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2022/9/24 20:30

よいものづくりは国境を越える! 日本の製造業の未来に玉袋筋太郎が追る!!

〜玉袋筋太郎の万事往来
第20回 由紀ホールディングス株式会社・大坪正人

 

全日本スナック連盟会長を務める“玉ちゃん”こと玉袋筋太郎が、新旧の日本文化の担い手に話を聞きに行く連載企画。第20回目のゲストは、様々な精密切削加工部品の製造を行う1950年創業の「株式会社由紀精密」を始め、13社のグループ会社を率いる「由紀ホールディングス株式会社」の代表取締役社長を務める大坪正人さん。ITバブルの崩壊で傾きかけた家業を3代目社長として引き継ぎ、今や世界に名を轟かせる会社にまで成長させた大坪さんのキャリアに玉ちゃんが迫る!

 

株式会社由紀精密公式サイト:https://www.yukiseimitsu.co.jp/

由紀ホールディングス株式会社公式サイト:https://yuki-holdings.jp/

 

(構成・撮影:丸山剛史/執筆:猪口貴裕)

リーマンショックで傾いた家業を立て直すために奮闘

玉袋 まずは「株式会社由紀精密」の歴史から教えていただけますか。

 

大坪 私の祖父が立ち上げた会社で、1950年に創業しました。創業当時の社名は「大坪螺子(らし)製作所」で、螺子はねじのことなんですが、ねじを中心として、ねじと同じぐらいの小さなサイズの金属部品を削って作るということを、ほぼ家族経営に近い小さい規模でやっていました。1980年代に入って、テレホンカード式公衆電話の部品なども作っていて、大量生産で売上を上げてきたんですが、十数年で世の中にテレホンカード式公衆電話が行き渡ってしまいました。そうすると、やることがなくなってきちゃいますよね。

 

玉袋 1990年代に入ると携帯電話も普及し始めるしね。

 

大坪 仰る通りで、携帯電話が普及すると、お客様からの受注がどんどん減ってきたんです。世の中にある製品の金属部品やねじも少なくなっていく一方。また、2000年台のITバブル崩壊など、その後も他の部品の減少も影響があったために、経営も危なくなってきたんです。それまで私は大学院を卒業して他の会社に勤めていたんですが、2006年に家業の由紀精密に戻りました。経営の立て直しをしようということで、まずは強みである精密な金属の切削加工技術を活かせる分野に挑戦していこうと考えました。それが航空宇宙関連部品や医療機器関連部品、時計やオーディオ機器などで、金属が使われる、あらゆる分野にその技術を使って展開していきました。

 

玉袋 それまで縁のなかった業界に、どうやって切り込んでいったんですか?

 

大坪 まずはWebサイトを作って、いろんなところに技術力をアピールしました。最近ですとSNSを使って、広く情報発信をしています。あとは自分たちで技術が伝わるサンプルを作って、展示会に出して、仲間を作っていくんです。受注先のメーカーもそうですし、同業者の加工屋さんや、工業系の業界の人たちのネットワークを広げて自社の得意とする加工を知らせていきました。そうすると量産産業で大量の品物をずっと流す仕事とは違った、少量生産ではありますが、ニッチで特殊な注文がいろいろな会社から入ってきたんです。

 

玉袋 大手企業にはできない強みを生かしているんだね。

 

大坪 ものづくりをする中小企業の加工屋さんは、うちのように小ロット多品種で回しているところが多いんですが、こういう業種は昔よりもどんどん減っています。業界全体で製品の標準化が進んでいるのもありますし、大量生産は海外でやりましょうというのが、ここ数十年のトレンドなので、厳しい状況が続いています。最近はロシア・ウクライナ問題があったり、円安になったりで、多少は国内回帰の動きもあるのですが、基本的にグローバル調達に変わりはないような状況です。量産品が次々と海外生産に切り替わる流れの中で、今も残っている中小製造業は、付加価値が高くて、少量多品種にしてというようなところが多いんです。

 

玉袋 どうやってお客さんのニーズに応えているんですか?

