米プロバスケットボールNBAでは現在プレーオフが進行中。6月のNBAファイナルへの出場権をめぐって激しい戦いが繰り広げられている。日本のファンにとって今シーズンのNBAといえば、メンフィス・グリズリーズと2way契約を結んだ渡辺雄太の活躍も記憶に新しいところ。また夏のNBAドラフトでは八村塁(ゴンザガ大)の上位指名も有力視されている。日本とNBAの距離がこれだけ近づくのは、一昔前には想像すらできなかったことだ。
今回は、日本では昭和から平成へと時代が移り変わったちょうど30年前の1989年のNBAを彩った名作バッシュを5種ピックアップ。当時のNBAの空気と、日本との距離を振り返りたい。
令和時代を迎えた今、敢えて30年前のモデルで「差」をつけてみてはいかが?
[01]
殺人事件が発生した人気種も意外や日本では…
ナイキ(NIKE)
Air Jordan 4
実売価格 2万7000円
マイケル・ジョーダン(当時シカゴ・ブルズ)はこの年、3年連続の得点王。優勝こそ逃したものの、プレーオフ1回戦、クリーブランド・キャバリアーズとの第5戦の残り3秒から決めた「ザ・ショット」はその後の語り草となった。米国内でジョーダンの最新シグニチャーモデル 「Air Jordan 4」が強奪される殺人事件が発生するなど、その人気はいよいよ全米規模に。だが当時の日本ではNBA、そしてジョーダンの認知はまだまだ低く、ナイキも「Air Jordan 4」も国内での正規販売を見送ったほどだ。
[02]
“足元”からNBAを制していたコンバース
コンバース(CONVERSE)
ERX 400
実売価格 1万2600円
当時の大スター、マジック・ジョンソン(当時ロサンゼルス・レイカーズ)は1988-89シーズン、コンバースの「ERX 400 HI」を履いて躍動。一試合平均22.5得点、12.8アシスト、7.9リバウンドの成績を残しレギュラシーズンMVPを獲得したが、NBAファイナルではデトロイト・ピストンズに0勝4敗で完敗を喫する。実はこのときの対戦相手だったピストンズの司令塔アイザイア・トーマス、そして同年のスラムダンクコンテストで優勝したケニー・スカイ・ウォーカー(ニューヨーク・ニックス)もまたコンバース「ERX 300」を着用している。30年前、コンバースは“足元”からNBAを制していた。
[03]
“悪童”デニス・ロッドマンが履き、そして放り投げた
ナイキ(NIKE)
Air Revolution
実売価格 8640円
1989年当時、ナイキ(ジョーダンブランド)はまだ現在のように圧倒的な存在ではなかった。先に触れた1989年のNBAファイナルでもレイカーズ、ピストンズの各選手が、確認できるだけでも8社のバッシュを着用している(この中には、当時のNBAではかなり珍しかったアシックスを履いたレイカーズのガード、マイケル・クーパーも含まれる)。
のちにブルズに移籍して日本でも人気者となったデニス・ロッドマンは当時“バッドボーイズ”の異名で恐れられたピストンズの一員。彼がこのファイナルで着用したのはナイキのバッシュで初めてビシブルエアを搭載した「Air Revolution」(1988年発売)。だがこのシリーズで知名度を上げたロッドマンは翌年リーボックと契約し、同社の展開した比較広告キャンペーン「Pump Up, Air Out」に出演。こともあろうにCM中で堂々とナイキのバッシュを放り投げた。
[04]
群雄割拠のシーンを象徴する1足に
プーマ(PUMA)
Palace Guard
実売価格 1万7280円
優勝によって有利なシューズ契約を勝ち取ったのはロッドマンだけではなかった。ピストンズのアイザイア・トーマスは、1989年のシーズン終了後プーマと5年契約を締結し、専用モデルを着用。だがこの契約はうまくいかなかったようで、わずか1年後、トーマスはアシックスと新たな契約を締結している。
おりしも日本ではバブル経済の絶頂期。アシックスはトーマスに加え、有望な若手のチャールズ・スミス(ロサンゼルス・クリッパーズ)とも契約。また日本ブランドのもう一方の雄ミズノも、衝撃吸収システム「トランスパワー」を搭載したシューズのプロモーションのため、身長168cmのダンク王、スパッド・ウェブ(アトランタ・ホークス)と契約。CMの『小さかったら高く飛べ』のコピーも反響を呼んだ。
選手もメーカーも激しく動いた“群雄割拠”ともいえる時代を象徴する、プーマのバッシュ。それが「Palace Guard」なのだ。
[05]
ベルリンの壁が崩壊。NBAの歴史も大きく変わった
ナイキ(NIKE)
Air Flight 89
実売価格 2万2408円
当時のナイキのバッシュは、スピード系選手向けの「Air Flight」とパワー系選手向けの「Air Force」シリーズが2枚看板。「Air Jordan 4」のタンに「Flight」ロゴが挿入されたことからもわかる通り、「Air Jordan」はまだナイキの主力バッシュとは言えなかった。「Air Flight」シリーズを愛用した選手は数多いが、なかでも印象的なのは、この年にNBA入りしたクロアチア(当時ユーゴスラビア)出身のドラゼン・ペトロヴィッチ(当時ポートランド・トレイルブレイザーズ)。
ベルリンの壁が崩壊したこの年、ペトロヴィッチのみならずシブラデ・ディバッツ(ユーゴスラビア→ロサンゼルス・レイカーズ)、シャルナス・マーシャローニス(リトアニア→ゴールデンステート・ウォリアーズ)ら旧共産圏の選手が相次いでNBA入りを果たし、バスケの国際化に大きな役割を果たした。だが日本人初のNBA選手の誕生は、2004年の田臥雄太(フェニックス・サンズ)を待たなければならなかった。