上映中の映画「シン・ゴジラ」が大人気となっています。興行通信社が発表している全国動員数ランキングでも2週連続1位を記録。ピクサーの「ファインディング・ドリー」や、人気マンガ「ワンピース」の劇場版「ONE PIECE FILM GOLD(ワンピースフィルムゴールド)」などの強豪を抑えての1位は快挙ではないでしょうか。
ウェブでも様々な感想やレビューが出てきていますので、先週映画館で見てきた感想をお届けしたいと思います。本文中には多少ネタバレが入るので、まだ観ていない人はご注意ください。
庵野秀明×樋口真嗣のタッグにより“大人向けの仕上がり”に
シン・ゴジラは、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の庵野秀明を総監督・脚本に迎え、映画「進撃の巨人」や「ローレライ」の樋口真嗣を監督とした新たなゴジラ作品です。この二人は、東京都現代美術館で「館長 庵野秀明特撮博物館」にて公開された短編作品「巨神兵東京に現わる」でタッグを組んでいます。
ストーリーは、突如東京湾に現れた未確認生物ゴジラが東京に上陸し、破壊の限りを尽くすというもの。ゴジラ自身にはヒーロー性もなく、地震や台風、竜巻のような災害として扱われている点が初代ゴジラを彷彿させます。人間側もただやられるだけでなく、ゴジラが一時的に活動停止した隙をつき、反撃するなど懸命にゴジラに立ち向かいます。
ゴジラに対するのは、地球を防衛するための特殊部隊ではなく、政治家と自衛隊です。政府が災害対策として自衛隊を動かすのに、超法規的処置を発動したりするわけですが、そこに至るまではさまざまな会議を繰り返し、ようやく総理大臣が判断するなどの現実的なシーンも描かれています。そういった点はパトカー1台出動するのにも申請が必要だというシーンを入れて、これまでにない刑事ドラマのリアリティを表現した「踊る大捜査線」に通ずるものがあります。怪獣が出たからすぐに迎撃とはならないのが、この作品にリアリティを与えているのです。
また、ゴジラに対抗する人間側に焦点が当てられていることから、子ども向けの怪獣映画というよりは、群像劇の様相を呈した大人向けの映画に仕上がっています。
ストイックな作風のなかで浮き上がるカヨコ・アン・パタースンの存在
シン・ゴジラを観た人の評価はおおむね良好なようで、特に、安直な恋愛や家族愛、人間ドラマを一切廃したストイックなストーリー展開が評価を得ています。日本映画にありがちな点を排除したところに賞賛が集まっているようです。
確かに、映画のなかでは主人公はもちろん、主要人物の家族のことは一切描かれていません。あれだけの緊急時において、家族のことを考えないのは不自然ではないかなと思うほど、徹底して排除しています。しかし、それがシン・ゴジラのキャッチコピー「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」の現実パートのリアリティなのかもしれません。実際にこのような災害が起こったとき、私たちだって対応する政府の人間の家庭や家族についてまで思いを巡らせたりはしないでしょうから。
そこまでリアリティを追求しているとなると、違和感を感じずにはいられないのが、石原さとみ演じるカヨコ・アン・パタースンの存在です。彼女は、ゴジラ上陸というとんでもない有事に対してアメリカから派遣された特使です。その設定に対して、なぜ日系である必要があるのか、女性であるのか、そしてあの若さなのかが疑問にあがります。
映画的に紅一点を入れておきたいというものであれば、それこそ安直に恋愛シーンや人間ドラマで涙を誘うこととまったく同じ行為であって、せっかくそれらを排除した意味がまるでなくなってしまいます。ジェンダー論的に女性の活躍の場を与えたいというのであれば、スター・ウォーズの最新作「フォースの覚醒」のレイように、主人公である矢口のポストを女性にすべきだったのではないでしょうか。ただそれもすでに過去の「ガメラ」で行っているので、いまさらそのためだけにというのも考えづらいところです。
また、彼女のゴジラを英語読みした「ガッジーラ」という発音も、ただただ日本人が想像するステレオタイプのアメリカ人を演じているようにしか見えず、リアリティが伝わってきません。役どころも不思議です。大杉 漣演じる一人目の首相も、平泉 成演じる二人目の首相も、アメリカからの要請を無茶苦茶だと表現しているのに、矢口や竹野内 豊演じる赤坂との交渉では、すんなり日本側の提案を受け入れるため、そんなので特使として本国から怒られはしないのだろうか、と疑問に思うシーンもあります。
彼女は、40代で大統領になるという荒唐無稽な目標を持っていますが、劇中では実現可能な目標として描かれているのもリアリティに欠けています。祖母が日本人であるという設定により、対ゴジラの最終手段として核兵器の使用を決定した本国に対して嫌悪感を持ち、矢口が提唱するヤシオリ作戦に協力するというのはわからなくもないですが、その件に関しても何故彼女だけ、そういったバックボーンがあるのかという点も特殊であると言わざるを得ません。
シン・ゴジラとエヴァンゲリオンの類似点とは?
