昭和生まれには馴染み深い「上から読んでも山本山。下から読んでも山本山」の名コピーで知られる山本山。お茶と海苔を扱う、知名度抜群のメーカーで、今年でなんと創業から330周年になります。
330年前の「お茶」は今とはかなり違うものだったようですが、そこに今日まで続く「黄緑色の煎茶」を浸透させる一端を担ったのも実は山本山だったようです。今回はこの歴史ある山本山の秘密、歴史に迫るべく同社を訪ね、営業政策部の小杉碧子さんに話をうかがってきました。
宇治からお茶を広めるために上京した創業者
ーーまず、山本山が今年で創業330周年と知り驚きました。300年以上の老舗企業ってそうはないと思います。
小杉碧子さん(以下、小杉) はい。ただ、もっと古い日本の企業はまだ多くありますから、弊社だけが特別ということではありません。弊社の創業者は山本嘉兵衛という者で、元禄時代、山本は宇治(京都)にある山本村というところでお茶を作っていました。日々お茶を作る中で、「宇治のおいしいお茶を、もっと多くの人に味わって頂きたい」という思いを持ち上京し、日本橋でお茶屋さんを開いたのが330年前の1690年(元禄3年)のことでした。
前後しますが、山本嘉兵衛が日本橋にお茶屋さんを開業した1690年(元禄3年)から、33年前の1657年(明暦3年)に、東京では「明暦の大火」という大火事がありました。火元だった本郷付近から品川まで火が回り、江戸城(現在の皇居)も焼いてしまったそうですから、被害がかなりの広範囲だったことが分かります。この大火事の復興需要として全国各地から腕利きの職人さんたちが上京し、江戸の町を復興させ、繁栄させていった歴史がありました。
各地から集まった職人さんたちにより、江戸の町は見事復興し栄え始めました。それまでは「1日2食」の質素な食事が庶民の基本だった日本食ですが、復興した江戸の町にお蕎麦、お寿司、天ぷらといった屋台がどんどんでき始め、ここから日本食が豊かになったと言われています。つまり今日の「和食」の代表的なメニューはこの時期から始まったとも言えるのですが、山本山は日本の飲食文化が急速に進んだ時代に、「煎茶」を広めようと日本橋に開業したという流れです。
永谷園創業者の先祖が開発した「煎茶」を、山本山が広めた!
ーーそれまでは「煎茶」は一般的ではなかったのでしょうか。
小杉 はい。一般的には赤黒くて味も香りも薄いものが「お茶」として親しまれていました。ただ、京都・宇治ではすでに「煎茶」の製法があり、山本はこれを広めようと江戸に上京したわけですが、後の1738年(元文3年)に、永谷宗円さんという宇治の茶師の方によって「青製煎茶」というものが開発されました。永谷宗円さんは、永谷園の創業者の先祖にあたる方です。
これこそが今日まで続く「煎茶」の原型なのですが、永谷宗円さんも「これを売りたい」と考え、やはり江戸に来たそうです。その際、たまたま売り込みに入った商店が、「煎茶」を広めようとしていた山本嘉兵衛商店(現:山本山)でした。永谷宗円さんによる「青製煎茶」を山本嘉兵衛も大変気に入り、まず翌年分までお茶を買い取り、それを「天下一」と名付け、江戸の市場で販売させていただいて広まっていったそうです。
ーーつまり、今日に繋がる「煎茶」を開発したのは永谷宗円さん、そして広めたのは山本嘉兵衛さんというわけですね。
小杉 はい。当時としては「青製煎茶」は真新しいお茶だったと思いますが、この市場開拓が成功したこともあり、今でも弊社では「『本物(=一流品)』の中から、新しい物を提供し続ける」という企業方針が根付いています。ただ、同時に「本物で新しいもの」というのはそうは見つかりません。ですので、社をあげての商品の大幅な技術革新はだいたい100年に一度やることが多いです。
ーー歴史が長いと、技術革新のスパンも長いですね。
小杉 そうですね(笑)。ですから、この「青製煎茶」を販売し始めた1738年(元文3年)の次に、弊社では「玉露」というお茶を作って販売することになりましたが、これも約100年後の1835年(天保6年)のことでした。さらにその約100年後の1947年(昭和22年)に海苔の販売を始めることになります。