東京都庁舎や高級ホテル、オフィスビルなど、超高層ビルが軒を連ねる東京都新宿区・西新宿エリア。今では信じられないかもしれませんが、50年前にはノスタルジックな下町の風景が広がっており、戦後の日本の発展を象徴するエリアとも言えます。
今回は、そんなかつての姿を知る、生まれも育ちも西新宿のお笑い芸人・玉袋筋太郎さんと、西新宿再開発の先陣を切った「京王プラザホテル」にインタビュー。50年間で目覚ましい発展を遂げた「西新宿」という街の思い出と現在、その未来について熱く語ってくれました。
3階建てのビルから街全体が見渡せた、50年前の西新宿
お笑い芸人/玉袋筋太郎
1967年東京都新宿区西新宿生まれ。大ファンであったビートたけしに高校時代より弟子入りを志願し、のちに現在の芸名を襲名。1987年に水道橋博士とともに漫才コンビ「浅草キッド」を結成し、バラエティ番組などでブレイクする。現在はお笑い芸人として活動する傍ら、演劇の監修やエッセイの執筆、「一般社団法人全日本スナック連盟」の設立や、スナック店「スナック玉ちゃん」の運営など、活動の幅を広げ続けている。
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———1967年、西新宿に生まれた玉袋筋太郎さん。1971年に「京王プラザホテル」が建設されたのを皮切りに超高層ビル群が建ち並ぶ以前、西新宿はどのような街だったのでしょうか?
俺は当時西新宿1丁目にあるおじいちゃんの持ちビルに住んでたんだ。3階建てのビルで、下の階で親父が雀荘をやってたから、家族は3階で暮らしてたんだけどさ。まだ高層ビルなんてひとつもなかったから、家の屋上から街全体が見渡せたよ。
小学校も俺が通ってたところを含めて7校くらいあったし、酒屋とか味噌屋とか魚屋とか、銭湯も普通にあった。今みたいにビジネスマンとか観光客が集まる場所じゃなかったよ。休日になると、地元の人以外誰も歩いてなかったしね。
———今では、西新宿は日本有数の治安のいい街ですが、当時はどのような雰囲気でしたか?
今とは全く違う雰囲気だったよ。現在の「ルミネエスト」から「髙島屋」まで抜けていく線路脇の道なんて、治安は最悪だった。今じゃ信じられないだろうけど、いわば“青線地帯”(※)だったんだよね。怖い人や危ない人がウロウロしてて、大人からは「子どもは近づいちゃいけません!」って言われてた。
※“青線地帯”とは、非合法で売春が行われていた地域。上記の旧旭町(現在の新宿4丁目)については、“準青線”に分類されていたという説もある。
でも遊びに行くときにどうしても通らなきゃいけないもんだから、怖いけど毎日のようにそういう場所も通ってたよ。毎日見ていれば耐性がつくっていうか、慣れていくからね(笑)。だから、俺たち子どもたちはすごく鍛えられたと思う。大人になっても怖い人に絡まれたり、悪い人に騙されたりしたことないからね!
高層ビルが最高の遊び場!わんぱくな西新宿の子どもたち
———当時子どもたちは、どんな場所で遊んでいたのでしょう?
俺が4歳の頃、通ってた幼稚園の目の前に京王プラザホテルが建って、小学校に上がる頃には「新宿住友ビル」とか「新宿三井ビルディング」とか、高層ビルがニョキニョキ建ち始めた。そういうビル全部が、俺たちの遊び場だったんだよ。「今日は『京王百貨店』ね!」とか言い合って集まるんだ。
高層ビルって大体、低層階がショップやレストランで、中層階がオフィス、高層階が展望レストランになってるから、子どもでも普通に出入りできるでしょ。よく京王百貨店の本屋で立ち読みしたり、非常階段使って駆けっこしたりして、お腹が空いたら地下の食品売り場で試食品食べたりしてた。楽しかったなあ。
夏なんて暑いからビルの中で涼みたくて、いつもオープン前に並んで一番乗りで入店してた。そうすると、入り口の前にズラーっと並んでる従業員たちが、「いらっしゃいませ」って頭下げてくるんだよ、俺たちみたいな子どもに。笑っちゃうよね。
———1980年代に入ると、西新宿には一気にゲームセンターが増えた印象がありますが、やはり夢中になりましたか?
『スペースインベーダー』が流行りだしてからは、もうゲーセン漬けの毎日だったよ。でも近所のゲームセンターとかには、俺たちよりも上の学年の偉そうなやつらが入り浸ってたから行きたくなかった。
それでどうしたかっていうと、京王プラザホテルの47階にもゲーセンがあったから、そこで遊んでたんだ。入園料を払わないと入れないゲーセンで、まわりの子どもたちはほとんどいなかったんだけど、幸い俺たちは商人の子どもでお小遣いもあったから、誰にも邪魔されず遊べたわけ。悪ガキたちは入ってこられない場所だからね!
