『美代子阿佐ヶ谷気分』(安部慎一・著/ワイズ出版・刊)は、70年代に活躍した漫画家、安部慎一の短編集だ。この短編集を元に、2009年には映画化もされたので、知っている方も多いのではないだろうか。
安部慎一という天才
安部は、1971年にガロでデビュー。天才劇画家として注目され活躍していたが、32歳のときに統合失調症を発症。以後、数度の入退院を繰り返し寡作となる。その後生まれ故郷である福岡県田川市で、妻の実家の仕事をしているはずだが、ここ数年は作家として活動しているという話は聞かない。
『美代子阿佐ヶ谷気分』というタイトルにもある「美代子」とは、安部が高校生のときから付き合っている女性。後の妻である。出会ったのは安部が高校2年生のとき。美代子は高校1年生だった。
その後上京し、一緒に暮らす。『美代子阿佐ヶ谷気分』をはじめ、安部の作品のほとんどは、その美代子との生活が描かれている。そのため、私小説的な側面が強い。
美代子を描くために漫画を描く
安部の作品の特徴といえば、随所に出てくる美代子の裸体だろう。別な短編集のあとがきで「美代子の裸体は美しかった」と書いているように、安部の漫画を描く動機のひとつに、美代子の裸体を描きたいというものがあったようだ。
安部の描く裸体は、どこかエロティックさが漂う。おそらく美代子をよく観察していたのだろう。情事中の表情や仕草などが印象的だ。
一方、絵のテイストは作品ごとに異なることが多い。発表する雑誌ごとに変えているのか、ただ単に気分でタッチがかわってしまうのかわからないが、つげ義春なども作品ごとにかなり絵柄が違うので、当時の漫画家というのはそういうものなのだろう。
ハッピーエンドもバッドエンドもない日常こそがリアル
安部の作品にはストーリーに起伏がない。どちらかというと、その作品に流れる空気を感じるタイプ。盛り上がるところもないし、明確なオチもない。ふわっと始まりふわっと終わる感じなのだ。当時活躍していたつげ義春や鈴木翁二、林静一などもそんな作風だった。
ただ、逆にそれがリアルに感じる。人が生きている上で、それほどドラマチックなことなんて訪れない。そんな毎日の生活のなかにある、小さなドラマを安部の視点で切り取った。そんな感じだ。
僕だけかもしれないが、そういう作品ほど何度も何度も読み返してしまうことが多い。「努力根性勝利」とは真逆な世界が、僕には向いているようだ。
ハッピーエンドもバッドエンドもない。たまに起きるちょっとしたイベントと、毎日続いていく日常。夢と絶望が交差した若者の鬱屈とした気持ち。そういうものは、時代を超えて共有できるのだろう。おそらく、今から20年後も30年後も、『美代子阿佐ヶ谷気分』を読み返して同じことを思うのだろう。
【書籍紹介】
美代子阿佐ヶ谷気分
著者:安部慎一
発行:ワイズ出版
70年代前半、鈴木翁二、古川益三らと共に当時『ガロ』の作家として人気を博した〝アベシン〟の初期傑作短編作品集。