 

大坪 お客さんから要望をいただいたら、とにかくそれにチャレンジしてできるようにする。お客さんのニーズを元に、できる範囲をどんどん広げていく。そこは金属加工という分野で数十年間の歴史があるので、基礎になる技術はあるんですよね。それをどうやって応用させていこうかと考えることで、今までやってこなかった分野に展開しています。

 

――こういう業界ではWebサイトを開設したのも早かったのではないでしょうか?

 

大坪 かなり早くからやっていたと思います。私は1994年に大学に入ったんですが、その1~2年後、初めてHTMLの講義を受けた時にWebサイトを作ったんです。今はもうないブラウザを使って、ものすごく手作り感のあるWebサイトでした。

 

――由紀精密の公式Twitterも2010年3月から始めていますけど、かなり早いほうですよね。

 

大坪 新しいメディアができたら、とりあえずやってみるようにしています。長続きしているものもあれば、やめちゃったものもありますけどね。仕事のアイデアや挑戦も、世に出たものから全然ダメだったものももちろんあります。

 

玉袋 大坪さんが由紀精密に入って、すぐに業績に変化はあったんですか?

 

大坪 それが、いろいろな取り組みをやっていたんですけれども、2008年にリーマンショックがあって、売り上げにも大幅に影響があり、さらに辛い時期に入ってしまいました。本当に仕事がなかったので、いろんな方法を使って、社員と一緒にとにかく営業活動に力を入れました。新規のお客さんと会う際には、その企業の事業の特徴や求めていることを調べあげ、徹底的に相手に合わせて提案をする。もちろん苦しかったんですが、そこで何十社もの新しいお付き合いが生まれたおかげで、リーマンショックが終息した時に、前よりもいい角度で売り上げが伸びていきました。

苦しい時も次々と手を打って、攻めの姿勢を崩さなかった

玉袋 会社がピンチの時、職人さんの年齢層はどんな感じだったんですか?

 

大坪 私が入ってきた時には、平均年齢は高かったですが、現場で頼りにされている職人さんの年齢が30代後半と、わりと若かったんです。その方には今も加工のスペシャリストとして勤務していただいています。上の世代の70代のベテランの方は、定年で退職される方や業績不振で離れられる方もいて、ちょうど世代が入れ替わっていた時期でした。社員は当時の十数名から、今は40名ほどに増えているのですが、そうやって上の方が退職されて、中堅クラスが上に上がり、さらに下の世代が増えてきているんです。ずっと高校生採用も続けていたので、今の平均年齢は30代半ばぐらいですかね。会社の規模が大きくなっていく時に、若い人を採用していったので、自然と人口ピラミッドは若い方に広がっていきました。

 

――新規のお客さんのニーズに答えるために、工場の拡張などはしたんですか?

 

大坪 大きな拡張はしなかったんですが、必要ごとに1台1台機械を導入していきました。装置産業という面もあるので、その機械ができる範囲はある程度決まってしまっているんですよ。やっぱり機械にも寿命があるので、部分的に置き換えていくんですが、その時に新しい仕事に適した機械を入れていく。1年間に2台ぐらいのペースで、じわじわと転換していきました。

 

玉袋 人も機械も上手く入れ替わっていますけど、その転換が上手くいかない会社も多い訳ですよね。由紀精密は何が違ったんですか?

 

大坪 もともと持っている技術や職人さんをリスペクトした上で、とにかく考えうる手を打ちまくったんですよね。その中で失敗することもありますが、めげずにやり続けて、どんなに状況が厳しくても会社を縮小せず、工夫して無料の展示会に出展するなど、新しいことに取り組み続けました。どうしても苦しい期間は、お金を使わないで、縮こまって静かにやり過ごそうとしますけど、それだと下がる一方だと思ったんです。辛い時も攻めていったというか。

 

玉袋 素晴らしい姿勢だね。先ほどお話に出た宇宙の分野は、どうして進出しようと思ったんですか?

