柔道・極真空手出身で総合格闘技団体「DREAM」や「UFC」の主力選手として活躍した菊野克紀さん。選手として現役生活に一段落をつけた現在は「誰ツヨDOJOy」を主宰し、会員の指導に当たっています。
今回、菊野さんには強くなるために、どのような準備や心がまえが必要なのか。そして、総合格闘技や武術での経験を語っていただきながら、菊野さんが考える「強さ」とは何か、「勝つ」とはどういうことかについて伺います。
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老若男女全ての人が対象。運動神経や体力の有無も関係なし
強い人ではなくて、強くなりたい人に来てほしい。「誰ツヨDOJOy」は武術や格闘技に見られる「流派」ではありません。あるのは次のようなコンセプトだけ。
「誰でも何歳からでも強くなれる」
「武術を学ぶことによって心身ともに健康となり、それによって生まれた余裕で人生をおもしろおかしくはりきって過ごしてしまおう」(亀仙人)
「誰ツヨDOJOy」はそのコンセプトを実践する場。「DOJOy(Do joy)」には「楽しもうぜ」という菊野さんの思いが込められています。現在、道場での指導の根本には「姿勢・動き・リラックス・意識」という考え方があります。しかし、これは今後バージョンアップしていく可能性もあるとのこと。
「『誰でも』とうたう以上、老若男女全ての人が対象です。運動神経や体力のあるなしも関係ありません。強い人ではなくて、強くなりたい人に来てほしい。才能のある人は放っておいても強くなるんです(笑)。
明らかに身体能力に恵まれていない人はいます。そういう人がボクシングなどの格闘技を始めたとしても、思ったようには強くなれない。才能のある人との差もなかなか埋まりません。それを埋める可能性のあるメソッドを『誰ツヨDOJOy』では提供しています」(菊野)
武術はパワー、スピード、スタミナに頼りません。骨格(構造)の強さと体重を効率的に使うこと、そして情報戦に勝ることでそれらを凌駕します。情報戦とは相手に情報を与えないように動き、相手の 情報をキャッチすることです。また、嘘の情報を与えたり、それらに惑わされないことも情報戦です。
これらをうまく組み合わせれば、誰でも何歳からでも強くなれる。武術はそのための知恵を織り込んだ技術の体系です。
「中学時代に柔道を始めて人生が楽しくなった。そんな経験が僕にはあります。多くの皆さんにそうした経験を共有していただけたらうれしい。自信がない人ほど道場に来てほしいと思っています」(菊野)
強くなる=幸せになる
一口に「強い」といっても、指す意味内容は多岐に渡ります。菊野さんが道場で目指している「強さ」とはどのようなものなのでしょうか。
「いろいろな定義があるとは思います。すごく大きな意味で言えば、『幸せになる』ことでしょうか。これは僕自身の体験に基づいています。強くなることで幸せになれた。僕の中で強さと幸せはイコールで結ばれているんです」(菊野)
いざというときに身を守れる。そんな技術を身につければ、普段の生活でもおおらかに笑顔で過ごせるようになります。みんなと仲良くなれるので、人生はより豊かなものになっていくでしょう。具体的にはどんな動作を学ぶのでしょうか。
「『姿勢・動き・リラックス・意識』によってによって自分の体が繋がり、他者とも繋がります」(菊野)
私たちは普段の生活の中で体を「切れた」状態でばらばらに使っています。「姿勢・動き・リラックス・意識」によってその切れた状態をつなぐ。そうすれば、体が本来持っているポテンシャルを最大限に生かし切ることが可能になるのです。
「僕らの体は普段はゆるゆるにたわんだ状態なんです。だから、重さがバラバラになり、力が逃げてしまう。それを糸電話の糸のようにぴんと張った状態にする。そうすれば、重さが一体化して、力も直に伝わるようになります」(菊野)
「姿勢・動き・リラックス・意識」を使った動きをハイブリッドして強くなる。これが「誰ツヨDOJOy」で学べる体の使い方です。伝導の効率がよくなると言えばいいでしょうか。体が文字通り一体化することで力が抜けることなく伝えられます。
「武術は戦争があったり、盗賊・山賊・海賊がいて命が脅かされる時代に生まれたものです。天才たちが自分と家族と国を守るために文字通り命がけで作った知恵の結晶です。形式美など一つもありません。全ての所作には意味があります。
例えば、礼。試合前に礼をすることでぐじゃぐじゃになっている背骨をいったん解放し、揃え直す。そうすると、体は一体化して強い状態になります。頭も体も、そして心も良い状態になります。だから、礼はきちんとしたほうがいいのです」(菊野)
