ワールド
2017/3/31 10:00

【クイズ】実は世界有数の偉人輩出国! サッカー選手以外の「有名なポーランド人」を何人いえる?

突然ですが、クイズです。ポーランド出身の著名人、何人いえますか? おそらく、ひとりも思い浮かばない方もいるのではないでしょうか。

 

しかしポーランドは、誰もが知る著名人や文化人を多く輩出してきた世界有数の国なのです。

 

最近の著名人であれば、現在バイエルンミュンヘンで活躍するサッカー選手で日本でも話題になったロベルト・レバンドフスキ、「戦場のピアニスト」の映画監督 として一躍有名となったロマン・ポランスキー、同じく映画監督で親日家としても広く知られるアンジェイ・ワイダ、そして第264代ローマ教皇のヨハネ・パ ウロ2世などがいます。

 

サッカーの話題で盛り上がることの多いいま、選手以外の有名なポーランド人を知っておくと一目置かれるようになるはず。本稿では、学校の教科書で見たあの人物や知る人ぞ知る歴史に名を残した著名人6人をピックアップ。このうち一体何人いえるか、カウントしてみてください。

 

【その1】ニコラウス・コペルニクス(1473〜1543年)

image4
↑painted by Jan Matejko

 

ガリレオに先立って、天動説を覆す地動説を唱えた天文学者コペルニクス。彼の生まれた街トルンは現在世界遺産となっており、生家は旧市街の一角に今もなお建っています。彼は18歳の時に当時ポーランドの首都であったクラクフへ移り住み、ポーランド最古の大学であるクラクフ大学(現ヤギェウォ大学)で天文学を4年間学びました。

 

コペルニクスが唱えた地動説とは、地球は太陽の廻りで円運動をしているとするもの。しかし、この時代にキリスト教が否定する地動説を唱えるということは、ガリレオと同じく宗教裁判にかけられ異端の烙印を押されることを意味しました。

 

カトリック教会の聖職者でもあったコペルニクスが生前に堂々と地動説を主張することはありませんでしたが、彼の死後、主著「天体の回転について」が出回ります。そして晴れて地動説が認められたのは、死後100年以上も経ってからでした。

 

【その2】フレデリック・ショパン(1810〜1849年)

↑reprint of photo of Chopin made by Louis-Auguste Bisson in 1849 (public domain)
↑reprint of photo of Chopin made by Louis-Auguste Bisson in 1849(public domain)

 

ショパンといえば、日本人がもっとも愛するクラシックの天才。フランス人の父とポーランド人の母を持つショパンは、ポーランドが他国によって不当に分割され、地図上には存在しないという苦難の時代のワルシャワに誕生しました。

 

音楽の才能あふれる一家のもとで育ったショパンは、7歳のときにはふたつのポロネーズを作曲し、11歳の時には議会のためにワルシャワに来ていたロシア皇帝の前で御前演奏会を開いたといいます。

 

しかし、19世紀のヨーロッパは各地 で起こる革命による混乱のまっただなか。ショパンは音楽家としての人生の大半を亡命先であるフランスですごすことになりました。それでも彼の多くの作品に表れるポーランドへの強い愛国心を知れば、彼がフランス人であるかポーランド人であるかなどはもはや議論するまでもありません。

 

【その3】ヘンリク・ヴィエニャフスキ(1835〜1880年)

↑reprint of photo made by Fritz Luckhardt(public domain)
↑reprint of photo made by Fritz Luckhardt(public domain)

 

ヴァイオリンのショパンともいわれるヴィエニャフスキも、ポーランドが誇る偉大な作曲家。巧みな演奏で世界中の人々を魅了した凄腕ヴァイオリニストでもあり、 ヴィエニャフスキという名前を知らずとも彼の作曲した「華麗なるポロネーズ第1番ニ長調」は多くの人が一度は聞いたことのある名曲です。

 

