1月20日(日本時間21日)、アメリカ合衆国の大統領就任式が行われました。レディ・ガガの国歌斉唱など、話題に事欠かない式でしたが、驚いたのはトランプ大統領が就任式を欠席したことです。現職の大統領が就任式に欠席するのは、なんと152年ぶりだといいます。
もっとも、2016年、アメリカ合衆国大統領の予備選挙でトランプが勝利したときは、もっと驚愕しました。多くのメディアが、民主党のヒラリー・クリントンが勝利するだろうと予想していたからです。
『ヒルビリー・エレジー』がベストセラーになったわけ
結局、世論調査や専門家の予想を覆し、ドナルド・トランプがヒラリー・クリントンを破って大統領に就任しました。実業家としては成功をおさめていた彼ですが、政治家として働いた経験はありません。そんなトランプがなぜ当選したのか? 労働者階級の人々と接点を持たない彼が、どうして貧困者層の票を多数集めることができたのか? 様々な意見が飛び交いましたが、決定的な答えがないままトランプ政権は始まり、そして終焉を迎えました。
何がどうなっているのやら。私にはすべてが謎に満ちています。『ヒルビリー・エレジー』(J.D.ヴァンス・著/光文社・刊)は、その謎をとく鍵を与えてくれる本です。トランプ大統領が誕生したころにベストセラーとなり、終焉を迎えた今も読まれ続けています。
著者はJ.D.ヴァンス。著者紹介によれば「イェール大学のロースクールを卒業し、現在はシリコンバレーで投資会社の社長として働いている」とのこと。これだけ読むとエリート中のエリートに見えます。
アメリカでは、白人 (White)、アングロ・サクソン系民族 (Anglo-Saxon)、プロテスタント (Protestant) の3条件を満たしているエリート層のことをそれぞれの頭文字を取ってWASPと呼びます。つまり、豊かな家庭環境で育ち、しつけも行き届き、教育をきちんと受けた高学歴を誇る人々です。経歴だけ見ると、J.D.ヴァンスはまさにWASPに属しているように思えます。
けれども、そうではないのです。著者の生い立ちは過酷なものでした。故郷はオハイオ州の南部にあるミドルタウンという町。かつては、AKスチールという鉄鋼メーカーの本拠地として活気あふれる場所でした。ところが、世界のグローバル化が進むに連れて衰退の一途をたどり、荒れた、問題を抱えた町になっていきました。アメリカには見捨てられた町が数多くありますが、ミドルタウンは中でも悲惨な末路をたどりました。貧しさゆえの問題が山積みとなり、人々は働く気力を失っていきます。
ヒルビリーとは誰か?
ヒルビリーとは「田舎者」という意味ですが、単に地方に住んでいる人々をさすわけではありません。そんなのどかな話ではないのです。本の副題に「アメリカの繁栄から取り残された白人たち」とあるように、ヒルビリーは貧しく、忘れ去られた状態で、荒廃の中で生きています。
アメリカ社会では、彼等は「ヒルビリー(田舎者)」「レッドネック(首すじが赤く日焼けした白人労働者)」「ホワイト・トラッシュ(白いゴミ)」と呼ばれている
(『ヒルビリー・エレジー』より抜粋)
私はよくわかっていませんでした。豊かな自然に囲まれ、都会の喧噪とは無縁な場所で暮らす白人の子ども達が、これほどつらい状況下で育っていたことを……。
私にとってのアメリカは、強力な軍備を維持しながら世界を操る巨大国でした。問題は抱えつつも、華やかな輝きを放つ魅力的な国でした。アメリカン・ドリームの名が示すように、努力して運をつかみ取むことができれば、巨万の富を得る可能性に満ちている国、それがアメリカだと信じていたのです。
けれども、それはアメリカのごく一部にだけ許された輝きだったようです。輝きから取り残された場所には、身動きがとれないまま取り残された貧しい人がたくさんいます。彼らは特有の文化を持ち、それに誇りを持ち、頑固に守り通そうとします。「ヒルビリー」という単語には、複雑で絶望的な思いがこめられていたのです。
困った母を愛さずにはいられない
著者・J.D.ヴァンスは、貧しいミドルタウンの中でもとくに貧しく、複雑きわまりない家庭環境で育ちました。両親は彼がまだ赤ん坊のときに離婚しています。シングルマザーになった母親は、次から次へと恋人を作ります。その度に繰り返される引っ越し、そして、新しくできては消える義理の父親たち。家の中は、夫婦げんかと母のヒステリーがくり返され、騒がしく、とげとげしく、落ち着きません。
