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2019/6/15 17:00

招き猫電車が復活!都内を走る珍しい路面電車「東急世田谷線」10の謎

おもしろローカル線の旅43 〜〜東急世田谷線(東京都)〜〜

東京都内には2本の路面電車の路線が残っている。1本は都電荒川線で、もう1本が東急電鉄が運行する東急世田谷線(以下「世田谷線」と略)だ。

 

世田谷線は世田谷区内のみを走るわずか5kmの路線だが、訪れて楽しい名所が多く点在する。人気の招き猫電車も復活。さらに魅力が高まった。そんな世田谷線を乗って歩いて、浮かびあった謎解きの旅を楽しんでみよう。

 

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↑世田谷線を走る車両はすべてが300系。10編成が走り、みな車体カラーが異なる(詳細後述)。写真は305編成で色はチェリーレッド。このような華やかなカラーが世田谷の街を彩っているように感じる

 

【世田谷線の謎①】なぜ路面電車の路線がここに残ったのだろう?

まずは路線の概要を見ておこう。

路線と距離東急電鉄世田谷線/三軒茶屋駅〜下高井戸駅5.0km
開業1925(大正14)年1月18日、玉川電気鉄道が三軒茶屋駅〜世田谷駅間を開業、同年の5月1日に下高井戸駅まで延伸
駅数10駅(起終点を含む)

 

東急電鉄の世田谷線。その前歴を知る人も少なくなっているのではないだろうか。なぜ、5kmのみの路面電車の路線が残ったのだろう。まずは世田谷線の歴史をひも解いてみよう。

 

世田谷線を敷設した会社は玉川電気鉄道という会社だった。同社は1903(明治36)年の創設、1907(明治40)年に渋谷〜玉川間の路線を開業させている。

 

下記は往時の玉川電気鉄道(玉川電車)の路線図だ。都内は天現寺橋や中目黒まで、郊外は溝ノ口、砧、そして下高井戸まで路線が延びていた。

 

↑玉川電気鉄道の昭和10年ごろに発行の沿線案内。世田谷線を見ると当時の駅は12と今よりも多かったことが分かる。戦時色が徐々に強まっていった時代背景もあり、沿線には学校とともに軍関係の施設が多かった(筆者所蔵)

 

玉川電気鉄道は、図にもある玉川電車という名も名乗ったが、「玉電(たまでん)」という愛称の方がより親しまれていた。

 

玉電は多摩川の砂利採取のために造られた路線だった。その砂利採取が1934(昭和9)年に禁止となる。その後に、経営権が現在の東急グループを創始した五島慶太氏の手に移る。1938(昭和13)年に合併、1942(昭和17)年には東京急行電鉄と会社名が変更され、東京急行電鉄の玉川線となった。玉川線だったころには渋谷駅と下高井戸駅間に直通電車も走っていた。

 

玉電の路線は道路上に設けられた併設軌道の区間がほとんどだった。昭和30年台以降、日本は高度成長期を迎える。車が浸透していき、幹線道路はどこも大渋滞していくようになる。となると邪魔者扱いとなったのが路面電車。各地の路面電車が次々に消えていった。

 

↑廃止間近の東急玉川線の大橋電停で。現在の田園都市線の池尻大橋駅よりも渋谷側に電停が設けられていた。当時の車両は入口の階段が結構、急だったことが見て取れる。車体に書かれたT.K.K.(東京急行電鉄)の文字も今となっては懐かしい。写真:星川功一(下記も)

 

↑目黒区大橋にあった玉電大橋車庫には廃車予定の車両が集められていた。中央は流線型高性能電車として一世を風びしたデハ200形。「ペコちゃん」という愛称で親しまれた。現在は東急田園都市線の宮崎台駅にある「電車とバスの博物館」で1編成が保存されている

 

東京も例外ではなく、都電はその多くの路線が消えていった。玉電も主要区間である渋谷〜玉川(廃線当時は二子玉川園)区間は国道246号という、都心と神奈川県下を結ぶ幹線道路の上を走っていた。首都高速道路の建設計画もあり1969(昭和44)年5月11日に、現在の世田谷線の区間を除き廃止となった。

 

ちなみに玉電の渋谷駅〜二子玉川駅が廃止された後の1977(昭和52)年に地下化した新路線が誕生している。そして同区間は新玉川線と呼ばれている。

 

話は戻るが、なぜ世田谷線のみ元玉電が残ったのだろう。この路線は、ほぼ全線が道路上を走らない専用軌道で造られていた。車の通行の妨げないことが、世田谷線の延命という結果に結びついたわけである。

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