一生懸命努力すれば、叶わない夢はない。そう信じて勉強や運動に取り組んだ人は多いだろう。私は子どものころ鉄棒が苦手で、逆上がりさえできなかった。担任の先生は優しい人で、「毎日練習すれば、必ずできるようになるからね」と励まし、放課後の居残り練習にも付き添ってくれた。しかし、残念ながら、私はとうとうできるようにはならなかった。先生は悔しそうに「もう、十分頑張ったから」と、放課後の練習は終了となった。
『一八〇秒の熱量』(山本草介・著/双葉社・刊)を読んでいると、鉄棒にしがみついた日々が思い出される。人は夢が叶うまで努力を続けるべきなのか、それとも、あきらめることも必要なのか……。
定年が迫るボクサー・米澤重隆
『一八〇秒の熱量』は、33歳でプロデビューした後、必死の努力を続け、チャンピオンを目指したボクサーの話だ。主人公の名は米澤重隆。元々は、青山学院大学でレスリングの選手として活躍しており、ボクシングジムに入門したのもレスリングの技を磨くためだった。ところが、突如転向を決意してプロボクサーとしてデビューする。この時、引退まであまり時間がないことを彼はどの程度意識していたのだろう。
日本のプロボクサーには三七歳で引退という年齢制限があるため、彼がリングに立てるのはあと九ヶ月しかない。(中略)米澤が始めた挑戦は、その九ヶ月以内に日本チャンピオンになるということだった。なぜなら、日本のプロボクシングのルールでは、チャンピオンには年齢制限がないからだ。つまり、三七歳以降プロとしてボクシングを続けたければ、チャンピオンになるしかないのだ。
(『一八〇秒の熱量』より抜粋)
米澤はその始まりから、厳しい状態にいたことになる。
米澤重隆を見つめる男たち
米澤をボクシングの世界へ誘ったのは、青木ボクシングジムの小林昭善トレーナー。試合勘と根性があると見込んでのことだ。ジムの会長である有吉将之も、米澤の真面目さに打たれ応援しなくてはと思うようになっていく。米澤には人をその気にさせる何かがあるのだろう。
『一八〇秒の熱量』の著者・山本草介も米澤に引き寄せられていった一人だ。彼はフリーランスの映像作家として活躍しており、「プロフェッショナル 仕事の流儀」「情熱大陸」など、多数のドキュメンタリー作品で知られる。山本は米澤にはりつくように取材し、番組を作ろうと決める。
山本が米澤を取材すると決めた一番大きな理由は、彼の置かれた状況にあった。米澤は既に36歳3か月になっており、引退まであとわずか9か月を残すのみ。それまでに日本チャンピオンにならなければ引退せざるをえない状況で、いわば崖っぷちに立っていた。普通に考えれば、一発逆転を狙った無謀な挑戦だが、それだけに、もし夢を叶えたら、「頑張れば思いは通じる」と視聴者に強く訴えることができる。
一方で、山本は取材対象となる米澤を冷静な目で見つめていた。
テレビドキュメンタリーは、非情なまなざしを持つ。彼が日本チャンピオンを目指すという無謀な挑戦をしているから、それを応援しようということで企画が通ったとしても、取材を始めるにあたってどれだけの人間が彼の夢が叶うと思っていただろうか。かくいう僕も、正直難しいのだろうなと想像していた。むしろ、このドキュメンタリーは米澤の挑戦がどのように終わるのかにかかっていると思っていた。
(『一八〇秒の熱量』より抜粋)
確かにその通り。現実は人の夢の前に立ちはだかり、「そんなにうまくいくわけないでしょ」と、あざ笑うかのような結果に終わることも多い。それでも、男達はあきらめなかった。小林トレーナーや青木会長は米澤をチャンピオンにしようと躍起になり、米澤はそれにこたえようとする。
山本までもが、取材を続けていくうちに、番組を作るだけでは満足できなくなっていった。言い残したことがあるようで、さらに米澤に熱い視線を注ぎ続ける。その結果、出来上がったのが彼にとって初めての著書『一八〇秒の熱量』だ。
誰かに頼まれて書いたわけではない。ただ、書くのをやめることができなかった。挙げ句の果てに、本業をほったらかしにしてまで書き続けた。
やがて書き終わった時には貯金は尽き、生後三ヶ月の娘を抱えた嫁さんが、家のガスが止まったのを知って、僕と結婚しなければよかったと思ったらしい
