【道南発見の旅⑤】函館湾が良く見え始めるのは何駅から?
発車時間が近づく。そんな時に車両が停まるホームのすぐ横に赤い電気機関車が牽く上り貨物列車が入ってきた。同線を走るEH800形式交流電気機関車である。同機関車は五稜郭駅〜青森信号場間の専用機で、新幹線と共用している青函トンネルを走ることができる唯一の電気機関車だ。道南いさりび鉄道はローカル線であるとともに、北海道と本州を結ぶ物流の大動脈であることが分かる。
キハ40系が進行方向左手に北海道新幹線の高架橋、右手に木古内の市街を見ながら静かに走り出した。平行して走る新幹線の高架橋が見えなくなり、間もなく最初の駅、札苅駅(さつかりえき)に到着する。同駅も貨物列車と行き違いが可能な線路が設けられる。
道南いさりび鉄道の駅には下り上り列車が行き違いできるように「列車交換施設」を持った駅が多い。今でこそ走るのは貨物列車と、道南いさりび鉄道の列車のみとなっているが、以前は「特急はつかり」、寝台列車の「特急北斗星」「特急カシオペア」「特急トワイライトエクスプレス」といった多くの列車が走っていた。全線単線とはいえ、こうした駅の「列車交換施設」が充実しているのには理由があったわけだ。
札苅駅を過ぎると国道228号が進行方向右手に、平行して走るようになる。次の泉沢駅まで、国道越しに津軽海峡が見え始める。さらにその先、釜谷駅(かまやえき)からはより津軽海峡が近くに見えるようになる。
途中、国道沿いに「咸臨丸(かんりんまる)終焉の地」が見える。咸臨丸は幕末にアメリカまで往復し、幕府軍の軍艦として働いた後に、新政府軍に引き渡された。1871(明治4)年9月19日、函館から小樽に開拓民を乗せて出航したものの泉沢の沖で暴風雨にあって沈没、多くの犠牲者を出したのだった。この史実を筆者は知らなかったが、津軽海峡で起きた悲劇がこの地に複数残っていることを改めて知った。
釜谷駅(かまやえき)から先、渡島当別駅までは江差線当時には撮影ポイントが数多くあり、寝台列車が走っていたころには多くの鉄道ファンが集まったところでもある。筆者もその中の1人だったが、釜谷駅は今も当時のまま、有蓋貨車のワムを利用した駅舎で無骨ながら親しみが持てる駅だった。
さて釜谷駅から先、津軽海峡とともに、海峡の先に函館山が見え始めるようになる。どのあたりから見る景色が最も美しいのだろうか。道南いさりび鉄道の路線は、海岸線よりも高い位置を走る区間が多く、まるで展望台から見るような眺望が各所で楽しめる。
筆者は同路線を「特急はつかり」や、寝台列車に乗って通り過ぎたことがある。しかし、当時は〝駆け足〟で通り過ぎるのみで、美しい景色がどのあたりから見えるものなのか、またどの区間から最もきれいに見えるのか、良く分からず乗車していた。今回、普通列車に乗ることによってポイントが良く分かり、また堪能できた。
釜谷駅〜渡島当別駅間では、海岸線に合わせて路線はきれいにカーブを描いて走る。寝台列車の撮影ではこうしたカーブと、津軽海峡を一緒に写し込むことができて絵になった。撮影のポイント選びでは、途中にある踏切が目印代わりとなっていた。同駅間ではそうした踏切が複数あるのだが、釜谷駅から3つめの「箱崎道路踏切」あたりから先で函館山が見えるようになる。今回はそうした思い出を振り返りつつ乗車する楽しみもあった。
【道南発見の旅⑥】渡島当別駅が洋風駅舎というその理由は?
釜谷駅から約6分、海景色を楽しみつつ列車は渡島当別駅に到着する。同駅は列車からも見えるように、洋風のおしゃれな駅舎が目立つ。洋風というよりも、修道院を模した建物といったほうが良いだろうか。なぜ修道院風なのだろう。
実はこの駅から約2kmの距離にトラピスト修道院がある。その最寄り駅ということでこの駅舎になったのだ。トラピスト修道院は1896(明治29)年に開院した日本初の男子修道院で、売店では修道院内で作られた乳製品、ジャムなどが販売されている。中でもトラピストクッキーは函館名物としてもおなじみだ。
というわけで修道院風の建物なのであるが同路線では異色の駅となっている。
渡島当別駅はトラピスト修道院の最寄り駅ということもあり、観光客の乗り降りもちらほら見られた。とはいえ同列車は、観光客や〝乗り鉄〟の乗車はそれほど多くなく地元の人たちの利用が目立つ。地域密着型の路線なのであろう。
さて、次の茂辺地駅(もへじえき)までも海の景色が素晴らしい。