 

大坪 我々の金属加工の技術をどこに展開しようかというところで、航空機、宇宙分野、医療機器、ロボットなど、これから伸びていく可能性があるところにしようと考えました。宇宙は、まだまだまだこれから広がっていくマーケットですし、部品は究極の少量多品種。また、私たちのような規模の会社は、一品や少量〜中量生産程度のリクエストに向いています。そういう意味で宇宙がすごく魅力的だったんです。というところから「国際航空宇宙展」という展示会にサンプルを持っていって、そこで仕事をきました。

 

玉袋 すぐにオファーはあるものなんですか?

 

大坪 声はかかるんですが、そこから仕事に持っていくまでが大変です。展示会に何を展示するのかも重要で、我々は削るのが非常に難しい金属の切削サンプルを持っていきました。そういうサンプルは技術者の目を惹きますから、「どうやって作ったんですか?」という話から声がかかって、商談を進めていきます。あとは仕事につなげるテクニックですよね。どうしたらまったく初めてのお付き合いから仕事を依頼してもらえるのか、すごく考えたんです。とにかくお客さんが困っていることを解決できるように、自分がもともとエンジニアとしてやってきたことや、デジタル化の技術を活かす。そして会社が昔から積み重ねてきた金属加工の技術によって、お客さんの悩みを解決することを繰り返しました。何かしらお客さんには困っていることがあって、そこに一つでも解決案を提案できると、試しにちょっとした仕事を依頼してもらえることがあるんです。そこから踏み込んでいって、依頼いただける幅を広げていきました。

現在も日本の会社がないと、世界で半導体を作れないという状況

――大坪さんのキャリアについてもお聞きしたいんですが、学生時代は稼業を継ぐ意思はなかったそうですね。

 

大坪 なかったですね。親も「継がないほうがいい」と。親の経験から、家業のような町工場は本当に苦労するから、勉強して、いい大学に入って、大企業に入ったほうが、絶対にいいと言われていました。

 

玉袋 東京大学大学院工学系研究科産業機械工学専攻修了して、大企業ではなく、ベンチャー企業に就職したそうですね。

 

大坪 大学院を卒業する時は、大手メーカーに入る道もあったんですが、なぜか大企業ではないところに行きたくなっちゃったんです。それで、ものづくりのベンチャー企業に入って、そこで6年半ほど務めました。私が入社した時は数十人の会社だったのが、6年半で1000人を超えるくらい伸びていきました。

 

玉袋 どういう会社だったんですか?

 

大坪 ものづくり業界という意味では今と一緒なんですが、もっとデジタル化に強い会社でした。最近で言うと「インダストリー4.0」なんて言葉もありますが、3D CADや3Dプリンターなどを使って、できるだけ効率化して物を作りましょうと。図面や紙からよりデジタルの利点も活かすことで、日本のものづくりの強みをさらに強化していきましょうというようなことを実践している会社だったんです。

 

玉袋 どうして家業を継ごうと思ったんですか?

 

大坪 先ほどお話した通り家業がピンチだったというのが一番なんですが、継ぐために戻ったというよりは、親の仕事を手伝って、とにかく家業を立て直していこうと。なので最初は前の会社に戻るつもりで、何とか3年ほど頑張って家業を存続させようと思ったんです。

 

玉袋 前の会社は大坪さんに戻ってきていいと言ってたんですか?