シン・ゴジラに登場するゴジラは、庵野監督の代表作であるアニメ「エヴァンゲリオン」でいうところの“使徒”に相当する、というのが大方の見方となっています。こちらにはエヴァンゲリオンのような強力な存在は登場しませんが、使徒が襲来し、正規軍などの攻撃をものともしないなか、非正規組織であるネルフが対策にあたる感じは、矢口率いる各省庁のはみ出し者が対ゴジラの作戦を遂行するところに近しいものがあります。
ほかにも、人間が不完全な群体であるのに対して、ゴジラは完全な単体として描かれているところなども、エヴァンゲリオンの世界観に通じます。
そんな類似性の中で、カヨコ自身もエヴァンゲリオンの主要キャラクターである式波(惣流)・アスカ・ラングレーとの共通点が多くみられています。その為、カヨコはシン・ゴジラにおいてのアスカだとする声がよく聞かれます。
これみよがしにロングヘアーをなびかせ、主要3キャストの中で唯一遅れて登場したりと、いろいろ共通点が見受けられます。ただ、それ以上に、作品のなかにおける存在感に近似性を感じます。エヴァンゲリオンにおけるアスカの役どころは、14歳ながら飛び級で大学を卒業し、バイリンガルでモデル並の美貌とスタイルを持っています。さらに、登場するやいなやひとりで使徒を倒してしまうと言う万能ぶりも発揮するなど、エヴァンゲリオンと言う虚構の中においても突飛な存在です。いわゆる設定重視のキャラクターとして扱われています。
ちなみに市川実日子演じる環境省の官僚・尾頭ヒロミは、同じくエヴァの登場人物であるレイを彷彿とさせます。キャラクターと作品中での仕事っぷりを見ると、カヨコはアスカ+ミサト、ヒロミはレイ+リツコという印象も受けますが……。
虚構と現実を中和する存在
話が逸れましたが、その設定重視のアニメキャラクターと同じく、カヨコもいわゆる“トンデモ設定”をつけられたキャラクターなのです。だから、現実的な描かれ方のニッポンパートにおいて浮いた存在として感じられるのでしょう。となると、カヨコはあくまでも虚構な存在として、あえて描かれていると考えるのがもっとも的確なのではないでしょうか。
あれだけニッポンパートでは現実にこだわっているのに、なぜそこに虚構の存在を入れる必要があるのでしょうか? それは、劇中の最大の虚構であるゴジラの存在と関係があります。いくらリアリティにこだわっても、映画の題材が怪獣ゴジラである以上、リアルに描き切るのは無理な相談です。日本政府を中心とした日本人が活躍するパートをいくら現実的に描いたとしても、それに相反するゴジラという虚構により、その現実感はある意味空回りになってしまうのです。
映画のキャッチコピーにあるように、この映画は現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)です。その現実対虚構をシームレスに繋げるには、現実の中に虚構を、虚構の中に現実を入れるしかないのかもしれません。そう考えてみると、カヨコの存在は、ゴジラという最大の虚構を受け入れるために必要な虚構なのです。つまり、現実と虚構の橋渡しとしての存在。陰陽太極図の陰の中の陽、陽の中の陰となっているわけです。
ゴジラへの最後の対抗策として発動したヤシオリ作戦も、始まってみると実際にそれが現実的な対処であるかがわからなくなってきます。ヤシオリ作戦を発動するきっかけとなったゴジラの対空防御性能や超高性能レーダーなども、ご都合主義とも捉えられかねないものですが、それらもリアルな対処法を提示しつつ、在来線爆弾と言うトンデモ兵器で中和されていたりします。
ともすれば、作品自体を壊してしまうようなウィークポイントになりうる存在ながら、ギリギリのところで踏ん張っているのが、庵野監督ならではってところなんでしょうかね。そう考えるとカヨコはあのカヨコでなくてはならないし、必要な存在だったんでしょう。まあ、ほとんど男性は、彼女の唇に見惚れて、そんな違和感など吹き飛んでしまうのでしょうけどね。