上の長い路線ということもあり、旧路線に沿って走る路線バスを何回か利用した。このバス路線はジェイアールバス関東の多古本線と呼ばれる。ただし、千葉県内を走る同社の路線バスとして主要路線となっているのに、同社の案内には多古本線の名前はない。
1928(昭和3)年、国土地理院(昭和初期は「参謀本部陸地測量部」)の地図を見ると、まず多古線の線路は、JR成田線の線路に沿って走っていたことが分かる。成田駅から成田線に沿って歩いてみた。すると、線路の横に細い歩行者専用道路が北へ向けて延びていた。ちょうど線路1本分ほどの幅で、明らかに多古線の跡だと分かった。この歩道も現在の成田小学校の先から途絶える。
多古線は開業当初、成田市街を大きく迂回、遠回りして走っていたが、軌道幅を広げるにあたって、成田山新勝寺の裏手を通る新たなルートに変更されている。その新ルートの遺構が市内に残っている。
【多古線その④】新勝寺の裏手に路線唯一の遺構が残る
成田市街の北に成田山公園という丘陵地がある。この西に成田山新勝寺があり、裏手を通る土屋中央通り沿いに、多古線の鉄橋を支えた橋台の遺構がある。かつての多古線がここを走っていた証しだ。
廃線の前後が私有地となっているために、路線跡をたどれないのが残念だったが、移設した路線の工事も鉄道連隊によって行われたのだろうか。気になるところだ。
多古線の橋台跡を探索した後は、そのまま路線跡をたどれないこともあり、新勝寺を参拝しつつ成田山門前へ。ここには以前、成田鉄道宗吾線の停留場があった。この路線も太平洋戦争下に休止、そして廃止の道をたどった。成田市近辺には、こうした廃線跡が複数残る。ちなみに成田鉄道は現在、千葉交通と名前を変えて、路線バスの事業者となっている。しかし、多古線は太平洋戦争中に鉄道省(後の日本国有鉄道)が営業する路線バスが営業権を引き継いだこともあり、国鉄の路線バス網を引き継いだジェイアールバス関東が路線バスを運行させている。
多古線を引き継いだジェイアールバスに成田山前から乗車した。バスはしばらく、多古線の路線から付かず離れずの道をたどる。
成田市の市街、東側を通り抜ける国道51号から先、道路の造りが謎めいている。
路線バスは通称・芝山はにわ道という高台の県道を走る。多古線は高台の下のやや標高の低いところを走っていた。現在、路線跡は片側一車線の道路(こちらの道路は名称が付けられていない)となっている。この2本の道は、その後に合流することも無く、ほぼ平行して成田空港方面へ向かう。バスに乗車した筆者は法華塚というバス停で下車して、旧路線跡を目指した。
【多古線その⑤】三里塚駅は現在のバス停と異なる場所にあった
バスが走る芝山はにわ道と平行した多古線跡を利用した道が、京成電鉄東成田線をまたいでいる。同路線は成田空港の開港にあわせて1978(昭和53)年に開業したこともあり、当然ながら多古線が走っていたころに、この線路はない。
奇しくも筆者が降りた法華塚バス停の近くは法華塚駅があったようだ。法華塚バス停に近い、京成電鉄東成田線の線路との交差地点から、多古線はほぼ現在の路線バスが走る通りに沿って走っていた。この先、三里塚の町へ入る。
現在の三里塚バス停は、三里塚の町の中心に設けられている。多古線の三里塚駅はこのバス停より1kmほど手前にあった。
さて三里塚へ到着した。三里塚といえば、古くは御料牧場があり、その後には成田空港開港時に闘争の町として記憶されている方も多いかも知れない。現在の三里塚は成田空港近郊の静かな住宅地という印象が強かった。
ちなみに成田鉄道の八街線(やちまたせん)という路線が八街駅〜三里塚駅を走っていた。この路線も鉄道連隊が線路を敷設していた。開業は1914(大正3)年のことで、千葉県営鉄道としてスタートしている。こちらも軌間幅は600mmと狭く、その後に改軌されることもなく、1940(昭和15)年8月19日に廃線となっている。
三里塚には戦後に開拓団が入植した。そうした三里塚に戦前に鉄道路線を敷くこと自体、鉄道連隊の演習路線だったにしても無謀という印象がぬぐえない。
【多古線その⑥】今の成田空港の滑走路上を多古線が走っていた
三里塚から先、多古線では千代田が次の駅となる。しかし、今は廃線の上を成田空港のA滑走路が貫いている。多古線は長さ4000mのA滑走路のちょうど南端部分を走っていた。旧三里塚駅からの先の路線跡は現在、細い道となっている。道は空港の西側に設けられた壁にちょうど突き当たるが、先への進入はもちろん出来なくなっている。