 

大坪 はい。社長がものすごく良くしてくださって、そのまま籍を置いていいから、家業が落ち着いたら戻って来ていいという契約にしてくれたんです。その契約で1年間ほど過ごしましたが、掛け持ちでできるような状況ではなかったので、親の会社に集中しようと前の会社は退職させていただきました。そうこうしているうちに、存続させたからといって、私がいなくなっても会社が自走していくような甘いものじゃないなと気づいて。それで会社を継ごうという気持ちも強くなり、2013年、社長に就任しました。ただ昨年、社員であり当時の事業部長に社長に就任してもらいました。今は2017年に創業した由紀精密のグループの「由紀ホールディングス株式会社」という会社で、代表取締役社長をやっています。

 

玉袋 グループ会社の幾つかはM&Aですか?

 

大坪 そうです。由紀精密でやってきたようなことを、多くの中小製造業にも展開できるのではと考えました。中小企業って1社が小さすぎて、なかなか効率を上げるのが難しいんですよね。そんな中で会社が集まって、1社では持つことが難しい人財採用や広報、海外営業などの機能をシェアし、効率化を図って技術を磨くことに集中できるようにしていくようなコンセプトです。前職のベンチャー企業でそういった会社を支援する経験もあり、ずっと構想を考えていたんです。

 

――ベンチャー企業から、家業を継いで、ギャップみたいなものはなかったんですか?

 

大坪 デジタル化の進んでいた業界から、トラディショナルな会社に入って、当時は全てがギャップでした。でも、そこから十数年かけて、ちょっとずつちょっとずつデジタル化できるところはやっていって、3D CADを入れたり、プログラムも自動で作れるようになったりして、生産管理システムも今はデジタルで運用しています。

 

玉袋 日本といえばものづくり大国と言われていたけど、今は厳しい状況じゃないですか。たとえば今話題の半導体も、以前はトップだったのに、どんどん凋落していますけど、そこはどう考えていますか?

 

大坪 確かに半導体自体を作るという部分では、いろんな国に遅れているんですが、半導体を作るための製造装置に関しては、まだまだ日本は世界でも強いと考えています。今も日本が作った半導体製造装置をいろんな国に輸出して、輸出先が半導体を作るという状態ですよね。我々のグループ会社でも半導体製造装置の部品を作っているんですが、そこはまだ日本にも強みがあります。日本の会社がないと、世界で半導体を作れないという状況はあるんですよ。

 

玉袋 まだまだ腕っぷしはあるってことだね。

 

大坪 日本が半導体製造に後れを取ったのは、仕方がない流れでもあると思います。たとえば、かつてのアメリカは家電から自動車まで、何でも自国で作っていましたが、高度経済成長の日本が台頭してくると、みんな日本に移っていったわけですよね。その時と同じで、日本からアジアにものづくりの大半が移って行った場合、日本は次に新しい産業を作り出すべきなんです。実際、今のアメリカはものづくり産業を中国やアジアに移しても、ものすごい勢いで経済が伸びていますよね。

 

玉袋 そのお話を大坪さんから聞いてほっとしました。最近は一方的に、「もう日本は駄目だ」という報道が多いじゃないですか。

 

大坪 強みはまだまだありますが、ただ、日本の賃金が上がらない問題や、世界の中での地位、GDPの占める割合も圧倒的に減っていますし、全体を考えるとなかなか厳しいですよね。

時計から宇宙まで世界中の幅広いニーズに応える

玉袋 なんか、いろいろな問題が繋がっているね。ところで、ここにあるのは何ですか?

 

大坪 由紀精密で作っている金属部品の一部です。たとえば、これはロケットエンジンの部品サンプルです。手に取っても何が難しい技術なのか、なかなか分かりにくいと思いますが、エンジンなどの非常に高熱の環境で使用されるので、耐熱合金という熱に強い材料を使うんです。一見すると身の回りにある普通のステンレスや鉄に見えるかもしれませんが、実はニッケルの割合がものすごく高く、特殊な金属なんですよ。これの何が大変かというと、削るのがすごく難しくて。他の金属と同じように普通に削ろうとすると全然歯が立たない。いろんなメーカーさんと技術的なやりとりをして実現しました。

 