総合格闘技界のトップファイターたちに比べれば、菊野さんは身体能力が特に優れているわけではありません。ベンチプレスで100kgも持ち上げられませんし、足も遅い。持久力も欠けている。それが菊野さんのスペック。これは現実です。
「僕は一番になりたかった。世界の強豪と同じことをしていて勝つイメージが湧かなかった。彼らとは違う武器が何か必要でした。それを探している中で沖縄拳法空手と出会いました。型稽古によって手を振れば人が倒せるようになった。それによって良い勝ち方で5連勝できたことで、世界最大の総合格闘技団体・UFCにも出場できました」(菊野)
『足し算』より『引き算』の強さを
武術の知恵は競技スポーツの最先端で闘う菊野さんにとって大きな効果を生みました。では、私たちは普段の生活の中でどのように活用できるのでしょうか。
「例えば、姿勢です。姿勢が悪いと、仕事のパフォーマンスは上がりません。疲れもたまるし、故障もしやすくなります。体の使い方を変えれば、仕事はもちろん、あらゆるパフォーマンスを上げられます。頭が働き、心も快適でいられるようになるのです。体の中をエネルギーがずっと流れている状態に気づけるようになる。これが武術の効用です」(菊野)
体の使い方という点では昔の人のほうがはるかに効率的でした。例えば、クワを使って畑を耕すにしても、力だけに頼ろうとすれば、すぐにへばってしまいます。
「クワの重さと遠心力を最大化し、それを生み出す姿勢とリラックスができてないと毎日毎日一日中畑を耕すことなんてできません。昔の人の体の使い方は本当に素晴らしかったはずです。現代に生きる僕らも自分の体と心をよく観察してもっと快適に動けるようにすれば、本来の力が発揮できるようになります」(菊野)
人間の力は本来すごいものなのです。しかし、残念ながら、私たちはそれを十分に使えてはいません。
「現代の『フィットネス』はお金を払ってわざわざ疲れに行くようなものです。昔の人にはそんな余裕はなかった。ですから、いかに疲れないように効率的に動けるかを実践するしかありませんでした。人間がもともと備えていた素晴らしさを武術の修業は気づかせてくれます」(菊野)
自分の持っているもの、そして世界との差を冷静に分析し、そのうえで試合に勝つ必要性の中で菊野さんの武術修行は始まりました。自分の持っているものを最大化する必要がありました。
「パフォーマンスを上げるために従来のトレーニング法では『足し算』が一般的です。パワー、スピード、スタミナを増やしていきます。しかし、そのやり方では肉体的な才能がものを言いますし、年齢とともに衰えていきます。武術は自分の骨格の強さや重さを最大化するために、余計な力や動きを減らしていく『引き算』です。だから肉体的な才能を超えられる可能性があるし、年を重ねても強くなり続けられるのです」(菊野)
菊野さんの目指す方向性はかつて携わっていたスポーツとしての格闘競技とはかなり違ったものになってきました。それでも、「誰ツヨDOJOy」には強さに憧れる若い生徒も加わっています。
「若い生徒の中には『自分の力を試したい』と言う子もいます。路上で殴り合いをするわけにはいきませんが、格闘競技の試合に出場する道はあります。僕は格闘競技に出ることを推奨しています。試合までの過程、そして試合で得られるものはとても大きい。一定のルールの中とはいえ、本気の相手と向かい合うのは心技体が磨かれ何よりの稽古になります。自分自身を思いっきり表現できる場があるというのは本当に有難いことです。
格闘競技に勝つにはパワー、スピード、スタミナが必要なので『足し算』のトレーニングをする必要もあります。武術的にもそれらに頼らないというだけで、ないよりはあったほうがいい。若いうちはいろんなことをやるべきでしょう。
でも、年を重ねると体力も気力も限られきますし、多忙な日常を送っている多くの社会人にとっては『足し算』より『引き算』のほうがより早く、より強くなれます。僕は人生を懸けて試合の結果を求めてきましたので、目的に対して常に最善の方法を考え、結果をシビアに求めます。誰でも何歳からでも強くなって頂くことにコミットします。」(菊野)
2018年、郷里の鹿児島県で開催した大会「敬天愛人」で菊野さんは強さに一つの納得を得ました。もともと臆病で「ビビり」な性格だった幼少期。菊野さんはそんな自分をかっこ悪いと思ってきました。格闘家としてキャリアは本来の自分と理想の自分の間にあるギャップを埋めていく作業の連続でした。
「敬天愛人」で菊野さんは無差別級トーナメントに出場。準決勝でヤン・ソウクップと対戦します。ソウクップは身長180cm、体重100kgの堂々たる体躯の持ち主。極真空手の無差別級世界2位、K-1で活躍したピーター・アーツにもキックボクシングで勝利を収めた強豪です。この猛者を相手に170cm、70kgの菊野さんは勝利を収めたのです。
