本・書籍
2021/2/2 6:30

なぜ、彼はエベレストで死んだのか? 登山家・栗城史多の秘密に迫る−−『デス・ゾーン』

世界最高峰の山、エベレストに挑むその姿をライブ配信した登山家は、後にも先にも栗城史多氏ひとりしかしない。山を舞台にしたこのエンターテイメントには多くの人々が夢中になった。うちの夫もそのひとりで、それまでは誰も見たことがない未知の映像に引きつけられていたのだ。

 

デス・ゾーン』(河野啓・著/集英社・刊)は、栗城氏の生い立ちから、なぜ、山を目指すことになったのか、そして、凍傷で9本の指を失いながらもそれでもエベレストを目指し、そして最後には滑落死した彼の真実に迫った一冊で、2020年第18回開高 健ノンフィクション賞を受賞している。

栗城史多のエベレスト劇場

まずは本書の章立てから見ていこう。

 

序幕 真冬の墓地

第一幕 お笑いタレントになりたかった登山家

第二幕 奇跡を起こす男と応援団

第三幕 遺体の名は「ジャパニーズ・ガール」

第四幕 エベレストを目指す「ビジネスマン」

第五幕 夢の共有

第六幕 開園! エベレスト劇場

第七幕 婚約破棄と取材の終わり

第八幕 登頂のタイミングは「占い」で決める?

第九幕 両手の指九本を切断

第十幕 再起と炎上

第十一幕 彼自身の「見えない山」

第十二幕 終演~「神」の降臨~

最終幕 単独

 

著者の河野氏は、北海道放送のディレクターとして、ドキュメンタリー、ドラマ、情報番組を制作。栗城氏の取材は2年に渡ってしていたそうだ。

 

「ボクの理想はマグロです」

「単独無酸素で七大陸最高峰を目指す!」これが登山家・栗城史多のキャッチフレーズだった。が、河野氏がひきつけられたのは別の発言だったという。

 

単独無酸素? 七大陸最高峰? 登山の知識がなかった私にはどうもピンと来なかった。だが、唯一、強烈に引き付けられる記述があった。

「ボクの理想はマグロです。少しの酸素でいつまでも泳いでいられるマグロのような体を作りたいんです」

すごいことを言う人だな、と驚嘆した。山に登る登山家が海の魚を「理想」と語るのだ。

(『デス・ゾーン』から引用)

 

河野氏はすぐさま連絡を取り、取材を開始。そのとき栗城氏は25歳、初印象は、小柄で童顔で人懐っこい笑顔は小動物を思わせたという。

 

カメラは登山道具のひとつ

栗城氏にとってカメラは登山道具のひとつだった。エベレストに挑戦する前に彼は、まずマッキンリーの登頂に成功する。そして頂上でガッツポーズする姿を公開したのだ。

 

「マッキンリーにカメラを持っていったのは、登頂した証拠を残すためでした。(中略)だって、もったいないじゃないですか? こんなに苦労して登っているのに誰も知らないなんて」

登山の過程を自撮りする理由を、栗城さんはそう語った。私は彼の言葉に納得がいった。取材する人間の心情に近い気がしたのだ。

(『デス・ゾーン』から引用)

 

周囲の人々が奇跡だと言ったこの登頂がなければ、栗城氏の人生はまったく別のものになっていたはずだと河野氏は記している。

 

あの植村直己さんが遭難したマッキンリーに登った栗城はすごい! と多くの人は驚いた。が、しかし栗城氏が登ったのは6月。植村さんが登ったのは厳寒期だから、その難易度は雲泥の差と経験豊富なプロの登山家たちは知っていたのだが。

 

七大陸単独無酸素は虚偽表示

栗城氏の登場にはメディアもいっせいに飛びついた。メディアは常に新しいスターを求めているから、ルックスがよく、行動も発言もユニークな彼を「ニートのアルピニスト」として持ち上げるようになっていった。また、栗城氏もエンターテイナーとしての素質を備えていて、人々が飛びつきそうなネタを上手に使っていたようだ。

 

一つ告白しておかなければならない。私は彼のある言葉を、「虚偽表示」や「誇大広告」の臭いを感じながらも、「まあ本人が言っているのだから」と番組の中で垂れ流してきた。

彼が掲げる『単独無酸素での七大陸最高峰登頂』が、それだ。(中略)しかし、それは、彼のいわば「ネタ」だった。どういうことか? そもそも酸素ボンベを使って登るのは、八〇〇〇メートル峰だけなのだ。つまり七大陸最高峰のうち、エベレストのみ。他の六つの最高峰にボンベを担いで登る人間など、端からいないのである。「単独無酸素」と「七大陸」がセットになること自体、ひどく誤解を生む表現なのだ。

(『デス・ゾーン』から引用)

 

夢の共有者たち

それでもネット民たちは栗城氏を絶賛し続けた。「大好きです!」「大注目のヒーロー」「こんな若者を待っていた!」などなど。河野氏は、栗城氏に対しさまざまな疑問を抱き始めた時期に、誰か文句を言っているヤツはいないのか? と検索してみたものの、誰もいなかったと振り返る。

 

殻に閉じこもりがちな若者達は、自身の夢を栗城氏に託すようになっていった。しかし、それが栗城氏を追い込んでいってしまったのも事実だろう。

 

2012年のエベレスト挑戦の時、登頂に失敗し、諦めて下山途中に凍傷を追い、両手の指9本の第2関節から先を失ってしまった。それだけのハンデを背負いながらも、栗城氏はエベレスト登頂を諦めることをしなかった。登山の専門家たちは無理と言っても、彼は耳をかさなかったようだ。

 

エベレスト劇場の最終幕

栗城氏のエベレスト劇場は、2018年5月、エベレストでの滑落死という最悪の悲劇で幕を閉じることになった。本書にも彼の死について多くの人々の意見が記されているが、栗城氏の大学時代のガールフレンドの言葉が胸を打つので引用しておこう。

 

「栗ちゃんはこの社会で同じように生きにくさを感じている人たちの『代弁者』のような役割を担っていたと思います。彼にとっても、人から求められることは生きがいであり、社会を生き抜くエネルギーになっていた気がします。(中略)たぶん登りたくて登ってたんじゃない。(中略)もしかしたら。死なずにすんだ命だったのかな。誰かが止めていれば……受け止めていれば……。(中略)彼のブレインは栗ちゃんの危うさに気づかなかったんだろうか……?」

(「デス・ゾーン』から引用)

 

著者の河野氏もメディアの人間として、自責の念があるという。人間を安易に謳い上げるのは危険なことだ。栗城さんを死に追いやったのは……私かもしれない。そう告白している。

 

ちなみに私は登山にはまったく興味がなく、また無知だが、本を開いたとたんにグイグイと引き込まれ一気に読んでしまった。現代の若者を知るという意味でも読んでおきたい一冊といえる。

 

 

【書籍紹介】

デス・ゾーン

著者:河野 啓
発行:集英社

両手の指九本を失いながら“七大陸最高峰単独無酸素”登頂を目指した登山家。彼には誰にも言えない秘密があった。2020年第18回開高 健ノンフィクション賞受賞作。

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