ものすっっっっごく個人的なことを書いて申し訳ないが、昔から「うまいことを言う」職業に並々ならぬ憧れがあった。作家はもちろん、エッセイスト、コラムニスト、詩人、歌人、俳人、作詞家、劇作家、脚本家、コピーライター、漫才師、落語家など、言葉を操り物語を動かし理屈を弄ぶプロたちが繰り出す「うまいことを言う感じ」にめたくそ弱い。
ネットでも、「もしも○○が桃太郎を書いたら」といった文体模倣やパロディが大好物だし、「○○と××の違いを教えてください」のようなネタスレ、「○○と××で(韻が)踏める」みたいな言葉遊びとかにさえもグッとくる。そこに風刺が効いていたり、批評性が見えたりすると、なおさらぐっしょり濡れてしまう。
これらのおもしろさの正体は、「何かが、まったく別の何かに似ている」「何かが、まったく別の何かを象徴している」という「見立て」のうまさだと思う。その見立てに意外性があればあるほど、本質を言い当てているように見えれば見えるほど、「うまいなあ」と膝を打つ手にも力がこもる。
そういった「うまいことを言う」系職業の中でも、私がとくに嫉妬と羨望を抱きつつ憧れているのが、社会現象を分析したり、サブカルチャーを批評するといったジャンルの人たちだ。
俺だって、仮面ライダーで社会システムの変遷を論じたり、食べ物を右翼と左翼に分けたりしたい! いつだってそう思っているが、でも頭良くないからできない! というコンプレックスを抱えてもいる。
そんな私が、このたび「セーラームーン世代の社会論」(稲田豊史・著/すばる舎リンケージ)を読んで、奥歯からギギギギ……と「はだしのゲン」もかくやという“悔しいのうサウンド”を鳴らしたのは、言うまでもない。
本書は、国民的大ヒットとなった「美少女戦士セーラームーン」のアニメ全5シーズンが放映されていた1992〜1997年の間に、4〜10歳だった現在のアラサー世代を「セーラームーン世代」と定め、その人格や価値観、倫理観、異性観、美的感性の形成に「セーラームーン」が大きな影響を与えたのではないかと推察し、作品分析・世代分析をしていく本である。
現在のアラサー女性の生き方の憧れや理想を、「セーラームーン」が体現していたという「見立て」の着眼点が、まず最初のニー・タップ・ポイント(膝を打つ点)だ。
さらに本書では、「“敵”とは、その物語が提唱する“正義”が打ちのめしたい悪の価値観そのものであり、世情や想定視聴者の気質がたぶんに影響される」とし、作中の歴代敵組織の価値感を整理・検証しているのだが、この切り口もうまい。「IPPONグランプリ」のバカリズムくらいうまい。
たとえば、「美少女戦士セーラームーンR」における、あやかしの四姉妹。
彼女たちは、「互いを信用しておらず、手柄を奪いあい、ひとたび誰かがミスをしたら責め立てる」という非情な結果主義を貫いており、筆者はこれを現代の「ブラック企業的」であるとする。
それに対して、セーラーチームの5人は、「趣味も性格も偏差値もまったく異なって」いるにもかかわらず、同調圧力や足の引っ張り合いがない。「セーラーチームに主従関係やヒエラルキー構造はない。得意技と役割分担があるだけ」と、そこに理想の同胞意識を見出している。
また、あやかしの四姉妹のひとり・コーアンが、「女性は愛されてこそ意味がある」と言い、そのために「化粧をして美しくしていないとダメ」という、今でいう「愛されキャラ作り」を女性に脅迫・強要しているというのも興味深い。
一方、セーラー戦士たちは、変身時のコールこそ「メイクアップ!」(=化粧)であるが、それは誰かに愛されるために本来の自分を覆い隠すような“変装”ではない。もともと持っている自分の魅力を引き出して“盛る”ための手段、つまり「自己卑下でも過剰な背伸びでもない」等身大の自分を全肯定しようというポジティブなメッセージなのだ、とする分析は見事だ。
さらに、『美少女戦士セーラームーンSuperS』に出てくる敵キャラ、アマゾネス・カルテットは、自らの若さに固執し、大人をバカにしながら成長・成熟を拒む少女として描かれているという。彼女たちの大ボスにあたるネヘレニアも、「老いに対する恐怖」から若さや永遠の美に固執する「美魔女」的存在だ。
しかし、セーラー戦士たちは、自らの少女性を礼賛し、めいっぱい謳歌しながらも、決して大人への成長と成熟を拒否しない。物語中でうさぎからちびうさへの世代継承が行われていることからもわかる通り、「大人の自立心と責任感を持ちながら、ファッションや言動の中に溌剌・可憐な少女性をちゃんと残している」のがセーラームーン世代の理想なのだ、と指摘している。
“誰かのため(≒男のため)”ではなく、“自分のため”の女の子らしさを肯定する。
この思想は、20周年を迎えて再ブームとなっている「セーラームーン」が、アラサー世代の女性を再びエンカレッジさせてくれる大事なテーゼのひとつだろう。
「セーラームーン」は、「男には負けない」という「対抗心」から、過剰に“女を捨てる(=女性性を嫌悪する)”のではなく、「男がいなくたって何でもできる」という「自立心」を基盤にして、主体的に“女であることを楽しむ(=女性性を謳歌する)”ための物語だということを、本書は鮮やかにあぶり出している。実にうまい。「あさイチ」のイノッチが見せるMCさばきくらいうまい。
他にも、30〜40代男性を「のび太系男子」、アラフォー女性を「ナウシカ世代」と喩えてセーラームーン世代と比較するなど、見立てのうまさが随所でキラリと光る本書だが、一方で、帯にはモニター読者からの「賛否両論」の感想が多数掲載されている。その中には「深読みのしすぎ」「うなずけない」「男性特有の考え方」といった否定的な意見も、いけしゃあしゃあと載せられているのがおもしろい。
でも、それでいいのだと思う。おそらく、本書に書かれている“セーラームーンが体現する理想の女性像”は、原作者の武内直子やアニメスタッフも、そこまで自覚的に狙っていたものではないだろう。
すぐれた作品とは、作者の意図する以上のことを結果的に描き出してしまうものであり、すぐれた批評・分析とは、作品が表象する以上の「時代背景」や「大衆の欲望」などを勝手に深読みしていく作業のことなのだ。
こんなこと書いたら、たぶん本職の人からは怒髪天を衝くようにこっぴどく怒られるだろうけど、私は、人文科学系の学問というのは、(基本的には)「いかに秀逸な見立てをこじつけて“うまいこと言うか”を競う言葉遊び」だと思っているふしがある。少なくとも、私個人はそういう目線で、哲学や文学や社会学などの文系学問をおもしろがっている。
そして、帯に賛否両論の感想を平然と載せてみせる本書のスタンスからは、「批評や分析としてどうかよりも、まずは“いかにうまいこと言ったか”を楽しみながら読んでほしい」という、筆者の声なき声が聞こえるような気がしたのだ。そういう意味でも、これは圧倒的に正しくおもしろい「社会論」である。
本書から伝わる筆者の熱い語り口と分析力に、私と同じ「うまいこと言ってしまう系」の香りを感じ、勝手に共感と憧れを抱いてしまった。
……これはやはり、そういう見方でしか批評や分析を読めない、私のふざけた態度を見つめ直すべきなのでしょうか。