ポー ランドの都市ポズナンでは、世界4大ヴァイオリン・コンクールのひとつであるヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールが5年に一度開催されます。日本人ヴァイオリニストは常連であり、2016年の第15回コンクールではなんと出場者の20%が日本人を占めました。第6回からは必ず、日本人が入賞してい ます。

 

【その4】ヘレナ・ルビンスタイン(1872〜1965年)

↑Library of Congress Prints and Photographs Division Washington (public domain)
↑Library of Congress Prints and Photographs Division Washington(public domain)

 

メイクが好きな女性であれば、化粧品会社ヘレナルビンスタインのコスメを使っている人も多いでしょう。彼女は18歳でオーストラリアに移住し、後にアメリカの実業家となって世界有数の大富豪へと上りつめましたが、彼女がユダヤ系ポーランド人だったことはあまり知られていません。

 

生 まれ育ったポーランドのクラクフから持参した美容クリームがたまたま移住先のオーストラリアで大ヒットし、スキンケアを主としたビジネスを展開したヘレナ。原価の安いクリームを高級品として売り、事業が成功すると次はメイクアップ商品を売り出すようになりました。

 

化粧品会社ヘレナルビンスタインを立ち上 げ、華やかな人生を歩んだ彼女はまさに女性の憧れ。ちなみに、現代の女性達が愛用するスティック型マスカラを発明したのも彼女です。

 

【その5】マリー・キュリー(1867〜1934年)

↑reprint of portrait of Maria Skłodowska-Curie(public domain)
↑reprint of portrait of Maria Skłodowska-Curie(public domain)

 

キュリー夫人の名でよく知られるマリー・キュリーは、ノーベル物理学賞とノーベル化学賞をそれぞれ受賞した研究者です。ワルシャワの下級貴族のもとに生まれた彼女は、有能な研究者かつ教職者である父と女学校の校長を務める母を持つエリート一家のもとで育ちました。

 

しかし、彼女の時代のポーランドはポーランド立憲王国と呼ばれる帝政ロシアの衛星国であり、帝政ロシアは知識人を抑圧していたために一家もその犠牲を受けることになります。

 

14歳で深刻な鬱状態になるほど苦しい少女時代を経て、将来はポーランドに戻ると決意しながら24歳の時にパリへ留学したマリー (結婚前なのでまだ夫人ではありません)。その2年後には物理学の学士資格を取得し、後に放射能の研究において大いに活躍しました。

 

キュリー夫人は女性蔑視の時代にノーベル賞を二度も受賞し、パリ大学初の女性教授職に就任したりと多くの女性初を成し遂げています。

 

【その6】ヤヌシュ・コルチャック(1878〜1942年)

↑public domain
↑public domain

 

小児科医であり、教育者でもあったコルチャックは、日本ではコルチャック先生と呼ばれています。ワルシャワの裕福なユダヤ人弁護士の家に生まれた彼は、 ワルシャワ大学で医学を学び小児科の専門医となりました。医者である傍ら執筆活動にも専念し、その副収入は貧しい子どもたちを保護するために惜しげもなく使われたといいます。

 

日露戦争と第一次世界大戦においてはロシア軍医として、1920年のポーランド・ソビエト戦争ではポーランド軍医として活躍し、1939年には第二次世界大戦の戦渦に巻き込まれたコルチャック先生。ユダヤ人として迫害されてもなお、子どもを守り続けましたが、1942年 には孤児達とともに強制収容所へ送られそこで命を落とします。

 

そんな彼が1929年に発表した子どもの権利の尊重案は、ポーランド政府の提案によって児童の権利条約となり国連総会で採択、子どもの権利条約の原型となりました。

 

上記の6人中、自信を持って「知っていました!」といえるのは何人でしたか? 全員いえた人は、相当の知識人。記憶力を誇っていいレベルです。コペルニクスを除くとみな19世紀に誕生していますが、この時代には他にも多くのポーランド人が活躍しています。いま一度、立派に活躍した偉人達に拍手を送りましょう!