おもしろローカル線の旅107〜〜JR東日本・日光線(栃木県)〜〜
日光といえば徳川家康を祀る日光東照宮がある町として知られている。この日光と栃木県の県庁所在地・宇都宮を結ぶのが日光線だ。
日光線に沿って日光詣でに使われた古道が残り、野山には四季の草花が美しく咲き誇る。そんな日光線の歴史探訪と美景探勝の旅を楽しんだ。
*2017(平成29)年1月29日〜2023(令和5)年1月19日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。
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【日光線の旅①】116年前に日本鉄道が敷設した日光線
まずは日光線の概要に触れたい。加えて日光線の歴史を見る上で避けて通れない、ライバル路線の東武日光線の歴史も見ておこう。
路線と距離 | JR東日本・日光線:宇都宮駅〜日光駅間40.5km、全線電化単線 |
開業 | 日本鉄道により1890(明治23)年6月1日、宇都宮駅〜今市駅間が開業、同年8月1日に日光駅まで延伸された |
駅数 | 7駅(起点駅を含む) |
今から133年前に、東北本線を建設した日本鉄道により日光線が造られた。その後、1906(明治39)年11月1日に日本鉄道が買収され日光線も国有化、官営の鉄道路線となった。1987(昭和62)年の国鉄分割民営化以降はJR東日本に引き継がれている。
日光線の歴史を大きく変えたのが、並行して走る東武日光線の存在だった。日光線が開業してから39年後の1929(昭和4)年に東武日光線が東武日光駅まで路線が延伸されると、熾烈なライバル争いが繰り広げられた。
1959(昭和34)年に国鉄が特急並みの充実度を誇る157系電車を導入したのに対して、東武鉄道は翌年に1720系「デラックスロマンスカー」を投入して対抗。国鉄の路線は東武に比べて所要時間が長いなど弱点があり、利用者の伸び悩みから優等列車の運転は消滅し、現在、日光線は普通列車のみの運行となっている(臨時列車を除く)。一方で、JR新宿駅発の特急が、途中の東北本線栗橋駅から東武日光線に乗入れ、東武日光駅着で走らせるなど、今や呉越同舟といった状態になっている。
【日光線の旅②】新型E131系電車に置換え完了
次に日光線を走る車両を見ておこう。現在は下記の1形式のみとなっている。
◇E131系電車
2022(令和4)年3月のダイヤ改正時から、E131系600番台、680番台がそれまでの205系電車に代わり走り始めた。ステンレス製の拡幅車体を使用し、黄色と茶色の2色の帯をまとう。宇都宮線(東北本線)との共通の仕様で、関東地方の寒冷地を走ることから、先頭車に霜取り用のパンタグラフを装着し、加えてドアレールヒーターが装着されている。
昨年春まで走っていた205系は、日光線仕様の車両に加えてオリジナルな姿を残した車両や、改造した観光車両「いろは」も走っていただけに、鉄道ファンとしては残念だった。とはいえ、秋の修学旅行向け団体臨時列車の運行や、観光シーズンには臨時列車の運行も予想されるので、楽しみにしたい。
【日光線の旅③】レトロな趣の宇都宮駅5番線ホームから発車
ここからは日光線の旅を楽しもう。日光線の列車は宇都宮駅5番ホームから発着する。このホームは宇都宮線用の7〜10番線とは趣がかなり異なる。ホームへの降り口に設けられる案内表示が、えんじ色ベースに明朝体の白い文字で表記、凝った金色の装飾が施される。レトロな駅名表示などは路線全駅共通で、歴史ある路線という演出が施されている。
日光線の列車は朝夕30分おきに宇都宮駅を発車(一部は途中、鹿沼駅どまり)し、日中もほぼ1時間おきに運転される。観光シーズンは快速臨時列車も運行され、ローカル線としては本数も多めだ。
日光駅までの所要時間は45分弱と短めだが、個々の駅や沿線には観光地や鉄道ファンが気になる箇所が多数点在し、濃密な旅が楽しめる。本稿ではそうした気になるポイントを中心に紹介したい。
【日光線の旅④】鶴田駅到着までに目にする謎の引込線跡は?
宇都宮駅から所要約6分で次の鶴田駅に到着する。到着する前に進行方向左手に気になるポイントがある。雑草が生い茂って確認しにくいが、一部に線路が残っている。この線路は何なのだろう?
