映画『ボヘミアン・ラプソディ』がヒットした理由
映画のストーリーは事実と異なる!?
映画『ボヘミアン・ラプソディ』は、1991年11月24日にエイズによる肺炎の合併症で亡くなったフレディを中心に、QUEENの実話を基に作られていますが、一部、事実とは異なる内容もあります。例えば、フレディがバンドに加入したタイミングやライブで披露した曲の時系列、LIVE AID前にメンバーがフレディのエイズを知ったという構成などです。
しかし、実際に映画を見たQUEENのコアなファンをも惹きつけることに成功。これは、映画の制作が決定した2011年から、ブライアンとロジャーが顧問として関わり、事実関係を含め、映画の監修を続けてきたことが功を奏しているのでしょう。映画館に何度も足を運んだリピーターが多かったことからも、作品の満足度が高いことがわかります。「近年の音楽映画では飛び抜けてすばらしい!」「号泣必須!」などの情報がSNSで広まり、QUEENを知らない若い世代にも支持されました。
当時のメンバーをリアルに思い出させる描写力
「私が初めて映画を見たのは2018年10月の半ばで、業界関係者を集めた試写会でした。そのときは、これほどのヒットになるとは予想できなかったですね。事実関係とは違う部分はありますが、そんなことは気にならない完成度だと思いました。冒頭の20世紀フォックスのオープニングファンファーレを、ブライアンがギターで弾いているところは遊び心があっていいですね。
メンバーの描写もお見事! 特にブライアンは、『なんで本人がいるの?』と思うほど、容姿も身振りも話し方もすごく似ていました。ロジャーは彼が言いそうなセリフばかり。映画後半になって髪が短くなったジョンもそっくり!」(東郷さん)
フレディのカリスマ性を再現するのは大変だったと思いますが、どうでしょうか?
「最初は、『こんなに出っ歯じゃないわよ〜』って感じたけれど、途中からはそんなことが気にならなくなりました。フレディは親日家で、自宅には日本の絵画や骨董品などを多く飾り、家具のほぼすべてが日本製だったようですが、それも見事に再現されています。ちょっと安っぽい着物を部屋着にしているのもリアル。
そして何と言っても、最後のLIVE AIDの再現力はすばらしいですね。歌詞も字幕で見られるので、歌詞の内容がスッと頭に入ってくるのも味わい深いと思います。そして、ピアノの上に並べられたドリンクのメーカーもコップの位置も、カメラワークも当時と同じにするこだわりよう。フレディが履いているボクシングシューズはアディダスに再生産をしてもらったというからすごい。制作陣の本気がコアなファンにも届いたと思います」(東郷さん)
LIVE AIDのQUEENは必見!
QUEENの数あるライブ、またほかのミュージシャンのライブを思い返しても、LIVE AIDで見たQUEENの20分間の衝撃にかなうものはないという東郷さん。
「映画でも触れていますが、QUEENは一度、LIVE AIDの出演を断っているんです。そのため、チケットが完売した後でQUEENの参加が公表されたので、オーディエンスの大半はQUEENに関心の少ない人たち。そんな中で、瞬時に観客をとりこにし、全員が足をならし手を叩き、フレディのかけ声に反応していたのは圧巻です。さらに、84カ国に衛星放送で同時生中継され、世界中の人が同じタイミングで、テレビから流れるQUEENの演奏に魅了されたのです。音楽以外にも娯楽が溢れる今では、あり得ないことだと思います。
一方で、YouTubeを開けば当時の映像がすぐに見られるのは、ありがたいですね。あの迫力とカリスマ性、デォ〜と叫びながら拳を突き上げるフレディの、観客を集団催眠にかけてしまったかのようなエネルギーを、今の若い世代にも見て欲しいです」(東郷さん)
QUEEN取材の重圧に悩まされた日々
1970年代〜1990年代にかけて、洋楽ファンの間で支持されていたML。インターネットの普及や時代の変化で音楽雑誌のニーズは減り、1998年12月に惜しくも休刊を余儀なくされます。ML全盛期は、1冊の雑誌を何度も読み返し、好きなアーティストのページをクリアケースの下敷きに挟んで常に持ち歩いていた読者も多かった時代。ミュージシャンの存在や音楽が人々に与えた影響力や夢の大きさは、今とは比べ物にならないと、東郷さんは言います。
「QUEENが有名になるにつれて取材するのもひと苦労で、30万人もの読者の期待を背負っているプレッシャーに押しつぶされそうでした。映画にも出てくるポール・プレンターがフレディのマネージャーのような役割をしていたのですが、彼には悩まされましたね……。映画の中でも、ライブエイド出演オファーの話を、ポールがフレディにしていない場面がありますが、まさにあれです。取材のアポが取れている状態で現地入りしたのに、フレディには話が通っていないという事態はしょっちゅう。そんな中で原稿の締め切りに終われる日々は辛かったですね。宿泊先のホテルで東京に帰りたいと何度泣いたことか。でも、あの時代にQUEENを追い続けられたことでずいぶんと鍛えられました。今となってはすべての経験が私の財産です」(東郷さん)