全国を走る路面電車の旅 第4回 東急電鉄世田谷線
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かつて“玉電”の名で愛されていた電車があった。耳に優しく、それでいて、ややコケティッシュな印象すらあった“タマデン”というニックネーム。今も地元に住む60歳代以上の人たちの脳裏には、国道246号上をとことこと走る“玉電”の姿が深く刻まれている。
世田谷線は玉電のその一支線だった路線だ。国道を走る併用軌道区間は、高度経済成長下の昭和期に廃線となったものの、いまも世田谷線に乗ると路面電車ならではの“のんびりとした雰囲気”が味わえる。世田谷線の沿線だけでなく、“玉電”沿線だった街中に残る遺構探しも面白い。
【歴史】都心に砂利を運ぶために誕生した玉電
三軒茶屋と下高井戸を結ぶ東急世田谷線。全線が専用軌道で、路面電車タイプの300系電車が走っている。地元の年輩などは、世田谷線という路線名よりも、“玉電”というかつての愛称に強い愛着を持っている人が多い。
“玉電”は1907(明治40)年、渋谷と玉川間が開業。この路線を開業させたのが玉川電気鉄道だった。多摩川の砂利を都市部に運ぶ役割が大きかった電車だ。次第に路線網を拡大し、1925(大正14)年に現在の世田谷線を開通させた。会社名は玉川電気鉄道だったが、当時の路線図にもあるように玉川電車と略して呼ぶことが多かった。この玉川電車をさらに縮めた言葉が“玉電”である。玉川電車と呼ぶより“玉電”の略称がより親しまれたわけだ。
その後、1936(昭和11)年に東京横浜電鉄(のちの東急電鉄)が傘下におさめ、戦後は東急玉川線・世田谷線となった。高度成長期、玉川線が走った国道246号はクルマの通行量も増大。高速道路の建設計画もあったことから、惜しまれつつも1969(昭和44)年に玉川線や砧線は廃止されることになり、“玉電”は世田谷の一角に押し込められる形となった。
【車両】10色10編成のカラフル300系が走る
走行距離はわずか5kmのみの世田谷線だが、走る車両は華やか。形式は300系、2両1編成、2両の中間の台車がある連接車だ。床が低い低床車両で、乗り降りがラクな造りになっている。
現在は10編成が導入され、全編成の色が異なる。301編成は玉電の伝統色「アルプスグリーン」、302編成は「モーニングブルー」という具合で、赤青黄緑……と、まるでカラフルな御花畑のような華やぎに満ちている。
電車が走る世田谷区は花づくり活動を支援していることもあって、四季折々の花々と華やか色の電車たちが通る風景は絵になる。
【沿線風景】安静の大獄の両主役がすぐ近くで眠る
全駅が世田谷区内ながら、沿線には興味深いポイントも多い。
まずは歴史探訪から。江戸時代の世田谷には各藩藩主らの別邸があった。現在の松陰神社(松陰神社前駅から徒歩約3分)は元長州藩主の別邸跡。高杉晋作ら門人が吉田松陰の墓を改葬し、松陰を祀った神社が現在の松陰神社だ。
安政の大獄(1858年~)の際には弾圧する側だった、井伊直弼の墓は豪徳寺(宮の坂駅から徒歩約3分)にある。弾圧した側、された側の墓が同じ世田谷線の至近距離(その距離わずか約900m)にあるというのも面実に興味深い。
鉄道ファンとして面白いのは、環七通りと世田谷線が交差する若林踏切だろう。電車優先ではなしに、交差点の信号に合わせて電車が進行するのが路面電車の路線らしいところだ。
やや世田谷線の話題から脱線するが、かつて“玉電”が走った路線の遺構探しもなかなか興味深い。例えば、二子玉川駅・玉川高島屋の北側を支線の砧線が走っていたこともあり、二子玉川駅近くには中耕地駅跡がある。細いいかにも電車が走りそうな通りの横に駅跡の石碑が残っており、「ファッショナブルな街中のこんな所に“玉電”が走っていたのか」と思うと、とても感慨深い。
こうした興味深い所が点在する世田谷線と旧玉電の路線跡、ゆっくり沿線散歩をしてみてはいかがだろう。
【TRAIN DATA】
路線名:世田谷線
運行事業体:東急電鉄
営業距離:5.0km
軌間:1372mm
料金:150円(全線均一)*ICカード利用144円
開業年:1925(大正14)年
*前身の玉川電気鉄道が三軒茶屋〜下高井戸間を開業