宇都宮駅〜鶴田駅間に一部残る線路は、かつて富士重工(現・SUBARU)宇都宮製作所まで延びる専用線だった。旧・富士重工宇都宮製作所は鉄道事業部門で、気動車を中心に特急形からローカル線用まで多くの車両を製作していた。今も走るJR北海道のキハ283系や智頭急行のHOT7000系といった振子式気動車など優秀な車両も多かったが、2002(平成14)年度に鉄道事業は採算が取れないと撤退。同時に宇都宮製作所と鶴田駅間に設けられていた専用線も廃止され、日光線を使っての新車の甲種輸送も中止されてしまったのである。
鶴田駅から旧・富士重工宇都宮製作所の間を歩くと、雑草の生い茂るなか、線路の一部や信号施設も残されていて、一抹の寂しさを感じる。
ちなみに、鶴田駅からはかつて東武大谷線《1964(昭和39)年廃止》や、大谷軌道線《1932(昭和7)年廃止》、専売公社宇都宮工場専用線《1977(昭和52)年廃止》といった複数の線路があった。これらの線路は富士重工業の引込線に比べて廃止時期が古いため、残念ながらあまり痕跡が残っていない。
【日光線の旅⑤】鶴田駅の跨線橋は非常に興味深い歴史を持つ
工場への専用線が設けられていたため駅構内に側線の跡が残る鶴田駅には、歴史的な建造物が残され今も現役として使われている。
駅舎とホームを結ぶ跨線橋の上り口の右の柱には「明治四十四年 鉄道院」と刻印されている。今から112年前の1911(明治44)年に設けられたもので、左側の柱には「浦賀船渠(せんきょ)株式会社」とあった。調べてみるとこの会社、江戸幕府が設けた浦賀ドックだった。日本海軍の駆逐艦の製造を得意にした会社で、今は合併して住友重機械工業浦賀造船所となり、浦賀ドック自体は横須賀市に寄付されている。鶴田の跨線橋は現在、経済産業省により近代化産業遺産に認定されていて、歴史上かなり貴重な鉄道遺産といって良いだろう。
【日光線の旅⑥】秋にはそばの白い花が咲く鹿沼駅近く
日光線は駅と駅の間がかなり離れている区間が多い。特に鶴田駅から次の鹿沼駅までは9.5kmもある。鶴田駅近くまでは民家が建ち並んでいたものの、すぐに田畑が広がり始め、鹿沼駅が近づいてくると再び民家が連なるようになる。こうした移り変わる車窓風景が日光線らしい。日光線の沿線は近年、宇都宮市の通勤・通学路線としての役割が強まっているが、一方で沿線に緑が色濃く残っている。例えば鹿沼駅は西側のみしか駅の入口がないが、反対の東側にはうっそうとした竹林が広がっているのだ。
鹿沼駅を発車して間もなくのそば畑は、秋になると白い花が広がる。車窓からもそばの花と背景に古賀志山(こがしやま)などの低山を望むことができる。日光線では、鹿沼市の北隣の日光市にある100店以上の手打ちそば店により「日光手打ちそばの会」というグループを作りPR活動をしている。鹿沼市から日光市にかけて広がる畑で育ったそばが実る晩秋(夏に刈る品種もあり)からは新そばが提供される時期ということもあり、日光線を訪れたら昼時はぜひそばを賞味したい。
【日光線の旅⑦】文挟駅の裏手に続く例幣使街道とは?
沿線の風景を楽しむうちに次の文挟駅(ふばさみえき)に到着する。文挟駅という珍しい駅名だが、調べると駅の近くに台地にはさまれた低地があり、そちらをフ・ハザマ(狭間)と言われたことが転化して文挟となったそうだ。この文挟駅の西口駅前には古い杉並木が連なり見事だ。
文挟駅の西口の前には杉並木にはさまれ国道121号が通っている。この道は例幣使街道(れいへいしかいどう)とも呼ばれ、南は鹿沼市と日光市の市境、小倉から北は日光市今市まで13.17kmにわたり美しい杉並木が残っている。
例幣使街道とは、江戸時代に主に日光例幣使が日光例祭に訪れ、例幣を納めるため用に設けられた脇街道のひとつ。京都から中山道を通り江戸に寄らず日光へ向かうアクセス路でもあった。江戸を通れば幕府に挨拶が必要になるわけで、例幣使街道を使えば面倒さが省けたわけだ。朝廷が遣わした例幣使の場合、帰りに江戸を通ることをしきたりにしたが、行き帰りとも例幣使街道を利用することもあったようだ。
江戸時代、朝廷の幕府への気遣いは大変なものだったようだが、その反面、挨拶を受ける側の幕府も用意が必要になるわけで、そのあたりの両者の気遣いがこのような街道を造った裏事情だったのかもしれない。
現在、例幣使街道を含む日光杉並木は、植樹してから400年ほどの約1万2500本の杉並木が見事に残り、日本の史跡の中で唯一、国の特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けている。
【日光線の旅⑧】二宮尊徳が亡くなった地でもある今市の町
文挟駅の次の駅、下野大沢駅(しもつけおおさわえき)と今市駅の間で日光線と東武日光線と交差する。下を日光線の列車が、上を東武鉄道の電車が走るが、「特急日光」や「特急きぬがわ」として走るJR東日本の特急形電車が交差する姿も見ることができる。ここから日光までは、両路線がほぼ並行して走る区間となる。
さて、東武日光線の路線を上に見ながら着いたのが今市駅だ。駅は日光市今市の南の玄関口にあたる。同駅の北側700mほどに東武日光線の下今市駅があり、ここから鬼怒川温泉駅方面へ、また野岩鉄道(やがんてつどう)、会津鉄道を経て会津若松まで線路が延びている。
