いまや、至るところで目にするようになった「断捨離」という言葉。最初に提唱し、著書やテレビ・雑誌などのメディアを通じて広く一般化させたのが、やましたひでこさんです。そんな正真正銘の“生みの親”が、日々思うこととは何なのか? 日常における、断捨離にまつわる気づきをしたためたエッセーをお届けします。第1回は夫婦の距離感とふたりが住まう部屋の“空気”に焦点をあてた「妻と夫の居場所」。第2回は……?
「さあ、『引き算』の暮らしを始めようか。」
断捨離
「断」・「捨」・「離」
この三つの漢字に共通していることは何かと言えば、すべて、「引き算」であるということ。
断つことも、捨てることも、離れることも、文字通り、引いて、引いて、引いていく行為で、けっして、足しては留め置き、足しては抱え込んでいくことではないのです。
つまり、断捨離とは、
引き算の視点
引き算の思考
引き算の行動
それらを、私、やましたひでこは、「あなたの暮らしに取り入れてみませんか?」と提案しているのです。
でも、「なぜ、引き算?」、と思われるかもしれません。そう、別に、足し算を否定している訳ではなく。物事は、足すことによって解決する問題と引いて、つまり、減らしたり、捨てたりすることで解決する問題、この二つがあるのですから。
けれど、今の私たちを取り巻く状況をよく見極めると、そのほとんどが、過剰で損なわれているよう。
多すぎるモノたちを持て余し、多すぎる情報に振り回され、多すぎる人間関係に煩わされている、といった具合。そして、これら多すぎるモノ・情報<コト>・人間関係<ヒト>によって、自分が、苦しい、忙しい、疲れたといったストレスフルな状態に追い込まれていることに気づかないという、二重三重の悪循環を重ねているのです。
憂うべきことは、「不足」より「過剰」。
たしかに、このどちらも私たちを損なうことではあるけれど、過剰が不足よりも深刻であるのは、過剰にまみれているがゆえに、本当の大切なものが不足しているのが分からなくなってしまっている点にあるのです。
その典型的問題が、自分の住まい、自分の家庭、自分の家族に起きている……そうは、思いませんか。
溢れるかえるモノたちに、住まいを占拠され、自分たちの空間を失っている様、私は、そんな光景にどれだけ出会ってきたことでしょう。
犇めく(ひしめく)モノたちを前にして、散らかりに悩む主婦。夥しい(おびただしい)モノの片づけに追われて疲労をつのらせる主婦。懸命に収納に取り組んでいるにも関わらず、はかばかしい成果はなく徒労感に沈む主婦。
当初の主婦の苛立ちは、面倒臭いというあきらめに変わり、絶望に変わっていく。そう、自分はダメな主婦だと、自分を責めてしまうのです。
当初の主婦の不機嫌は、鬱々した重たい気分となり、住まいに広がる。そう、私ばかりがなぜ片づけなくてはならないのかと、家族への不満を溜め込んでいくのです。
そうやって、住まいは物置に成り果て、家庭の機能をしなくなり、家族が集う光景はなくなっていく。
それでも、この片づけの悩みは、モノの過剰にあるのではなく、収納スペースの不足、狭い部屋、小さな家に問題があると思い込んでいる主婦がいかに多いことか。
だから、大容量の収納空間のある広い部屋、大きな家に憧れる。それを懸命に手に入れようと試みる。そして、その憧れを手に入れたとしても、結局は同じ。それどころか、家が大きくなった分、モノの量も大きくなっていくだけのこと。かえって、片づけの大変さは増えるばかり。
収納グッズも、収納棚も、収納家具も、家という大きな空間から見れば、大小の様々なモノでしかなく。つまり、大切な空間を占拠するモノ、つまり、片づけのためのモノが自分の空間を奪いとっていく元凶であることに気づかなくてはいけないのです。
ならば、引き算。
だからこそ、引き算。
片づけるのではなく、余計なモノを減らす。
仕舞うのではなく、過剰なモノは捨てる。
モノを留め置くのではなく、放す。
モノを抱え込むのではなく、手放す。
溜め込むのではなく、断捨離する。
そうやって、モノを断捨離しながら空間を取り戻していくと、入れ替わりに、あなたはこんなものを手に入れることになるはず。
もちろん、スッキリとした清々しい住まいは言うまでもなく、面倒臭いをキッパリと断った自分、あきらめをサッパリ捨てた自分、そして、なにより、不機嫌と離れた自分自身に出逢うのです。
※「断捨離」はやましたひでこ個人の登録商標であり、無断商業利用はできません。
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