さて、多古線とほぼ同じルートで走る路線バスは、どのようなルートで走っているのだろうか。空港内を突っ切る道路はない。そのために、南側へ大きく迂回している。路線バスはA滑走路の南端にある航空科学博物館へ。また航空科学博物館を経由して、第2、第1ターミナル、貨物管理ビル前へ向かう便が多い。
その先、多古線のルートをたどるバスがないのか調べると、三里塚を出たバスのうち、千代田バス停を経由して、多古町内を通り八日市場駅へ向かうバスが走っている。しかし、このルートを走るバスは本数が非常に少ない。平日は成田駅発が7便、八日市場駅発が6便、土休日は5往復しかないのだ。
この路線バスは、三里塚に住む人たちが成田駅方面へ、また成田空港方面へ向かう人で成り立っているように感じた。
【多古線その⑦】現在の芝山千代田駅の南に旧千代田駅があった
本数が少ない閑散バス区間に、逆に筆者は興味を持った。
さらに多古線という路線名が付いたように、どうして多古を通るルートになったのか。筆者は、この多古線を巡る前、多古町(たこまち)という町名をあまり良く知らなかった。同音異句の言葉にタコがあり、そのことが印象に少し残ったぐらいだった。
成田空港の南東側は芝山町となる。この町には芝山鉄道という鉄道会社の路線が走る。路線距離は2.2kmで、日本一短距離の路線を持つ鉄道会社だとされている。終点駅は芝山千代田駅だ。この駅へ立ち寄るバスはさらに少なく、1日に上り下りとも2便ずつといった状態だった。つまり乗り継ぎなどで芝山千代田駅を使う人がほぼいないということなのだろう。
筆者は芝山千代田駅から最寄りの千代田バス停まで歩いてみた。空港の東側はターミナルなどさまざまな施設があり、また車の通行量も多く、それなりの賑わいを見せていた。芝山千代田駅から千代田バス停までは600mで、歩いても8分ほどの距離だった。
千代田バス停から多古線をたどって路線バスに乗車してみて驚いた。休日の日中のバスには筆者以外、誰も乗っていなかった。多古までの途中、1人が乗車してきたくらいだ。八日市場駅〜千代田バス停区間は、超閑散区間だったわけである。コロナ禍の最中とはいえこの乗車人数を考えれば、便数の少なさも致し方ないのだろうと感じた。ちなみに、走るバスも成田駅〜三里塚バス停間より古い車両が使われ、乗り心地の良さにやや欠けた。この区間に住む人たちの大半が路線バスを使わず、移動はマイカーに頼っているのかも知れない。
【多古線その⑧】バスはひたすら田園地帯を走り多古へ向かった
バスは芝山町の千代田バス停から、多古線の線路跡を利用した道を走る。道幅は片側一車線もなく、一部区間では対向車とのすれ違いが難しい。ちょうど線路の幅を広げたくらいに見えた。とはいえ起伏が少なく、切り通しや田畑を見下ろす斜面上を走るなど、快適な道だ。交差する一般道とは立体交差する箇所もあり、やはり昔の鉄道路線らしい痕跡がうかがえる。
旧千代田駅と多古町の入口にあった旧染井駅との間には2つほど駅があったとされる。この区間、実は旧路線と、廃止時の新線区間があった。ここでも軌間幅を広げる時に路線の敷き直しをしたようだ。しっかりした記録がないため推測の域を出ないが、このあたりの路線造り直しも、鉄道連隊が演習として関わったのだろうか。
旧千代田駅から10kmほどで旧多古駅へ到着する。この多古駅にも新旧2つの駅があった。この新旧駅を訪れて、加えて多古の町も歩いてみた。さて多古の町はどのような町だったのだろう。
【多古線その⑨】多古には江戸時代、小さな藩が設けられていた
路線バスは、現在の多古の公共交通機関の拠点でもある多古台バスターミナルに到着した。このターミナルからは東京駅八重洲口へ高速バスが走る。また、成田空港の第2ターミナルへのシャトルバスが約30分〜1時間おきに発着している。
訪れてみて、路線バスの乗客が少ないことが理解できた。今の路線バスは、昔の多古線のように成田と多古、そして八日市場を結ぶものの、その間に住む人々の移動手段として使われていない。成田空港があることで空港の東と西で、行き来が断ち切られてしまっている。むしろ、多古からは東京の都心および成田空港(鉄道駅もあり利用しやすい)との結びつきが強い。路線バスに乗って、成田と多古間を移動しようという筆者のような“物好き”は、いないようだった。