対してJR今市駅のにぎわいはそれこそ〝いまいち〟なのだが、この駅は閑散としている反面、駅前から日光駅方面には雄大な山々を望むことができる。この先からは山景色が美しい区間となる。
その前に今市の歴史に関して一つ触れておきたい。同町内には二宮尊徳記念館が設けられている。二宮尊徳といえば多くの小学校に薪の束を背負って本を読みながら歩く姿の銅像が残るが、この尊徳は70歳でこの今市で亡くなった。尊徳は今で言うところの篤志家で、晩年は災害や飢饉で苦しむ関東各地を巡り農村復興政策を指導している。それこそ八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍で貧しい農民たちの暮らしを助ける役目に献身した。今市では日光の神領で農村復興への道筋を立てるべくさまざまな施策をおしすすめていたが、病に倒れ今市の報徳役所で亡くなった(現・二宮尊徳記念館内)。
二宮尊徳も歩いたであろう日光杉並木が今市から日光方面へ延びている。この西側に並行するように日光線の線路が延びている。
【日光線の旅⑨】男体山と女峰山の姿見たさに通ってしまった
今市駅を発車すると間もなく広々とした田園風景が車窓左側に広がる。進行方向、右手には日光杉並木と日光街道が望むことができる。
今市駅から日光駅までの最後の一駅区間は、天気に恵まれると前方に山々が連なる景色が楽しめる。日光連山を代表する山々で、左手から男体山(なんたいさん)、中央に大真名子山(おおまなこさん)に小真名子山(こまなこさん)、右手に女峰山(にょほうさん)と連なって見える。
山景色は平野部が晴れていても山頂部に雲がかかることがあり撮影が難しい。筆者は同じポイントを3回訪れたが、最初の時は雲一つなかったが、2回目は山に雲がかかり断念、3回目は少し雲が出ていたものの山景色が無事に拝めた。この区間の眺めは日光線を代表する美景だと思う。
お気付きかも知れないが男体山は男、女峰山は女の文字が含まれる。男体山、女峰山は関東を代表する高山で、古くから神が宿る山として尊ばれ男女一対の名が付けられたとされる。女峰山は日光連山では最もとがった外観を持つそうだ。中間部にそびえる大真名子山、小真名子山は男体山、女峰山という両親の子どもにあたる山とされ、そのために両峰ともに「まなこ(愛子)」という名が付く。両山は「まなご」と濁って読まれる場合もある。昔の人は巧みで粋な名前を4つの山に付けたものだと感心させられる。
【日光線の旅⑩】美しい駅舎が〝映える〟JR日光駅
美しい山々を眺めつつ日光駅に到着した。初めて訪れた時には、この駅の建物の美しさに驚かされた。和洋折衷の建築で厳かな趣が感じられる。
駅にはホーム側に貴賓室(非公開)、階段を上ると建設当時の一等車利用者用待合室「ホワイトルーム」があり(見学可能)、年代物のシャンデリアがつり下げられる。開業のころのものかと調べると、1912(大正元)年8月に建てられた2代目駅舎だった。2代目とはいえ、111年前に建てられたものと古い。ネオ・ルネサンス様式の木造2階建て洋風のたたずまいの駅舎で、栃木産の大谷石を多用している。
2007(平成19)年に発見された棟札から鉄道院技手・明石虎雄(あかしとらお)の設計したものと判明した。建築後に何度か改装されているものの、貴重な駅舎建築ということもあり、国の近代化産業遺産に認定され、関東の駅百選に選ばれている。
日光駅を訪れ、駅構内が撮影できないかと探し歩いたら南側にうってつけの跨線橋が見つかった。そこにはファミリーらしき先客があった。橋の名称は明らかでないが、スリリングなレトロ跨線橋としてSNS等で発信されているようだ。今の時代にはあまり見かけない古いレールで組まれたもので、橋の上からは天気に恵まれれば日光連山を望むことができる。昭和中期に設けられたものとのことで現代の跨線橋よりも幅が狭く、覆いも無く風が吹き抜けるつくりで渡るのもやや怖い。高所恐怖症の筆者は撮影を終えて早々に引き上げたのだった。
【日光線の旅⑪】かつて路面電車が走っていた日光市内
最後に日光駅前から日光東照宮方面に走っていた路面電車に関して触れておこう。路面電車が消えたのは1968(昭和43)年2月25日のことと古い。廃止当時は東武日光軌道線という名前だったが、開業は東武鉄道の東武日光線が開業するずっと前のことだった。
開業は1910(明治43)年8月10日のことで日光電気軌道により路線が造られた。路線は日光駅を起点に馬返駅(うまがえしえき)までで、終点では日光鋼索鉄道線と接続、同線のケーブルカーを利用すれば明智平ロープウェイの明智平駅へ行くことができた。
日光軌道線は一般観光客の輸送だけでなく、沿線にあった古河電気工業の日光事業所まで貨物列車が走っていた。国鉄日光駅から貨車を引き継ぎ電気機関車が牽引したそうで、日光東照宮近くの神橋付近までは最大58パーミルというとんでもない急勾配を上り下りしたそうだ。
もし、日光に路面電車が残っていたら便利だったろう。貨物列車が急勾配を走る様子は観光客が賑やかに闊歩する今の街道筋から想像できないが、この目で見たかったものである。