玉袋 この部品が宇宙に行ったかと思うとワクワクするね。

 

大坪 たとえば、こちらの部品の断面なんですが、ちょっとザラザラしているじゃないですか。金属の粉末を電子ビームで固める3次元造形(金属3Dプリント)と切削加工の後加工で、こういう形を作っているんです。これはJAXAと3年ほどかけて共同開発をして、実際に国際宇宙ステーションの補給機「こうのとり」(HTV)に搭載された小型回収カプセルの姿勢制御装置として使われていた部品なんです。

 

玉袋 この部品が宇宙に飛んでいる時はどんな気持ちだったんですか?

 

大坪 心配でした。というのも無事に地上に降りてくるまで、一切うちが作ったことを公表していなかったんです。大気圏に突入すると燃え尽きちゃいますから、万が一失敗してしまったらまったく公開できないプロジェクトだったんですよね(笑)。ここに若田光一さんのサインも書いてある感謝状を飾らせていただいていますが、JAXAの方がここまで届けに来てくれました。

 

玉袋 これだけ大きなプロジェクトに関わりつつ、従来の仕事もあって、大坪さんも体一つじゃ足りないですよね。

 

大坪 そうですね。会社も増えてきちゃって大変です(笑)。

 

玉袋 時計の部品も作っているんですよね。

 

大坪 はい。この画像にあるトゥールビヨンと呼ばれる機械式腕時計の部品を全部由紀精密で設計製造しているんですが、これを「バーゼルワールド」というスイスの時計展示会に展示したところ、世界的に評判になって、海外のメディアにも取り上げられました。浅岡肇さんという世界的に有名な独立時計師の方と組んで、共同開発しています。

 

玉袋 浅岡さんは存じ上げております。

 

大坪 浅岡さんのブランドの製品の製造を担当したことで、ヨーロッパでも由紀精密の名前が知れ渡ってくれました。スイスのメディアが、ここの工場まで取材に来てくださって、YouTubeに「Watch TV」というチャンネルがあるんですが、そこでも紹介してくれたんです。それをきっかけにヨーロッパの時計職人さんの中でも有名になって、今はヨーロッパだけでも10社以上の、コンパクトな時計メーカーさんと取引をさせていただいています。

 

玉袋 スイスを唸らせたっていうのがすごいね。

 

大坪 何とかスイスの人たちにもびっくりしてもらおうと、日本もここまでできるってことを知って欲しいという思いでやっています。

 

――海外と日本で取引先の割合はどれぐらいなんですか

 

大坪 まだ圧倒的に日本のほうが多いです。直接海外と取引しているのは10%ほどですが、最近さらに増えてきています。こういう時計のプロジェクトやヨーロッパで展示会に出展するようになると、フランスにある子会社にも現地の情報が集まってきます。確かにすごい技術力を持った会社も多いですが、日本企業が負けているかというと、まったくそうではないです。きちんと技術力を世界にアピールしていけば、まだまださらに広がっていく可能性はあるんです。今は円が安くなってるじゃないですか。それはいいことじゃないんですけれども、チャンスでもあるんですよね。

 

玉袋 え! そうなんだ。

 

大坪 海外からしてみると日本の部品が前よりも安く買えるわけで、そうすると、今まで日本には高くて出せないよって言ってた国から依頼がある可能性がある。うちだと切削加工でインドのお客さんから受注がありました。インドから日本に頼むって以前だったら逆な感じがしますよね。今までは安いからアジアで作ってもらおうだったのが、アジアもどんどん最先端になっている。インドも産業が近代化していって、精密な部品を作りたいのだけど、なかなか産業が追いついておらず国内で作れないということで、日本に発注しているんではと思います。「よいものづくりは国境を越える」。ヨーロッパ展開の時に打ち出していたメッセージですが、最近ではそういうニーズも捕まえようとしています。

 