(『一八〇秒の熱量』より抜粋)
不思議なボクサー・米澤重隆
これほどまでに、周囲の人間を巻き込む米澤重隆とは、いったいどんな人物なのだろう。私の興味はそこに絞られた。チャンピオンの器を持っているのか、ボクサーとしての戦績はどうかというより、彼がいったいどんな生活をしているのか、夢を追うとはどういうことなのか、知りたくてたまらなくなった。そして、思った。やはり米澤というボクサーには他の人にはない何かがある。
山本は、米澤には「いつ訪れるかわからない死」が刷り込まれていると考えた。最初の刷り込みは、米澤がまだ高校生だったころに起きた。レスリングの選手だった米澤は、インターハイのベスト8がかかった大事な試合に参加することになった。その時、米澤はまだ1年生だったが、大巨漢を相手に見事フォール勝ちを決めた。おかげでチームは勝利し、先輩の一人が信州大学に入学できることになった。「よねのおかげで、大学行けたよ」という感謝の言葉を聞き、米澤も心底うれしかった。
ところが、ここに信じられないようなことが起こる。喜んで進学した先輩は、オウム真理教による松本サリン事件で亡くなったのだ。まだ19歳だった。もちろん、米澤のせいではない。しかし、彼は自分を責めた。自分が勝たなかったら、彼は信州大学へは進学せず、死なずにすんだかもしれない。
それから5か月後、もうひとつの事件が米澤を襲った。同じレスリング部の後輩が、突然、命を絶ったのだ。試合に負けてがっかりしている後輩を「また来年、頑張ればいいんだよ」と、米澤は励ました。それがいけなかったのだろうか。なぜもっと親身になってやらなかったのだろう。彼は激しく後悔し、それからさらに死を意識する人間として生きていくようになる。
背広に着替えたボクサー
米澤の取材を始めてすぐ、著者は彼のもうひとつの生活を知る。社会人として働く姿だ。ボクサーとして、朝早くから激しい練習をした後、米澤はスーツに着替えて出社する。勤め先は世に言うコールセンターだ。ボクサーとして食べていけない状態だから、当然と言えば当然だ。しかし、その働き方が尋常ではない。契約社員という立場で、通信設備のメンテナンスをしているのだが、働きぶりは真面目そのもの、同僚が舌をまくほど徹底的だ。おまけに就業時間は不規則で、夜中でも働き続ける。会社で仮眠を取りながらの労働だ。
それでも、彼は文句も言わず、淡々と仕事をこなしていく。食事も「これは食べ物か?」と、問いたくなるほど奇異な弁当だけだ。体重制限があるため、おかずは茹でた鶏の胸肉に青汁とワカメスープの粉末をかけ、湯を注いだものだ。主食はレトルトの玄米。この献立を昼も夜もひたすらに続ける。しかも、「全然、飽きないっすよ。旨い」と、喜びながらかみしめるのだ。
不思議な人だ。でも、惹きつけられる。死を意識しながら生きる男は、生き残ろうと必死になりながら、緑色のスープに浸かった鶏の胸肉をほおばる男でもある。
そんな米澤も恋をする。みな子さんという素敵な女性と巡り会ったのだ。彼女のためにも勝たねばならない。ぼろぼろになっても勝つしかない。しかし、タイムリミットまで、あとわずか……。
結局、彼は定年に間に合ったのか? 夢をつかみ取ることができたのか? 恋の行く末も気になるところだ。それは、『一八〇秒の熱量』を読んで、確かめてみて欲しい。ただ、37歳の誕生日をリングの上で迎えたことだけはお伝えしておきたい。
巻末には、米澤自身と著者と担当編集者、そして、みな子さんも加わっての対談も掲載され、映像には描かれなかった米澤の姿が描き出されているのも興味深い。
人を殴るのが嫌いだと言う優しすぎるボクサー。こういう人生もあると知っただけで、なぜか私まで、あきらめた夢を追いかけたくなる。「逆上がり、もう一度、挑戦してみようかな」と思ったりしたのも、彼のおかげだ。
【書籍紹介】
一八〇秒の熱量
著者:山本草介
発行:双葉社
NHKドキュメンタリーに取り上げられて大反響。感動と興奮のタイムリミット・ノンフィクション。引退を回避するためには日本チャンピオンにならなければならない。契約社員のB級ボクサー・米澤重隆の命を削る激闘が始まる。スピードもテクニックもスター性もない。だが、愚直に闘い続ける米澤の姿に、ただ心が震えるーー。