「ソウクップに勝って、自分の臆病さにけじめをつけられた気がしました。『闘う理由』にも一区切りついた。そこからは趣味の世界です。『闘いたいから闘う』ぐらいのスタンスになりました」(菊野)
70歳前後を強さのピークと設定する
格闘家として世界の第一線で闘ってきた菊野さん。指導者として歩み始めた第二のキャリアにも強いこだわりがあります。
「先生としての僕の価値は『生徒がどれだけ強いか』だと思っています。入会してこられた方がどれだけ強くなれるのか。できなかったことができるようになるのか? その深さにも早さにも責任を持って稽古しています。おかげさまで皆さん、2〜3か月もすれば、体の使い方を習得して強くなっていく。
武術の世界にはすごい先生方が大勢おられます。ただ、再現性の面では難しいところがある。その再現性こそが『誰ツヨDOJOy』の強みだと思っています。
僕は理屈っぽいところがありまして、一つ一つの稽古について『これをやれば絶対に強くなれる』という確信がなければ、やる気が出ません。だから会員さん達にも『この稽古はこういうポイントが大事で、こういうことが養われ、こんなことやこんなことができるようになります!』と理論立てて解りやすく説明するように心がけています」(菊野)
「誰ツヨDOJOy」に入門した生徒たちは菊野さんの体の使い方を見て、最初は驚きます。「自分にもできるだろうか?」と尻込みする人もいるかもしれません。しかし、誰でも1日の稽古で変わることは十分に可能です。
「稽古をしていくと毎日毎日違う景色が見えてきます。礼や姿勢にも意味があると知るだけでも大きな変化でしょう。
『進化しないと面白くない』と僕はずっと考えてきました。筋力トレーニングもいいのですが、どこかで必ず頭打ちの状態を迎えます。僕にはそれが耐えられない。
『誰ツヨDOJOy』では70歳前後を強さのピークと設定しています。繰り返しますが、武術は『引き算』の世界。『いかに不要なことをやめていくか』を追求していけば、決して不可能な目標ではないのです」(菊野)
体の緊張を常に観察する
体の使い方を変えるために、日常生活でできる簡単な鍛錬法はあるでしょうか。
「僕も常にやっているのが、『体の緊張を常に観察する』こと。僕には『反り腰』の癖があります。これは腰が前に沿っている状態。骨盤が開いたり前傾したりしているのが原因といわれています。これに気づき、修正すると楽になる。体を観察し、改善していけば、強くて健康になれます。
この観察を補完する役割を果たしてくれるのが『呼吸』です。人間は誰しも寝ている間でも呼吸を止めることはありません。無意識に続けています。一方で意識的に呼吸の仕方を変えることもできる。呼吸は無意識にも働きますが、意識的にコントロールもできる特別なものです。たとえば心臓の鼓動も無意識な働きですが、意識的に止めることはできません。
呼吸は意識と無意識をつなげる鍵なのです。深呼吸をすれば、心を落ち着けられる。反対に意図的に呼吸を激しく浅くすると、自然に興奮してきます。呼吸をうまく使うことで交感神経や副交感神経にアプローチできるのです」(菊野)
呼吸はイマジネーションの世界にも直結していると菊野さんは言います。
「吸い込んだ空気が全身を膨らませているとイメージしてみましょう。全身が膨らんだ状態だと、1か所も縮んだところはありません。頭のてっぺんから両足の指先まで張りがあり、それによって全身が一体となり、繋がっています。
吐くときも同じです。風船を膨らませるように、体の中に空気を吐き込むような状態をイメージします。吸っても吐いても体がぷくっと空気で膨らんでいるような感じです。
このとき、体の全てが均一に膨らんでいることが大事。均一でない箇所があるとすれば、そこには力みが生じています。
体全体が空気で膨らんでいると感じられるとき、血流もエネルギーも情報も滞りなく流れていて体や頭、心はとてもいい状態にあります。
日常生活の中で歩きながらでも呼吸を使って体をよい方向に保てます。リラクゼーションや疲労回復にも効果が期待できるでしょう。これだけでも強くなれるのです」(菊野)
体の使い方を変えるだけで心身ともに健康となれます。それによって生まれた余裕で人生をより豊かなものにする。
「それが強くなるということだと思います」(菊野)
コロナ禍や戦争で私たち個人の生活にも大小さまざまな変化の波が押し寄せています。そんな今こそ、体の声に耳を澄ましてみてはどうでしょう。
格闘家ではない私たちの人生にもいろいろな形の「闘い」が待ち受けています。避けて通るわけにはいきません。理不尽さに耐え、凌いでいく。そんな強さを手に入れる上で武術から学ぶべき点はたくさんありそうです。
執筆:片田直久/撮影:我妻慶一