玉袋 インドはいいよね。伸びしろが違うよ。それにしても時計から宇宙まで幅広いけど、根本にはねじがあるんですよね。ここにあるのなんて、顕微鏡で見ないと分からないぐらい小さいねじですし。

 

大坪 そうですね。今でも汎用的なねじももちろん作ってますし、ねじ一つとっても本当に幅広いです。ただ、ねじって少しかわいそうな運命を辿っているんですよ。昔は世の中には、今よりねじがたくさん使われていました。ねじが減ってきた理由はいっぱいあるんですが、一つはプラスチックの性能が良くなってきたことがあります。昔の製品って、たとえばテレビのリモコンなどの樹脂製品を見ると、必ず四隅に穴が開いていて、そこをねじで留めてたじゃないですか。今はそれがないんです。

 

玉袋 言われてみると確かにないや。

 

大坪 なぜかと言うと、プラスチックの性能がすごく良くなってきて、パチッと嵌合がハマるんですよね。あと、両面テープや接着剤で事足りるところもあります。設計者にしてみると、小さなねじでも、機械部品を一つでも減らすことがコストダウンになるので、とにかくねじを減らしていこうという設計になるんです。

 

玉袋 言われないと気付かないもんだね。

 

大坪 あとは世の中のものが、どんどん半導体プロセスでできている影響も大きいんです。たとえば昔のカセットテープや8ミリビデオは、中に金属が入っていました。その後、ハードディスクが主流になりますが、一応ディスクがあるので、まだ機械が残っていたし、ねじもあったんです。それがSDカードになっちゃうと、電子回路と樹脂のパッケージで出来上がるので、ねじが必要なくなります。そんな要因が重なって、世の中の量産品で、ねじを見なくなっちゃっているんですよね。

 

玉袋 スマホもそうですね。

 

大坪 見える部分に1本もねじがないですよね。そういう世の中になってきているので、全体的なねじ自体の需要は非常に減ったと思います。ただ、あるところに需要はあるんですよね。たとえば車はいまだ沢山のねじを使いますし、飛行機もそうです。要は大きな機械を動かして、非常に強い力がかかるようなものは、まだ専用のねじでなければいけません。というのもメンテナンスのために部品を一度外して、またまったく元通り締め直すという工程が必要なので、それには接着などではなく精密なねじが必要なんです。

あと、うちで言うと医療機器の製造承認を持っていて、背骨の手術に使うボルトなども製造しています。たとえば脊椎がずれたり、骨折してしまったりした時に、そのボルトを打って、その間にブリッジとして金属の棒を通して固定する手術に利用します。これにより、これまで背中を大きく開くような身体に負担の大きい手術の負荷を軽くすることもできるようになりました。本当にねじの量は減っていますし、由紀精密も従来のねじだけでそのまま続けていたら、今頃は生き残っていないですが、やり方次第で技術を繋いで展開していけるんです。

 

玉袋 今日は大坪さんの話を聞いて安心しましたよ。なんか日本は負け組のような気がしていたからね。勝ち負けじゃないんだろうけども、まだまだすごい人たちは日本にいるんだっていうところを証明していってほしいね。それが子どもたちの世代にも届いて、ものづくりに興味を持ってもらいたいな。

 

 

玉袋筋太郎

生年月日:1967年6月22日
出身地:東京都
1987年に「浅草キッド」として水道橋博士とコンビを結成。
以来、テレビ、ラジオなどのメディアや著書の執筆など幅広く活躍中

一般社団法人全日本スナック連盟会長
スナック玉ちゃん赤坂店オーナー(港区赤坂4-2-3 ディアシティ赤坂地下1階)

<出演・連載>

TBSラジオ「たまむすび」
TOKYO MX「バラいろダンディ」
BS-TBS「町中華で飲ろうぜ」
CS「玉袋筋太郎のレトロパチンコ☆DX」
夕刊フジ「スナック酔虎伝」
KAMINOGE「プロレス変態座談会」