母は看護師という職業を持ちながら、自分の置かれている状態に不満を持っています。本来、自分は大学に行くべき優れた人間だったのにという思いを捨てることができず、現状に満足しないのです。付き合っている男性や子どもに対して要求ばかりが先行し、鬱屈が彼女の精神を不安定にしてドラッグへ走らせます。リハビリ施設に入り、ようやくドラッグと縁を切れたと喜んでいると、また施設に舞い戻る。そんな中で彼は育ったのです。
それでも、母は彼を愛していました。けれども、その愛をいつもおしみなく与えてくれたわけではありません。ヴァンスはJ.D.というニックネームで呼ばれていたのですが、母が「ねぇ、J.D.」と、すり寄るとき、それは絶望的なお願いをするときの枕詞でもありました。J.D.は、逆上した母から、何度かひどい仕打ちをされています。中でも次のエピソードは、ヒルビリーとして育った少年のどうしようもない環境を示しています。
母は私に「クリーンな尿をくれないか」と言うのだ。前の晩から祖母のところに泊まっていた私が学校へ行く準備をしていると、取り乱した母が息を切らして部屋に入ってきた。看護師免許を更新するためには、看護協会が実施する無作為抽出の尿検査に応じなければならない
(『ヒルビリー・エレジー』より抜粋)
そう、母は薬の反応が出る自分の尿を提出するわけにはいかなかったのです。この時、J.D.がどれほど傷ついたか母はわかっていません。彼女は自分が薬をやめるという約束を破っていることさえ忘れています。子どもを育てるために、当然の権利だといわんばかりに「クリーンな息子の尿」を欲しがり、ねだるのです。そこに罪悪感はありません。そんな余裕はないのです。
J.D.の「クリーンな小便が欲しいんなら、自分の膀胱からとれ」という叫びには、本物の絶望がこめられています。母への絶望はもちろんですが、自分にも絶望しています。J.D.は自信がなかったのです。自分自身もマリファナを吸っており、反応が出ることを怖れていたのです。結局、祖母の懇願もあり、彼は自分の尿を母に渡します。母が看護師として働き続けるためには必要だからと説得されてのことでした。これほど悲しいことがあるでしょうか?
そんなことがあっても、彼は結局、母を好きでたまらないのです。心底うんざりしながらも、助けないではいられません。家族愛などという甘ったれた気持ちではなく、ヒルビリーとして生き残るためには、家族で助け合うしか術がないのでしょう。サバイバルな知恵と言うべきでしょうか。J.D.には選択肢などないのです。
それでも、故郷
悲惨な幼少時代を経て、J.D.は故郷を抜け出すことに成功しました。海兵隊に入隊し、自分を鍛え、生活していくために必要な教育と、進学するためのお金を貯めました。そして、オハイオ州立大学に進学します。それだけではありません。大学卒業後、さらにイェール大学のロースクールに進むという破格の出世を遂げたのです。
J.D.はそれでも、自分の故郷に懐かしさを感じ続けました。彼にとって、そこは生き残りをかけた戦場でした。問題を起こしてばかりいる母も、自分を捨てた父や何人もの義父、何もかも人のせいにする隣人達も、共に戦った戦友であることに変わりはありません。
アメリカを理解するために、『ヒルビリー・エレジー』は必読の書だと思います。全米で100万部を突破する勢いで売れたのもそのためでしょう。今後も読み続けられるに違いありません。アメリカが抱える問題は、今も解決していないからです。
さらに、アメリカの問題は日本の問題でもあります。過疎化が進む地方の村や町を悲惨な状況に追い込む前に、私たちに何ができるか、考えなければと思います。『ヒルビリー・エレジー』の世界は、日本でも既に始まっているのかもしれないのですから。
【書籍紹介】
ヒルビリー・エレジー
著者: J・D・ヴァンス
発行:光文社
ニューヨーク生まれの富豪で、貧困や労働者階級と接点がないトランプが、大統領選で庶民の心を掴んだのを不思議に思う人もいる。だが、彼は、プロの市場調査より、自分の直感を信じるマーケティングの天才だ。長年にわたるテレビ出演や美人コンテスト運営で、大衆心理のデータを蓄積し、選挙前から活発にやってきたツイッターや予備選のラリーの反応から、「繁栄に取り残された白人労働者の不満と怒り」、そして「政治家への不信感」の大きさを嗅ぎつけたのだ。トランプ支持者の実態、アメリカ分断の深層。