多古は古い歴史を持つ町でもあった。現在の町名の書き方とは異なるが、徳川家康が関東を治めるにあたって、多胡藩という小藩が置かれた。小藩ゆえの悲哀で一時期、他の大名領に併合されることもあったが、江戸時代の終わりまで藩は続き、廃藩置県後に、多胡県、新治県となったのちに、千葉県に編入されている。
今も町内に藩の政治が行われた陣屋跡が残る。また、前島 密(郵便制度の生みの親)の要請で千葉県初の郵便局が開設された。同郵便局は1942(昭和17)年に建て替えられたが、今も建物が残されている。
多古という町は、千葉県の行政に関わる重要な都市でもあったのだ。そのために鉄道の路線名を付ける時にも多古の名前が使われたのであろう。
【多古線その⑩】多古町内に旧駅と新駅があった
先に多古線の歴史に触れた時に多古(仮)駅とした。千葉県営鉄道として開業した時に多古駅は、町の中心に近い場所に設けられた。しかし、その後に八日市場駅との間に設けられた軌間1067mmの新しい駅は町の南側、現在の国道296号が走る場所に多古(仮)駅として設けられた。同じ多古町多古という字名なのだが、距離差は直線距離で600mほどある。
筆者は両駅に訪れてみた。最初にできた駅は町の中心といっても良いところにあった。町役場もすぐそばだ。だが、新たにできた、多古(仮)駅は町の外れにあり、南側に広大な田畑が広がっていた。
多古線の路線を敷くにあたり、どのように計画されたかは、今となっては調べることが難しくなっている。成田駅〜多古駅間が1067mm軌間に改軌された時に、旧駅の南側に造られた多古(仮)駅が、正式に多古駅となった。町の中心から600mほど南に移動したこともあり、当時、多古に住む人たちは不便に感じたことだろう。
利用者を無視した駅の移動といっても良い。利用者減少に悩み、不要不急線になってしまったわけだから、矛盾を感じる。
旧駅付近には多古町が立てた歴史散策という案内板があった。建設時の写真もあり、県営軽便鉄道として多古線が開業した当時のことにも触れている。さらに興味深い記述があった。
「セレベス島(現インドネシア・スラウェシ島)鉄道敷設用の資材供出のため廃線となりました。供出された多古線の鉄道資材は、輸送船が撃沈され、結局セレベスでの鉄道敷設は実現しませんでした」とあった。
戦争遂行のために不要不急線として休止させられ、その後に廃線となった多古線。駅の移動自体も矛盾を感じたが、不要不急線という政策自体に矛盾を感じる。廃止させられ、線路が持ち出されたものの、結局、何にも役立たなかったわけである。
多古線は不要不急線とならなくとも、その後に廃止されたかも知れない。とはいえ、戦後は復興に向けて必ず役立ったであろうし、なんともやるせない気持ちが残った。
【多古線その⑪】そして今回の終着駅・八日市場駅へ
多古から先、路線バスは多古の町内を巡り八日市場駅へ向かう。多古線の多古駅〜八日市場駅は、現在の国道296号にほぼ沿って線路が設けられていた。国道の拡幅にも路線跡が活かされたようだ。この区間には3つの途中駅があったが、今も昔も千葉県の穀倉地帯でもある広大な田畑が広がり、集落は点在するのみとなっている。
八日市場駅が近づくにつれて、住まいも増えてくる。現在のJR総武本線と並走したその先に、旧終点だった八日市場駅が見えてくる。
多古線は太平洋戦争前後で休止、廃線となってしまった。多古線が走った千葉県の同エリアは現在、鉄道の無いエリアとなっている。一方、成田空港まではJRと京成電鉄の路線があり、本数が多く便利な路線となっている。
地元向けの鉄道路線といえば、芝山鉄道2.2kmしかない。この芝山鉄道を延伸させようという連絡協議会「芝山鉄道延伸連絡協議会」が設けられている。こちらは地元の芝山町、横芝光町、山武市の3市町で構成される。路線の延伸自体は、現在の鉄道とバスなどの利用状況を見ると適いそうにないが、連絡協議会によって空港シャトルバス・空港第2旅客ターミナル〜横芝屋形海岸間が運行されている。路線が走るのはちょうど、多古線よりも南側である。さらに前述したように多古町と成田空港もシャトルバスによって結ばれている。
これらのシャトルバスの運行に関わっているのが千葉交通。このバス会社こそ、多古線を運行させた成田鉄道の現在の姿でもある。成田鉄道多古線は消えたが、今も同地区ではそのDNAを受け継ぐ千葉交通のバス路線網が健在だったのである。