———なんだかラグジュアリーな遊び方ですね! 高層ビルを遊び場の拠点とする子どもたちというのは、なんだか新鮮に感じられます。
そうでしょ。京王プラザホテルなんか、後からできたんだもん、俺は自分の“弟”だと思ってるよ! お母さんがいつも幼稚園の迎えの後に、京王プラザホテルの喫茶店に連れてってくれてさ、そのあと俺が駄々こねると、47階の展望ルームにも連れてってくれるの。あの当時日本で一番高い建物だったから、いわば山頂からの眺めみたいなものを楽しめるわけだけど、あんなに標高のあるところに立ってた幼稚園児なんか俺だけだと思うよ!(笑)
その後、西新宿以外にも高層ビルは増えていったけど、1978年に池袋に「サンシャイン60」が建ったときなんか、悔しくてたまらなかったもんね。やっぱり、西新宿の高層ビル群に誇りみたいなものがあるんだよ。
変化していく、それが西新宿という街の運命
———玉袋さんが成長するにつれて、西新宿の街もどんどん発展を遂げていきましたが、当時変わりゆく景色をどのように受け止めていましたか?
俺は1歳から6歳まで西新宿一丁目に住んでて、そのあと親父が西新宿八丁目にマンションを買ったんで引っ越したんだけどさ。「職安通り」から続く「新宿税務署通り」の道幅を拡張するっていう動きがあって、その車線沿いに住んでるやつらはみんな引っ越さなくちゃいけなくなった。もちろん国からお金もらえるから、もっといいところに引っ越したやつもいるけどね。
そうやって世帯がどんどん減っていくから、学校もどんどん廃校になっていった。俺が通ってた幼稚園、保育園、小学校、中学校……もう全部ないよ! やっぱり、母校がなくなるっていうのはちょっと切ないよね。
でもさ、言い方悪いかもしれないけど、新宿は元から侵略されていく街なんだよ。だって昔から、日本で一番乗降客の多い駅だったんだからさ。いわば超でっかい“人間交差点”だよ。変化していくのがこの街の運命で、もう昔から受け入れ態勢はできてたかな、俺の中で。
———当時通われていたお店で、今も営業されているお店はありますか?
かなり少なくなってるけど、あるよ。思い出横丁(新宿西口商店街)にある中華料理屋の「岐阜屋」、それに焼肉屋の「明月館」とか。新宿駅西口の近くにあるもつ焼き屋の「ぼるが」もそうかな。
明月館は子どもの頃から家族で通ってて、よくランチに食べに行ってたよ。当時ハラミって人気ないから安くてさ、信じられない値段でハラミ定食食べてたの。いい時代だったな〜(笑)。あのあたりは、まだかすかに当時の雰囲気が残ってる感じがするね。
心に残る故郷の景色は、高層ビル群
———現在は玉袋さんも西新宿の街を離れていますよね。現在も訪れることはありますか?
俺は今中野・杉並あたりに住んでるんだけど、なんでそこに住んでるのかっていったら、一日一回、西新宿を通るためなんだよ。今も毎日車で通り過ぎては「ああ、ここも変わっちゃったんだ」なんて観察してるよ。
おじいちゃんが亡くなった後、俺たち家族が住んでたビルも相続税がとんでもない額になって、仕方なく手放すことになったんだけどさ。築50年以上のビルだけど、今もリノベーションとかして取り壊されずにそこにあって、中には居酒屋とかのテナントが入ってるんだけど、見かけるとキュンキュンしちゃうよ。
やっぱり、あの西新宿の景色を見ないと落ち着かないんだよなあ。不思議なもんで、ちゃんと俺の故郷の景色になってるんだよ。
———地方出身の人々にとっての故郷の景色とは異なるものの、玉袋さんにとっては高層ビル群が思い出の景色となっているのでしょうか?
そうそう! みんなの故郷の景色といえば山とか海とか、自然の中にある美しい景色とかなのかもしれないけどさ、俺にとってはそれが高層ビルなんだよ。標高も山と同じくらいあるしね。街の開発で地方に引っ越していった知り合いなんか、今は山に囲まれたところに住んでるけど、高層ビルが恋しくて涙流したらしいよ。普通、逆なんだろうけど(笑)
今回は、玉袋さんが自身の弟のような存在とも語る、京王プラザホテルを直撃。次のページでは、32年に渡り“ゲストリレーション”として活躍する吉城亜紀さんが、ホテルの歴史と街の発展について語ります。